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アントワーヌ・フーキエ=タンヴィル
(1746年6月12日 - 1795年5月7日)
アントワーヌ・フーキエ=タンヴィルはあのエベール、ダントン、親戚のカミーユ・デムーランそして彼の同志だったロベスピエールにも死刑を求刑した。
被拘禁者に起訴状が渡されると48時間以内に裁判が行われる。言っておくがマリー・アントワネットだけが予め死刑が決まっていたわけではない。
この時期のすべての囚人である。「瓦のように首が落ちている」というフーキエの呵責の無い求刑。就任の頃と打って変わる。
1794年7月28日、ロベルピエールが処刑されたとき、次は自分と思っていたのだろうか。同年8月10日には革命裁判所の組織替えを行い、役人や判事は免職。そしてフーキエは被害者の遺族に告発されて逮捕された。
諸兄
小生は私宅にたくさんの資料を預かっている。弁護人制度廃止以前に小生が弁護することになっていた被告人たちから委ねられたもので、それを裁判に光なげかけることで、おそらくは無実の罪の人たちを救いうるものである。
それらを規定に合ったものにし、検察官の手に委ねることができるようにしていただきたい。これは私が荷おろししなければならない神聖なものである。
自分みずからのことを考えるべき時が到来したにしても、諸兄の正義を請願するのみである。はやければはやいほどありがたい。小生にどんな運命が待っているにせよ。
多くの囚人は弁護士に依頼するよりも、むしろ直接フーキエに接しようとしたとある。フーキエの机の上には様々な文章が寄せられた。無罪を証明するもの、密告や告発、遺族からの手紙など。
ロベスピエールの処刑後の1794年8月以降、最後の手紙は名宛人に届くようになった。この革命裁判所の元検察官アントワーヌ・フーキエ=タンヴィル以外の手紙は。
仕方が無い。「150通の最後の手紙」は、フーキエやロベスピエール、あとは心ない役人の手で書類つづりにそのままになっていたのだから。
一通目の手紙(かなり長い手紙を要約)
わたしはまもなく裁判にかけらるのを待たねばならない。ほかの時期なら恐れることはないであろう。この遺憾な状況の幻想に耽ることは無駄だ。
憎むべき連中の、陰謀家の、血に飢えた虎の、事実ではない怒号と憎らしい叫び声は、自由を侵害する徒党の戦術に他ならない。
わたしはそれで死んでいく。この国に奉仕し、政府の願望と従ってきたために。しかし残されるおまえと可哀想な子供たちはどうなるだろう。これが最後、さよならを言う。
(略)
わたしの自由にできる唯一の愛情のしるし、それはほんの少々の髪。大事に取っておいてくれ。
そして死刑判決後の手紙
二通目の手紙(かなり短い手紙を要約)
わたしは常に法にしたがってきた。ロベスピエール、サン=ジュストのような人間でもない私は、実に四回も逮捕されそうになった。
わたしは祖国のために死んでいく。咎められることなく。わたしは満足だ。のちに人は、私の無実を知るようになるだろう。
どうなんだろう。フーキエにはマリー・アントワネットのような小説も漫画もファンもこの世にいないと思うし。
マリー・アントワネットの裁判
左の机にいるのがフーキエ 手前がエベール
フーキエらはマリー・アントワネットの本来の罪状だけで戦えばよかった。母子相姦は、彼が無実であろうがなかろうが、裁判の格を下げてしまっている。
マリー・アントワネットの裁判は、「オーストリアへの戦争回避における賠償金による財政圧迫」、「国王の拒否権行使と逃亡」、「諸外国の干渉による王政の復活」、「亡命貴族との共謀」、「牢獄での脱出計画」である。
この公判自体おかしなところはなかった。
賠償金は、1785年、ヨーゼフ2世がオランダと事を構えたとき、フランスはオランダと同盟を結んでいるため、アントワネットの祖国オーストリアと戦うことになる。
アントワネットはフランスの機密を兄ヨーゼフ2世へ通報し、国議の決定を覆した張本人。そのためオーストリアにオランダは賠償金を支払うことになり、フランスも負担したのだ。もはやフランス王妃の誇りはない。数年後に国庫が空になる。
僕はこのひとつだけでも大罪だと思う。フランス王妃の背任罪、俗に言えば「売国奴」だからだ。
拒否権は、聖職者の基本的民事法がわかりやすいと思うので取り上げると、聖職者は国家公務員と同じ給与制になるという法案で、これに賛成し宣誓した者を宣誓司祭、しなかったものを非宣誓司祭とした。
アントワネットは最後の遺書でも宣誓司祭に告解を拒否している。ルイ16世に関しては非宣誓司祭に告解をしている。
記事 クレリーの日記 1 ルイ16世の遺書
記事 クレリーの日記 2 タンプル塔の無能な王
記事 ブルボン朝の王妃 マリー・アントワネット さらば、王家よ
そして逃亡は王妃の愛人フェルセンが絡んだ「ヴァレンヌの逃亡」である。
記事 惨殺されたフェルセンの最期
諸外国による干渉は、「ピルニッツア宣言」だが、「ブラウンシュヴァイクの宣言」を例にあげたい。
アントワネットが、オーストリアの駐仏大使メルシー=アルジェントー伯爵を介して、ジャコバン派が退くように懇願とaleiの記事にある。ようはフランス国民が戦争に駆り立てられ、国民の犠牲を厭わないという王妃である。
記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年 8月
ところが母子相姦がでてきちゃた。来るはずの証拠が届かない。バカだなって思う。母子相姦は、裁判で本当にあったのだろうか。エリザベート王女のありもしない美談と同じように誰かがくっつけた気もするけど。
記事 エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランス
マリー・アントワネットは狡賢く、小賢しい。すべて巧くすり抜けた。思慮の浅い王妃が。それとも俗に言う「臨機応変に対応できる、頭の良い女性」なのか?嘘を言う女性がどこに頭の良い女性となるのだろうか。人としてあり得ない所見だと思う。
これは、革命裁判所でもっとも信頼がおける弁護士ショーヴォー=ラガルド氏の尽力の結果だし。
記事 フランス革命下の一市民の日記 1793年 10月
牢獄の脱出に関してはルイ・シャルルが外部との情報交換をしていたことを認め署名している。マリー・テレーズも回想録に書いているらしい。カーネーション事件もそうだ。母子相姦は僕はわからない。
ルイ・シャルル(ルイ17世)に関しては
記事 マリー・アントワネット 記事紹介
記事 フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月
記事 マリー・アントワネットの子供達 18世紀の子供達
記事 ブルボン朝の王妃 マリー・アントワネット さらば、王家よ
さて、たしかなことはわからないが、フーキエがもっとも恐れられていた時代1793年7月から94年12月までフォルス監獄(ラ フォルス)にいたと思われる革命裁判所の密偵がいる。
あの9月虐殺でランバル公妃がいた監獄に、密偵フェリエール=ソーヴブフ伯爵がいたんだ。
フェリエール=ソーヴブフは、もともとルイ16世の密偵だとも思われていた人物らしいが、真偽はわからない。
告発したジョリは警察理事官でエベール派のダンジェの愛人。ダンジェは囚人たちを飢えさせ反乱を起こさせようとしている。
弁護士ドランヴィルは静かな施療監獄へ移す約束を法外な値段で交渉しているなど。この弁護士はそういう傾向が顕著である。
フェリエール=ソーヴブフが告発した断頭台に送った人々は、アンドレ・シェニエ、カトリーヌ・ド・モナコ公妃。シャトレ公爵および夫人、サン= ポール伯爵、ルイ・コント、エプレメニル夫人、フルーレ将軍、エナン公、オサン伯爵夫人、警察理事官ダンジェ、スーレ、フロワデュール。貴族あるいはブルジョワの人間達。
「150通の最後の手紙」では「彼らの財産が共和国の手におちるのに関心があったのだろう」と述べている。
こうした貴族出身の密偵たちの中で、クールレ・ド・プロはレ・ザングレーズ監獄で、ル・プレシ監獄で暗躍した。
クールレは、ル・プレシ監獄で陰謀をでっちあげることを任された。だがうまく行かなかった。具体的証拠がなく審理が難しくなったから。
クールレの告発は、被拘禁者ジャクマンが要求した。フーキエ=タンヴィルは急いで片付けた。クールエの処刑を。
「クールエが今日裁判所に召喚されるとは思わなかった。昨日、彼は私に監獄の陰謀のことを語り、ル・プレシでの陰謀があえてまた繰り返されることはないだろう。最初、彼は嫌疑をかけられ、二度目は証人として呼ばれた。革命裁判所は、あの9月2日(1792年の9月虐殺)とはもうまるで違う。」
作家のランジュアクは、フーキエがクールエの裁判を急いだことを、次のように述べる。
「クールエに関してあんなに急いだのは、ただただ、彼が秘密を暴露するのを、彼が当時行われていた策動を暴いてしまうのを、防ぐためだったのだ。」
本書は「その反革命的な罪が献身的な行為を保証し、そのうえまずいとなればいつでも消せるようなそういう人間たちを雇っていたということだ。」と結んでいる。
フランス国民を戦争に駆り立て、戦時の機密を敵国に漏らし、フランス国民のの戦死者の犠牲が増え、その人の命で革命軍を威嚇する陰謀を企てた王妃マリー・アントワネット。同じ人間だったんだ、フーキエも。
これはやはり誰も無実とは認めないだろう。