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Karl Lagerfeld

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カール・ラガーフェルドの略歴 career
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Karl×Lenôtre
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FENDI
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ドンペリ Rose Vintage 1996
Dom Perignon Oenotheque 1993
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Numero ヌメロ
ヌメロ誌 カール・ラガーフェルド

写真展
2010年 Karl Lagerfeld, parcours de travail

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惨殺されたフェルセンの最期
18世紀 フランス / SAI
僕はこのフェルセンの記事を書くハメになったことにひどく傷ついている。

なぜなら人の志を腐らせる人物だから。

Axel Fersen, Carl Fredrik von Breda, Lofstad Castle, Sweden-2

フェルセン 嫌いなタイプ


ハンス・アクセル・フォン・フェルセン(Hans Axel von Fersen 1755−1810)はご承知のとおりフランス王妃マリー・アントワネットの愛人といわれた人物。
 
マリー・アントワネットは男を破滅させるファム・ファタルだ。サロメのように。 そして今風に言えば、フェルセンは「残念な男」だろう。

彼の伝記、アントワネットの伝記の美談。小説によっても様々だ。だが、事実をひろえばある程度のことが見えてこないだろうか。

記事 マリー・アントワネットが愛したもの

楓がマリー・アントワネットの記事で書いていたが、それほど王妃に献身的に仕えるなら王妃としての立場をたしなめることができただろうと。

なるほどね。フェルセンは若かったからね。

王妃にいろんな役職をまわしてもらい、驚くほどの報酬を与えられるのは愛情のしるしと思っていたんだね。そして賭博でいっしょに借金を増やすのが、楽しい年頃だったんだ。

Another state portrait of Marie Antoinette, by Élisabeth Vigée-Lebrun (1788)

マリー・アントワネット ルブラン夫人


ギ・ブルトンは澁澤龍彦のように「裏話」が好きな人物で、たとえばエミール・ポーマンの「マリ=アントワネットとアクセル・フェルセン」などからトピックして、読み物にする。

そのギ・ブルマンのフェルセン像は、盲目的。フェルセンが妹に送る王妃崇拝の手紙。グスタフ3世の寵臣としてよりも、アントワネットの寵臣に成り下がった人物像を描いている。

そういうものを騎士道精神と思うのは勘違いだ。

1835年のフランスの作家バルザックの「谷間の百合」にもあるが、ノブレス・オブリージュという犠牲的精神。 そして英国のアーサー王の騎士たち。

「騎士の十戒」にあるのは戦闘能力、勇気、高潔さ、忠誠心、寛大さ、信念、儀礼、崇高さだ。そして宮廷的愛。

騎士の叙任(ランスロットとグィネヴィア王妃) 1901 Edmund Blair Leighton

騎士の叙任(ランスロットとグィネヴィア)


ランスロットとアーサー王の妃グィネヴィアとの不義の恋。

そもそもスウェーデン人のフェルセンに、こうしたフランスや英国の伝統をたとえるのが間違っている。

フェルセンはグスタフ3世とフランス宮廷の在り方を倣うための視察の同行をしていたわけだ。

つまりフェルセンは宮廷的愛や騎士道の本質を知らずにして、自己陶酔していただけなんだよ。
 
さて、1789年の10月5日に議会代表ムーニエと武装した女性のデモがヴェルサイユに到着した。ヴェルサイユ行進、10月行進といわれるものであるが、封建的特権廃止宣言と人権宣言への署名せを迫る。

Déclaration des droits de lhomme et du citoyen de 1789

1789年 人間と市民の権利の宣言


このときルイ16世はようやく承認し、署名をする。

その翌日の6日の朝。雨と空腹のデモ隊は宮殿に押し入ろうとするところをフランス近衛兵が発砲。宮殿になだれこむ。

このとき、フェルセンは王妃と寝室にいたのを司祭タレーランが目撃した。
 
悪の天才シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール伯爵(Charles-Maurice de Talleyrand-Périgord)のこと?

彼はこの目撃をどのような陰謀に利用したのかわからない。1790年に国民議会議長に選出されるとともに司教職を辞職(あるいは破門)し、1792年に外交使節としてイギリスに派遣されるがそのまま亡命。1796年帰国する悪運のよい人。

Talleyrand en 1828, par Ary Scheffer

タレーラン


wiki に、「王妃となったマリー・アントワネットに悪い噂が立つのを恐れ、スウェーデンに帰国する。」とあったが、革命後グスタフ3世 (スウェーデン王) の帰国で同行したフェルセンは戻っただけじゃない?

でもね、「王妃となったマリー・アントワネットに悪い噂が立つ」ような振る舞いをしているんだけど。

もうひとつ、フェルセンが行ったヴァレンヌ事件を裏で手引きしたのもグスタフ3世だったとある。

これはそうでなければならないでしょ。


ヴァレンヌ事件

 
フェルセンが自ら資産を投げうちヴァレンヌ逃亡に協力するとはあり得ないから。 wikiに総額120億円以上を出資したとあるけど、若造のフェルセンがそれだけの資産を持っていたと思えない。

亡命に使用したベルリン馬車、旅券などの資金を提供したのはフェルセンの愛人エレオノール・シュリヴァン(エレノア・サリヴァン)。なぜかその愛人クロフォード卿も費用をだした。彼は自分のパスポートもルイ16世にわたした。(フェルセンはエレオノールにプロポーズするが、彼女はクロフォードを選んだ。賢い選択だ。)

記事 フランス革命下の一市民の日記 1791年の6月

このエレオノーラ、ド・コルフ男爵夫人を名乗って旅支度の調達をしたのである。逃亡ではトゥルゼール公爵夫人が名乗った。

ボンディまで来るとフェルセンはルイ16世から随行を断られたという。僕的にはグスタフ3世への配慮かと思った。

1791年5月にグスタフはドイツのアーヘンに行く。6月14日から、同地でルイ16世一行の逃亡を手配したフェルセンからの報告を待っていたのだ。

だがアントワネットの旅支度の遅れ、なぜかフェルセンの遠回りがあり、予定より大幅に遅れてしまった。

La fuga de Varennes

ヴァレンヌの逃亡


当初、ルイ16世は逃亡するつもりはなかった。「フランスの国王たるものは逃亡しない。」といったそうだ。だが、亡命する理由ができた。

ひとつはミラボーが死んだこと。
そして聖職者民事基本法。

ルイ16世の目指す立憲君主制の道が険しいものになったというわけ。

記事 フランス革命下の一市民の日記 1791年の4月

このフランスに友好的なグスタフ3世は翌年暗殺される。オペラ座の仮面舞踏会。占い師が予言したとおりに。そしてその日に届いた暗殺予告の手紙を胸に収めて。 これは国王と貴族の対立である。黒幕にフレデリック・アクセル・フォン・フェルセン侯爵の名があがった。フェルセンの父である。

グスタフはフランスのヴォルテールと親交を結んだ啓蒙専制君主だった。
 
ちなみにフェルセンもヴォルテールと一度会っている。

記事 ヴォルテールの遺骸

フェルセンは自国の王グスタフも救えず、さらに不幸なアントワネットを支えようと手を差し出すが、そのたびにアントワネットは民衆から憎悪の対象になっていくだけ。

ちなみに同日ベルギーに逃亡した王弟のプロヴァンス伯爵夫妻は、無事に到達。


ピルニッツ宣言のその後

1792年8月10日に起こった「8月10日事件」。

ピルニッツ宣言でフランスの革命に干渉がはいる。プロイセン軍が国境を越えた。

フランス軍の敗因はアントワネットが敵である兄のレオポルト2世と内通しているからだと、この日テュイルリー宮殿を攻撃した。

同日、国民議会はルイ16世の王権停止を可決。タンプル塔の幽閉となった。

Louis XVI at the Tour du Temple Jean Francois Garneray

記事 クレリーの日記 2 タンプル塔の無能な王


そして9月虐殺。

この年、フェルセン伯爵宛にブルトゥイユ男爵から手紙が来る。

デュムーリエ籠絡に向けて、文人アントアンヌ・リヴァロールの妹フランソワーズを使い、反革命側のデュムーリエ将軍がルイ十六世をタンプル獄から救出せしめるという案が書かれていた。

救出した国王一家をプロイセン軍に引き渡す。フェルセンはどうしたのか。デュムーリエ将軍が寝返ったときの謝礼をサント‐フォワ(Saint-Foy)に任せたと返事をした。

しかし9月20日のヴァルミーの戦いではデュムーリエ将軍の指揮でプロイセン軍を退却に追い込んだ。

Bataille de Valmy

ヴァルミーの戦い


"Von hier und heute geht eine neue Epoche der Weltgeschichte aus, und ihr könnt sagen, ihr seid dabei gewesen."

この戦いでプロイセン側にいた文豪ゲーテが言った言葉がある。

「ここから、この日から、世界の歴史の新しい時代が始まる」

たいした因縁だが、ゲーテはアントワネットの輿入れで、「皇女引渡しの儀」がおこなわれる館に忍び込み、ある不吉なタペストリーを発見している。

記事 王太子妃 マリー・アントワネット 4つの不吉
このデュムーリエ籠絡の介入は、結局アントワネットが敵と内通しているという結果をもたらした。

幾度も失敗を繰り返す男フェルセン。立派な過負荷な人物だ。すべてを破滅させる王妃、そして全てを不幸にするフェルセン。「親切なのか、意地悪なのか」というところ。

This State Portrait by Élisabeth Vigée-Lebrun (1787) of Marie Antoinette and her children Marie Thérèse, Louis Charles (on her lap), and Louis Joseph, was meant to help her reputation by depicting her as a mother and in simple, yet stately attire

マリー・アントワネットと子供達  ヴィジェ=ルブラン
僕はこの作品は嫌いです。


フェルセンはアントワネットが捕らわれていたときに、幾度となく救出の作戦を立てたというのに、二人の子供達が残っていたにも関わらず、そのまま放置しているフェルセン。

フェルセンの息子と囁かれたルイ=シャルルは、シモン夫妻が行ってしまってから2年間一人だった。僕的には、そういう時期が一番救出しやすいのではないかとおもったが。

マリー・テレーズがタンプル塔を出てから、フェルセンは、彼女のために王一家の遺品などを回収して渡したとされている。

もし、彼女が王族に嫁がなくとも、フェルセンはそうしていたのだろうか。

フェルセンは、グスタフ3世暗殺後、グスタフ4世に仕えている。不思議だな。グスタフ3世の暗殺に父親が黒幕と囁かれているのに。

Charles XIII of Sweden

カール13世


外交顧問、元帥となっていくが、グスタフ4世失脚後、カール13世の時代を経て、カール14世ヨハンの時代となった。

このカール14世は落馬しあっけなく死んでしまう。心臓麻痺と発表された。

カール13世は毒殺の疑惑をフェルセンにむける。

なぜなんだろう。

彼がスウェーデン王になり、フランスの民衆に復讐するために、国民を戦争に引きずり込もうとしているという噂がたっていたという。

Gustav III (1746-1792), King of Sweden, in coronation-robes 1777 Nationalmuseum

グスタフ3世 (スウェーデン王)


wikiをひろい読みすると、「グスタフ3世の暗殺後、グスタフ4世がフランスへの政策を引き継いだため、フランス革命期に暗躍したフェルセンを復権させたのだ。」というようなことが書かれていた。

暗躍?

だからだ。今度はマリー・アントワネットの娘、マリー・テレーズのもとにちょくちょく顔を出す。

さらに、グスタフ3世は、「フランス革命が勃発すると、フェルセンをスパイとして送り込み、反革命十字軍を提唱した」とある。

フェルセンは社交界やアントワネット、そしてマリー・テレーズとの美談は有名だが、功績はひとつも残されていない。

記事 マリー・アントワネットの娘 マリー・テレーズ王女の回想記録 1

グスタフ3世の目的は、フランスの王制を存続できるようにし、同盟国としての関係を保ち、スウェーデンがヨーロッパの大国としての地位を確保できる状態にしたかったのではないか。

そのために王妃を籠絡しろとは命じなかったと思うが、マリー・アントワネットはすべての情報をフェルセンに話す関係となった。

結局、ヴァレンヌの逃亡からちょうど19年目の6月20日に、フェルセンは撲殺された。

カール13世は疑惑をもちつつ、わざわざフェルセンをカール・アウグスト皇太子(カール14世)葬儀の責任者とした。


 惨殺されたフェルセンの最期

グスタフ3世同様にフェルセンも死の脅迫状を手にしていた。

六頭の白馬を率いたフェルセン。群集は投石をはじめた。肩章が飛び、服は破れ、血が流れ出す。フェルセンといっしょにいた副官は近衛連隊に制圧を命じたが、拒否された。

副官はフェルセンを連れ出すが、隠れた建物に侵入され、こん棒でフェルセンは殴打される。頭部、胸部、腹部は踏みつけられ、いや踏み砕かれた。

破けた服はひきちぎられ、裸のまま排水溝の中に転がっていた。

ここまではランバル公妃の虐殺といっしょだが、彼女のように首を切られたり、内臓を出されたり、心臓を剣に掲げられたりはなかったようだ。

Count Axel von Fersen  Murdered

アクセル・フォン・フェルセン伯爵の殺害


フェルセン撲殺で逮捕された人数700名。有罪で終身刑となったのは2名だけだった。死の直接的な原因をつくったオットー・ヨハン。

美談として6月20日をマリー・アントワネットとフェルセンを結びつけるか。

あるいは、マリー・アントワネットもフェルセンも、人望なく民衆に殺される理由があった人物として、神が裁いた結果なのか。

それを判断するのは、個人の価値観である。

日本は裁判員制度に変わった。何をもって有罪とするのか。事実と真実の違いをどう捉えるのだろうか。個人の価値観じゃない問題。


 余談

カーネーションの陰謀では、残念ながらフェルセンは関わっていない。

「ルージュヴィルの騎士」と呼ばれたこの男はアレクサンドル・ゴンス。彼は貴族らしい名を考えた。アレクサンドル・ゴンス・ドゥ・ルージュヴィル。

6月20日から8月10日まで王妃をかくまったことがあるという この男はその愛と王妃に理解してもらおうと思っていたらしい。

デュ・ティルール夫人、ド・ミショス(警察理事官 ミショニーのことだろうか)と計り、カーネーションに手紙をはさみ、アントワネットに脱出の計画を知らせた。
 
この男ゴンス、失敗するとすかさず逃げたらしい。デュマの「メゾン・ルージュの騎士」という小説はこの陰謀の話。事実を脚色するとこんなに変わる。ぜひ読んでみて。
 
この男とフェルセン、なんか似た結果だよね。

もうひとつ。

あのマラーを殺害したシャルロット・コルデー。彼女が断頭台の露となったとき、彼女を愛していたアダム・リュックスは、自分もギロチンの侮辱を与えてもらおうと、立憲会議を侮辱する文章を発表した。

こうしてアダム・リュックスは、最愛の女性のために死んでいった。

フェルセンともゴンスとも違うリュックスの愛情だ。

愛情というか信頼というか、そういうものがフェルセンからあんまり見えない。僕の個人的感想だけどね。

フランスのルイ16世、アントワネット、スウェーデンの国王たち。フェルセンが仕えた国王や王妃は、なんだかみんな残念な結果になった。

ちなみにカール13世の王妃ヘトヴィヒ・エリーザベトの愛人の一人がフェルセン。


 スウェーデンの名門 フェルセン家  ハンス・アクセル

王室顧問であるフレデリック・アクセル・フォン・フェルセン侯爵(1719−1794)の子であるハンス・アクセル。父フレデリック・アクセルは、ハット党(ハッタナ党)の党首であったと伝えられている。

フレドリク1世(Fredrik I, 1676 - 1751)の時代、スウェーデンの国政は、有力貴族のメッソナ党(ナイトキャップの意味)とハッタナ党(ツバキ帽の意味)が交互に政権に就いた。以下はハッタナ党をハット党とする。

メッソナ党はロシア派、ハット党はフランス派。スウェーデン史では、この時代を「自由の時代」と呼んでいた。

アドルフ・フレドリク(Adolf Fredrik, 1710 - 1771)は、ハント党に決められていたスウェーデン国王。

Steninge slott

フェルセン伯爵家のステーニンゲ城

フェルセンの遺体が置かれた


この頃の政権に関しては父フェルセンの公式な活躍は残されていない。

このあとの時代がアドルフ・フレドリクの息子グスタフ3世になる。

この頃の政権はメッソナ党だった。グスタフ3世は、「無血革命」で名声を得た。「自由の時代」がそこで終わったのだ。

グスタフ3世は1770年にグランド・ツアーでパリに行く。

ハンス・アクセルは1773年、グランド・ツアーでパリのルイ15世と謁見する。彼のグランド・ツアーは1770年にはじまり、デンマーク、ドイツ、イタリア、フランス、ロンドンで帰国する。

ハンス・アクセルは1774年の仮面舞踏会でアントワネットとはじめて出会ったとされる。同年のうちにロンドンへ。

John Trumbull 「Surrender of Lord Cornwallis」 die französischen Offiziere; rechts: die amerikanischen Offiziere;

ヨークタウンにおけるコーンウォリス卿の降伏
(1781年 ヨークタウンの戦いで) by ジョン・トランブル 
ここにフェルセンが描かれている


その後アメリカ独立戦争(1776年 - 1783年)に、1780年に参加、帰国後はフランスの王室スウェーデン人連隊長で1785年からパリ在住。

1794年に父フェルセンが亡くなるが、しばらく知らなかったらしい。この人の葬儀は壮大なるものだったという。

1794年2月に父フェルセンは亡くなる。5月に訃報を知る。相続はハンス・アクセル。ストックフォルム、パリ、フィンランドにあるいくつかの屋敷、複数所有していた鉱山、東インド会社の権利などを相続した。

ラシュタット会議(全面的なフランス革命戦争終結を目指した国際会議)がはじまったが、講和会議の議長として、フェルセンが調停を行う。1797年にナポレオン・ボナパルトが儀礼的な出席をした際に、フェルセンはカペー未亡人(アントワネット)との逸話を聞かれたとある。

もうひとつは、ナポレオンが「カペー未亡人と不義をはたらいていたものと議論する必要はない」という話し。

Antoine Jean Gros Napoleon Bonaparte

ナポレオン


さて、この会議も「最終的に和睦に至らなかった」とwiki にあった

1799年、ウプサラ大学の学長を務めた。目的は過激派学生の抑制だった。

こうしてある程度の地位に就きながら、人望は集められなかったようだ。

果たして、ハンス・アクセルの無残な死の葬儀はあったのだろうか。

当日中に撲殺された遺体はステーニンゲ城(Steninge Slott)に置かれたらしい。

カール14世の嫌疑が晴れたとして、翌年の4月12日、リッダホルム教会で盛大な葬儀は行われた。

Porträtt föreställande Sophie Piper, målning av Carl Fredrik von Breda

フェルセンの妹 ソフィア・パイパー


妹のソフィア・パイパー(1757–1816) は同年に記念碑を建てた。彼女もカール14世の死で、嫌疑がかかっていたらしい。彼女はバクスホルム城に身柄を預けられたようだ。

彼女はグスタフ3世の弟フレドリク・アドルフ (エステルイェートランド公)に求婚された一人。父や兄らは王家からの失寵をこうむることを恐れ、反対。

宮廷の侍従アドルフ・ラディック・パイパーと結婚。死別すると恋人のエバート・ウィルヘルム・タウベの元に行くが、死別しストックホルムに戻る。

フェルセンとの手紙のやりとりが有名だが、王妃アントワネットの崇拝者で、アントワネットの髪を一房持っているという。

弟のファビアン・ラインホルト・フェルセン(1762–1818) の記録は見ていない。
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このセレスタン・ギタールの日記は、僕がトピックし、引用・要約しているので、フランス革命下の一市民の日記 セレスタン・ギタール著 レイモン・オベール編 河盛好蔵藍訳 中央公論社 を実際に読んでみてください。この記事で注釈をしていないところなんか、インター
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