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この記事はプラトンの「饗宴」の哲学的解釈ではありません。
プラトンの饗宴についてだが、学生時代にはじめてシェイクスピアを読んだときよりも、ずっと人間らしい会話であるから、読みやすく笑えもする。
だか、「反対の反対の賛成の反対」なんていうもったいつけたところも多く、結局のところ重大な指摘などどうでもよくなった。
Venus and Cupid 1537 Lucas Cranach (the Elder)
「ヴィーナスとクピド」(ヴィーナスとアモル)
スコットランド・ナショナル・ギャラリー クラナッハ(父)
それよりも「骨玉」の遊び方や「ヘルムアプロディテ」のことのほうが関心がある。ヘシオドスやアクシレオス、パルメニデスの引用も面白い。
まずは「ヘルムアプロディテ」のことを語る前にヘルメース(メリクリウス)とアフロディテ、そしてなにより話題の中心エロスについて、少々物語りからひろってみる。
プラトンの饗宴での検索が多いようなのでとりあえずあらすじ
饗宴のサブタイトルは恋(世界の名著 プラトンI)、たぶんいまなら愛だろうか。
「恋とはエロス(愛)」である。これはアガトンの祝賀饗宴にプラトンが出席したという設定で、ソクラテスの崇拝者がその饗宴の出来事を語って聞かせる物語。
ソクラテスがエロス賛美のお話しをはじめ、アリストパネス、パイドロス、エリュクシマコス、アガトンらがそれぞれの説を述べる。
愛(エロス)、知(ソピアー)、愛知者(ピロソポス)、そして永遠なる美のイデアに到達。アルキビアデスは少年愛(パイデラスティアー)を酔いにまかせて語る。そしてソクラテス賛美で幕。
エロス と アフロディーテ (クピドとヴィーナス)
パイドロスは語り始めた。
「ヘシオドスによれば
万の神々に先立ちて、まずエロスこそ創りいだせり」
Venus and Cupid 1531 ベルギー王立美術館
(Venus and Cupid as the Honey Thief)
ヴィーナスと蜂蜜泥棒のクピド
Lucas Cranach (the Elder)
つまりエロスはカオスから生まれたらしい。
エロスはクピドとも言い表すが、エロスは少年まで達するとまた幼児にもどり、そしてまた少年まで成長するという繰り返しがあるらしい。
永遠の少年とは彼のことだろう。このエロスがアフロディーテ(ヴィーナス)が嫉妬するほどのプシュケと結婚する物語がある。
幼児にもどるエロスだけど、結婚はしたようだ。
記事
「モーリス・ドニ クピドとプシュケの物語 連作」
さて、プラトンの饗宴ではパイドロスはなおも続ける。
「アプロディーテーはエロスと共にいる女神。
事実は二柱のアプロディーテーがおわしまし、
エロスも二柱ということになる。」
「ウラノースを父としたウラニオスに共するのをウラニオスとよぶエロス」
「ゼウスとディオネに生まれたアプロディーテーに共するがパンデモスとよぶエロス」
つまりパンデモス・アプロディーテー(俗生)とウラニオス・アプロディーテー(天上)の二柱いるという。そしてエロスもパンデモス・エロス、ウラニオス・エロスとなるのか。
Venus and Cupid 1525-27 メトロポリタン美術館
Lucas Cranach the Elder
またエロスはアフロディーテの子だとは「饗宴」では誰も言っていない。だがギリシャ神話のなかにはそうした記述もある。またメルクリウスとアフロディーテの子としているものもある。アフロディーテと同一視されていなかった頃のウェヌスとメルクリウスとの子なのだろうか。
記事 愛と美の女神アプロディーテー ヴィーナスの誕生
記事 ボッティチェリ La Primavera 「プリマヴェーラ(春)」 ダンテの神曲の楽園説
記事 ボッティチェリ 至福の花々 (サンドロ・ボッティチェッリ)
パイドロスはいう。
「かの天上の性をもった女神ウラニア・アプロディーテーに属するエロス(愛、翻訳には恋)であって、自身もこの世ならぬ天上のものであり、国家にとっても個人にとってもきわめて価値多きものである。」
つまり男女のエロス(愛)に限らず国家のイデア形成になるっていうわけ。さらに徳を得て、注意深く配慮反省するように仕向けられているという。
Venus and Cupid as the Honey Thief 1537以降
ベルリン美術館
Venus and Cupid 1530
ベルリン美術館
Lucas Cranach (the Elder)
「別種のエロス(愛、翻訳には恋)は、もう一方のパンデモス(低俗な)な女神、パンデモス・アプロディーテーに属するのである。」
こうしてパウサニアスの話しを引き合いに出しながら彼の語りは終わった。
「パウサニアスが話し終えると(パウサニアスがパウサメノス)、----- なんて語呂合わせはその道の達者からせしめてね。」などオヤジギャグをとばしながら、次の語り手に話しを渡した。
ちなみにアガトンの語りがひと段落ついたところで、ソクラテスとディオティマの対話が語られる。
ディオティマが言うにはアフロディテーの誕生祝宴で、ぺニア(ポポス 貧しさの象徴)が企んで酔い潰れたポトス(富の象徴)に臥し、エロスを生んだという。
なぜか、ディオティマは「エロスがアフロディテーに仕えるのはそういうわけです。」というがどういうわけ?祖母と孫という関係をそういうわけっていっているだけ?
ヘルメスとアプロディーテの子 第三の性
ヘルムアプロディテ(ヘルマフロディトス)
アリストパネスは3番手で語る。それは第三の性について。
人間には、男女のほかにもう一種いるのだと。男女(オメ)といわれる「アンドロギュノス」のことだ。
ひとつの身体に頭、手足、生殖器が二つづつ。男男、女女もいたらしいが絶滅したという。男女のアンドロギュノスは雌雄同体になるだろうか。
彼らアンドロギュノスの驕慢に怒りを覚えたゼウスは、アポロンに命じて半身にさせたが、自分の半身を求め一心同体となった。蝉のように地中に卵を産む。ゼウスは女性の体内で生殖できるよう考えた。種族の繁栄も考えて。
さて、ここにアフロディーテ(ヴィーナス)はどう関わっているのか。
Venus with Mercury and Cupid
'The School of Love'
Antonio Allegri da Correggio
画像はエロスに愛の教育をするヘルメス(メリクリウス)でウェヌスが母親らしく側にいる。エロスの出生の諸説のひとつ。
さて「変身物語」にはあるものの、なぜか「饗宴」にはヘルムアプロディテの誕生とヘルメス(メリクリウス)とアフロディテ(ウェヌス)の結びつきが欠落していた。注釈で載っていただけ。
饗宴で両性具有(半陰陽)の話しに持ち出されたのは、アフロディテの夫である鍛冶のへパイストス。彼は片時も離れない二人を溶融させて、一人になるという欲望と追求のエロス(恋)を象徴させた。
饗宴では
一方の運命(再分割)から逃れ、他方の運命(再統一)を手に入れるために、
(略)
恋を成就して、それぞれの自分の恋人を手に入れ、本然の姿にもどるならば、我々人間の種族は幸福になるだろう
別々が子孫繁栄には一番だと言っている。
だが「アンドロギュヌス(アンドロギュノス)」という両性具有(半陰陽)となったヘルムアプロディテは、どうだろう。
ヘルメス(メルクリウス)とアフロディテ(ウェヌス)の子ヘルムアプロディテ。その名のとおり、この二人の男親と女親の名前をつけられた。
それは二人の美点をすべて持ち合わせた子であったからというのが名づけた理由らしい。まるでヘルムアプロディーテーにふりかかる悲劇を予見したかのような由来でもある。
変身物語のサルマキス。
(ホント、女の情念って怖い。)
ディアナのニンフの一人サルマキスは、ヘルメスとアフロディテ(メルクリウスとウェヌス)の子であるヘルムアプロディテ(ヘルマフロディトス、ヘルマプロディートス)に激しい情熱をむける。ヘルムアプロディテはサルマキスの愛を拒むが、知らずにヘルマキスの支配する湖に飛び込む。
ヘルマキスは湖のヘルムアプロディテに抱きつき二人を結びつけるよう神に願いをかける。彼らは「アンドロギュノス」となったのだ。
我が身の恐ろしさに凍りついたヘルムアプロディテだった。
プラトンの饗宴にもっともふさわしい登場人物なのだが。「饗宴」から引用するヘルムアプロディテの様相は以下のとおり。
男女両性を備えた「ヘルムアプロディティ」。顔は少女。、背は少年、胸は少女、腰は後ろが少女で前が少年。太腿は少女、脛は少年で男女両性ももっとも美しい部分を集めている。
シェイクスピアはソネットでヘルムアプロディテを思われるような「アンドロギュヌス(アンドロギュノス)」を謳っている。僕はこのソネットを一般に訳されているものとまったく別な角度で翻訳している。プラトン「饗宴」で語られた両性具有(半陰陽)とヘルムアプロディーテーに結びつけて。
ソネット集 The Sonnets by シェイクスピア
No.20
A woman's face with Nature's own hand painted
Hast thou, the master-mistress of my passion;
A woman's gentle heart, but not acquainted
With shifting change, as is false women's fashion;
An eye more bright than theirs, less false in rolling,
Gilding the object whereupon it gazeth;
A man in hue, all 'hues' in his controlling,
Much steals men's eyes and women's souls amazeth.
And for a woman wert thou first created;
Till Nature, as she wrought thee, fell a-doting,
And by addition me of thee defeated,
By adding one thing to my purpose nothing.
But since she prick'd thee out for women's pleasure,
Mine be thy love and thy love's use their treasure.
素早く塗り替えられた女の顔
これまでもそうであったかのように
宿主の情熱を支配する情婦の奇主
女のやさしい仕草もしらず
偽りのこの身が装う女の衣
誰よりも輝くばかりの瞳からは
わずかな嘘を見ることはない。
見つめるものは虚飾の輝き
際立つ標も色艶も抑え込むほどに
男の眼差しをあつめ、女の魂さえ驚かせる
はじめは女として誕生した奇宿
お前の強い恋情に女神がひとつ取り上げた
わたしはすべてを失なって、たったひとつ残された
おまえは女の喜びのためにこそと我が身を刺した
そしてわたしはおまえの愛と宝石のひとつになったのだ
自分が選択しなかった苦悩と残酷さだったか、あるいは半身を求めた喜びを表現したのか。
ヘルマフロディトス(ヘルムアプロディテ)とサルマキス
パルトロメウス・スプランヘル
だがヘルムアプロディティならどうだろうか。やはり悲劇になる。
この訳に関しては、まったくの意訳ではない。単語の複数の意味から、現在翻訳や個人で訳されているものと別な意味を選択しただけ。
たとえば「Gilding the object」
これは「見つめた全てが輝いていく」とか「みつめる先は黄金の光」などのように訳されているが、僕は素直にメッキ、金メッキを想像して、単語の意味ではうわべだけという解釈を選んだ。
またジェンダーとしての訳しかたもあるし、たとえば交互に男女を配した訳も可能かなと思った。最初は男、次が女というように。また男性になった女性、女性になった男性でも、喜びと悲しみの両側面からの訳も可能かと思われる。
だが両性具有とジェンダー論をいっしょにしてはいけない。周囲も自分も男だと思っていたら女性だったとか、女性だと思って成長したら男だったとか、つまりは染色体の問題だからだ。
wiki
たとえば男性仮性半陰陽(遺伝子は男性だが女性の形態をとる)の場合、本人もそれと知らずに結婚、一生を女性として過ごすこともある。ただしこの場合、膣はあるものの子宮が痕跡的で少なくとも機能しないため、自然な妊娠はできない。
プラトン 饗宴 ディオティマ
ディオティマは実在した人物ではない。だがモデルはいるのではないだろうか。 時代は違うけれど、たとえばヒュパティア(Hypatia)のような。
ディオティマは愛について語るのを簡単に書いた。なんといっても第三の性「ヘルムアプロディテ(ヘルマフロディトス)」のほうに関心があったから。哲学の解釈とは別にね。
ディオティマが語る中間ではディオティマがソクラテスを問い詰めるような話し方で、彼女がいう「愛」についてひとつふたつ書き出していく。知っている人も多い話だけれど。
「美しくないものは必然的に醜いのですか?」
「賢くないものは無知だというのですか?」
ここで中間というものを象徴している。
ディオティマから横道へ。ディオティマには悪いが、現代の「中間」は、そのイデアと異なる。中間というものは「美しいほう」、「賢いほう」という自認をしているからだ。
中間とは何かというイデアが持てないために、中間が多い層の常識が一般化している怖い現代だ。
ちょっとだけ饗宴のディオティマに戻る。つまりエロスが中間で、美に恋し、知に恋しするという。要は美に恋するのと、美に近いと勘違いするのとでは違う。
ディオティマから横道へ。知を愛する人と無知ではない人の違いは、賢くなくとも無知ではない人は、賢いという道具を使いたがる。
だから疑問を持たない。読んだ本、検索した答え、エキシビジョンの前座で誰々先生の話を受け売りにしたまま、追求や探究心を持たない。イベントに振り回されて、イデアを知らなくなってきた現代人は中間層なのか、無知なのか。
僕の疑問はそこに尽きる。
ソクラテスもディオティマに傾倒しているようで、彼女の理論に疑問を持たないところが不思議である。
ちなみにこのディオティマとダンテの神曲に登場するマティルダ夫人のものの言い方なんだけど、すっごく似てる。翻訳者は違うのに。
男にモノを教える女性の特徴だろうか。
さて少しだけ哲学的な視野にたつと、「何であるか」を問い求めるソクラテスなのに、このディオティマとの間に不足を感じるのだ。
ディオティマの教授するという一方的な情報提供につっこみしてないんだ。面白くない。
プラトン 饗宴 エロスの出生
神話の伝承だから、これがエロスの出生だというものがなくともいいと思う。
いくつかの諸説でさまざまな絵画や文学が何世紀にもわたりつくられているわけだけれど、アフロディーテから誕生したという説を用いたときに、父親はマルス(アレース)あるいはヘルメス(メリクリウス)だという二説がある。
ところが大抵はヘルメス(メリクリウス)よりも、ヴィーナスとマルス(アレース)との作品が多い。神話に残っているからだ。
ところが、エロスの弟アンテロス(アンテロース)はマルス(アレース)が父だとされているが、絵画作品には、ヘルメス(メリクリウス)を父として描かれている。
さきのヘルメス(メリクリウス)とクピド(エロス)と同じような作品だ。
アンテロスをユピテルに示すヴィーナスとメルクリウス
by パオロ・ヴェロネーゼ
右上にユピテル(ゼウス)の足元と彼を象徴する鷲が描かれている。そして誕生したアンテロースを抱えたヘルメス(メリクリウス)だ。翼のある靴、手にはカドゥケウスらしき杖を持っている。そしてヴィーナス(ウェヌス)に、後ろにはクピド(エロース)がいる。
エロスがヘルメス(メリクリウス)でもマルス(アレース)の子でもよいけれど、このアンテロースは「返愛の神」で、恋の復讐者でもあり、相互愛や同士愛の象徴だ。
プラトンではアンテロースの話しはない。なぜなら彼は成人してしまうからだ。エロスは少年まで成長するが成人することがない。
つまり「少年の愛」というプラトンの哲学のなかにでてくる重要なものが「エロス」だからだ。ディオティマが語る美や知の「中間」に、幼児と成人の中間(あるいは幼児と青年を繰り返す人間の成長の中間)の少年エロスともう一人の子ヘルムアプロディテが象徴するアンドロギュノスという「性」の「中間」が、この饗宴での結論を象徴している。
最古の神 エロス
プラトンの饗宴では、エロスをアフロディーテの子ではなく、最も古く、そして偉大な神を位置づけたいようだ。
ヴィーナスとクピド
ヤコポ・ダ・ポントルモ(Jacopo da Pontormo)
下絵 ミケランジェロ
「エロスは偉大な神で、賛嘆すべき神だが出生に関しては然り。
ヘシオドスによれば
至高にしてそののちに永劫にわたりして揺るぎなき万の座になる。胸広きガイア(大地)ならびにエロスと言われている。
パルメデニスも
万の神々に先立ちて、まずエロスをこそ、創りいだせり。
と語っている。」とある。
ところがディオティマはアフロディーテとマルス(アレース)との子でポポス(貧困)がポロス(富者)との間にできたのがエロスだと言っている。つまりまたまた「二人の中間」に位置しているという結論だ。
恋求めているもの、美しいものを手に入れることは善きものを所有し幸福だという。それは永遠に所有することを目指す。つまり不死を目指すということだ。
「不滅の名声を永久に轟かす」
「追憶に値するもの」
それは真の徳を生み育てることだという。美少年、青少年の愛も然り。
哲学的に読む前に、文学として読んでみると、勝手な論理が楽しく面白い。哲学的に読むのとでは捉えかたが変わってくるから。
パリスの審判がプラトンの饗宴で語られているわけではない。
だが、パイドロスの語りのなかで、「いちばん古い神であればこそ、僕らにとって最大の善きことどもの源ともなっているのである。・・・(略)・・・恋をしているものにとっては、当の少年よりも善き者をつまり、立派な生き方をしようとする人々にとって一生の指導原理ともなるべきものを、われわれにしっかりと植え付けることができる点では、門閥も、名誉も、富も、エロス(恋または愛)に比べれば、ものの数ではないからである。」とある。
美の競演でパリスが黄金の林檎を手渡したのは「美しい女性」を与えてあげようというアフロディーテにだ。
権力や勝利を与えようというヘラやアテナより。残念な男だなって思った。パリスってね。
パリスの審判はこちら。
記事 ルーカス・クラナッハ 七つの「パリスの審判」
記事 パリスの審判 三女神黄金の林檎を争うこと