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Karl Lagerfeld

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カール・ラガーフェルドの略歴 career
1950年代から現在のカール・ラガーフェルドの写真、スタインウェイのピアノ、H&Mとのコラボ、アウディ・フォーラムの写真展、VOLVO(ボルボ)の広告などはこちらから。
コラボ collaboration
マイセン×カール・ラガーフェルド
カール・ラガーフェルド コラボのモデル
ここではCoca Cola Lightのボトル、tokidokiのミニ・カール、Steiffのカールのティディベア、フォトグラファーのカールのフィギュアが紹介されている。

Karl×Lenôtre
デザイナー× 「ブッシュ・ド・ノエル」
FENDI
インタビュー
ハーパース・バザー誌 2009年
写真家カール・ラガーフェルド

Karl×Dom Perignon
Dom Pérignon Vintage 1998
ドンペリ Rose Vintage 1996
Dom Perignon Oenotheque 1993
Moët & Chandon×Karl Lagerfeld

Numero ヌメロ
ヌメロ誌 カール・ラガーフェルド

写真展
2010年 Karl Lagerfeld, parcours de travail

2008年 ア・ロンブル・デュ・ソレイユ A l’ombre du soleil(太陽の陰で)

シャネル CHANEL
DVD
Signé Chanel サイン シャネル
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シャネル 宮廷の威光と王家の儀式
CHANEL Paris Fashion Week
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シャネル 2011 春夏コレクション
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CHANEL 2008「パリ−モスクワ」
画家 リューボフ・ポポーワとシャネル

CHANEL 2009「パリ−上海」
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エル・グレコの肖像画から ベラスケスとオソロの赤い十字 サンティアゴ騎士団 フリアン・ロメロと守護聖人
art / SAI

Julian Romero and his patron saint. Painting by El Greco.

フリアン・ロメロと守護聖人(聖ユリアヌス) 1594-1604
エル・グレコ  プラド美術館所蔵


グレコが書いた碑文にはフリアン・ロメロの名がはっきり書かれていて、サンティアゴ騎士団であること、軍人としての栄光とフランスとイタリアでの功績を称えている。彼はディエゴ・ヒメネス・デ・アイヨンのソネットにも詠われているという。

画家ベラスケスも所望していたサンティアゴ騎士団 (Orden Militar de Santiago)の一人。1557年のフランスとの「サン・カンタン(Saint-Quentin)の戦い」のあとに入団した。

The Family of Felipe IV, or Las Meninas, ca.1656

サンティアゴ騎士団 フリアン・ロメロ
ベラスケス ラス・メニーナスの自画像


この「サン・カンタン(Saint-Quentin)の戦い」の勝利を記念して、フェリペ2世は王立サン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアル修道院を建設したんだよね。

この「フリアン・ロメロと守護聖人」を観た時、あまりの美成年の顔立ちに、どんな人生を送った人なのか、どんな人物なのかと興味深々となった。

目、腕、足を失っていたらしいけど。

フェリペ2世に仕えたスペイン軍の指揮官フリアン・ロメロは、1545-46年のソレント海戦でフランス海軍と戦ったイングランドの占領軍としてスペイン人傭兵を指揮し、スコットランドの反政府勢力と戦った。イングランドのヘンリー8世はフリアン・ロメロの功績を称えて陸軍元帥に任命した。ヘンリー8世はこのあと、フェリペ2世が迫害するプロテスタントに改宗しているよね。

1554年、現在のベルギーのディナンで捕虜となりフォンテーヌブローに拘留されたらしい。(ここは不得意なスペイン語から解釈したので、間違っているかも)

1565年のマルタ包囲戦で、フリアン・ロメロはマルタ騎士団のスペイン兵としてシチリアに駐留。翌年にアルバ公爵から軍曹大陸軍元帥として、オランダの反カトリック暴動を鎮圧。一方、ウィレム1世 (オラニエ公)はフェリペ2世にプロテスタント迫害を中止するよう説得していたが、反カトリック暴動の責任を問われエグモント伯、ホルン伯が逮捕されると反乱軍を組織した。

オランダ独立戦争の初期にあたる1572年、フリアン・ロメロはモンスの包囲でウィレム公を撤退させ、アルバ公の謀略によるスペイン軍の「ナールデンの大虐殺」に出陣。翌年のホラント州ハーレムを包囲で目を失ったらしいが、アルバ公はスペイン宮廷での支持を失った。ナールデン、ハーレムの虐殺を聞いた市民の発起で撤退したからかも。

ちなみに恐怖政治を行っていたアルバ公爵は、第3代アルバ公爵フェルナンド・アルバレス・デ・トレドのことで、1573年にネーデルラントの総督は罷免されたが、スペインに帰国後も怪気炎をあげる。

もともとカール5世の侍従でもあったウィレム1世 (オラニエ公)が、ネーデルランドの副司令官からオランダ独立国家の初代君主となった。フェリペ2世はカール5世から継承したネーデルランドの自治を認めずプロテスタントを弾圧し続けたことからウィレム公は反乱を起こした。

モンスから撤退したウィレム公は、ホラント州、ゼーラント州の総督となり、すでに反スペイン勢力の中心人物となっていた。

この1572年の8月、フランスでは、カトリーヌ・ド・メディシスが首謀者と囁かれるユグノー(プロテスタントのカルヴァン派)撲滅の「聖バルテルミーの大虐殺」が起こっている。

1574年、レイメルスワールではウィレム公のゴイゼン(Geusen)との戦いで、ライデンで反乱軍を撃退するものの洪水線で撤退する。フリアン・ロメロは、1576年のスペイン兵がアントワープ市(アントウェルペン)を占拠し掠奪、市民虐殺まで至った暴動にも名が残っている。

この暴動の年、ネーデルランド総督はレパントの海戦の英雄、フェリペ2世の異母弟ドン・フアン・デ・アウストリアが務めた。アントワープの虐殺で「ヘントの和約」を承認することになったドン・フアン・デ・アウストリアは、1577年2月に「永久勅令」に調印。スペイン軍は撤退することになる。

この「永久勅令」のあと、フリアン・ロメロはクレモナに遷された。この1577年、スペインの帰国を待たずに亡くなった。59歳だった。

虐殺、略奪をも得意とする戦争の英雄だったんだ。

ネーデルラント(オランダ)のサイトにはスペインへの帰国を待たずに「殺された」とあった。

ドン・フアン・デ・アウストリアは、「永久勅令」の翌年に病で亡くなった。ネーデルランド総督は、パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼに引き継がれ、彼はフェリペ2世に忠誠を誓わせるアラス連合(アトレヒト同盟)を結成。

ドン・フアン・デ・アウストリア、パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼは、エル・グレコの「聖マウリティウスの殉教」(エル・エスコリアル修道)に描かれている。

フリアン・ロメロの肖像画は死後20年近くたってから描かれ、その間にウィレム公は暗殺され、フェリペ2世は作品が完成する2年前に亡くなった。

追記(2012.8.17) 忘れてた、守護聖人のこと。
プラド美術館のサイトにあった。聖ユリアヌス(英読みで聖ジュリアン Saint Julian)が守護聖人だって。

フリアンもジュリアン(Julian)って書くし。じゃぁ、なんでフランス王家を象徴する百合の花の青いローブを身につけてんの、この守護聖人。フランス王聖ルイ(ルイ9世)かと思うじゃない。 →よくよく考えれば、フルール・ド・リス(百合の紋章)は、スペイン王家も使用してた。→僕のなかで未解決。

追記2(2012.8.18)
守護聖人の記念日は1月27日ル・マンの聖ユリアヌス(司教)、29日が歓待者の聖ユリアヌス、8月28日はオーベルニュの聖ユリアヌス(殉教者)。

イタリア人ヤコブス・デ・ウォラギネ(Jacobus de Voragine)の「レゲンダ・アウレア」(Legenda aurea, 黄金伝説)の第30章の聖ユリアヌスがあるが、5人くらいいる。

ご存知の方が多いのは、「ル・マンの聖ユリアヌス」だと思うけど、その名称が示すとおりル・マンの初代司教。サン=ジュリアン・デュ・マン大聖堂は、この初代司教ユリアヌスに捧げられて建設された。

スペインの「クエンカのユリアヌス」はトレドで 5 年間司教を務めている。アルフォンソ 8 世 (カスティーリャ王)によって クエンカの2代目の司教となる。このアルフォンソ 8 世 (カスティーリャ王)の孫にあたるのが、フランス王聖ルイだ。

とにかく聖ユリアヌスって、そのほかにもいっぱいいる。トレドのユリアヌス(司教)、アンティオキアのユリアヌス(背教者)とか。

ジョヴァンニ・ボッカッチョの「デカメロン」(Boccaccio's Decameron)にも登場していたはず。

伝説上の聖ユリアヌスは「看護者のユリアヌス」。フローベルの「聖ジュリアン伝」は、この看護のユリアヌスの話。10歳の頃に別れた両親が20年後に彼が眠っている寝室にあらわれ、盗賊と思い殺してしまう。そして妻と贖罪する旅をはじめ、貧者や病人の世話、危険な橋渡しをし、最後に神の許しを告げられる。

僕的な疑問は、守護聖人のフランス王聖ルイ(ルイ9世)と混同するようなエル・グレコの描き方。もうひとつは、ローマ読みのユリアヌス(Julian)とスペイン読みのフリアン(Julian)の名前のかけあわせの必要性。そして守護聖人ユリアヌスはどのユリアヌスを念頭に置いていたのか?

「クエンカのユリアヌス」なら、カスティーリャの系譜の肖像ともいえる「フランス王聖ルイと小姓」(St Louis, King of France, with a Page 1590-97)とのつながりになる、アルフォンソ 8 世 (カスティーリャ王)とその孫聖ルイが浮かび上がってくるんだけどな。

クエンカをキリスト教徒の手に戻したアルフォンソ 8 世 (カスティーリャ王)。そうだったらカスティーリャの系譜の肖像の1枚になるし。

そして本当は誰の肖像画なのかな。守護聖人「聖ユリアヌス」に描かれている人物は誰なのかってこと。

だって、フェリペ2世にもみえるし、フェリペ2世に毒殺されたと囁かれている異母弟ドン・フアン・デ・アウストリアにも似ているし。

プラド美術館のサイトに意味深なフレーズを発見した。「行為は行為者に」という意味だ。悪い意味に使われる「自業自得」、「因果応報」などに使われる単語。

□ みんなのエル・グレコ記事をまとめた。
XAI エル・グレコ オルガス伯爵の埋葬から


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