一定期間更新がないため広告を表示しています
また楓がマリー・アントワネット関連の記事をアップした。またなんだと思いつつ記事を読む。
マリー・アントワネットの娘マリー・テレーズが書いた「マリー・テレーズ王女の回想記録」の話しだ。
アングレーム公爵夫人となったマリー・テレーズは、その原稿を父の従僕だったクレリーを通して取り戻し、写しをつくってスーシー夫人に預けますが・・・
へぇ、クレリー(Hanet dit Cléry)が。
じゃ、僕はクレリーの残した日記を記事にしよ!
小説家は美談を書く。小説家は史実を裏かえしに書くことがある。
ジャン=バプティスト・クレリー
小説の主人公は読者に愛されるか、もしくは涙を誘わなければならない。その本が売れるために。
そして、日記や書簡集も実はアテにならない場合がある。手を加えられることがあるからね。そして側近の日記。
それは仕える王への愛情。ほらほら、身内びいきってある。事実と真実は違う。事実は美化されたり、あるいはゆがめられたり。だから真実を探すことが好きなんだ。
ルイ16世。彼は無能な王だった。それ、アタリ。だって国民に処刑されたんですから。
国王や王妃に求められるものは、国民を、そして国を永遠に存続できる義務と責任を負えるか負えないかだ。
ルイ16世は有罪で当たり前。これまでの資料や文献でも確認されていることだ。(小説脳、漫画脳じゃないからね、僕)
この件に関して、彼の日記を編纂したジャック・ブロス(Jacques Brosse)も「序」で語っている。
国王(ルイ16世)は敵と通じていた。プロシャ(プロセイン)、オーストリアのどちらに国防に関する資料を渡そうか。両国の軍隊を呼び、侵入してくる。
楓の記事の「マリー・テレーズ王女の回想記録」にも、この話しが出てくる。ただ楓はこのくだりをとばしている。女の人って、こういうところはトピックしないんだな。
マダム・ロワイヤル(Madame Royale)
マリー・テレーズ
役人のマチューが父にいひどい言葉を浴びせた。「非常呼集の太鼓が鳴り、早鐘が鳴り、警砲が打たれた。亡命貴族どもがヴェルダンにいる。もしやつらが来たら、俺達は一人残らずくたばるだろう。だが、まっさきにくたばるのはあんただ。」 父はこうした侮辱を、希望からくる落ち着いた態度できいていた。・・・(略)・・・役人たちもたしかにプロシャ王は進撃しており、ルイと署名のある指令に従いフランス人を皆殺しにしている。彼らのでっちあげる中傷ほど馬鹿馬鹿しく、信じがたい話しはなかった。
引用・要約 「マリー・テレーズ王女の回想記録」から
マリー・テレーズは父がそんなことをするわけがないと思い込んでいる回想録。あてにならないでしょ。
さて、マリー・テレーズ同様に身内びいきのクレリーの日記が無能王ルイ16世をどういう人物像に仕立て上げたのか。
ルイ18世に彼がその日記を献じたとき、「多くの真実が危険と共に明らかにされた。」という銘文を授けられたもの。
そう、ルイ16世従僕クレリーの日記は出版されて、彼にいくらかのゆとりをもたらすものとなった。
Jean-Baptiste Cléry, Journal de ce qui s'est passé à la tour du Temple pendant la captivité de Louis XVI, Londres, 1798
1792年の8月10日、民衆によるテュイルリー宮殿襲撃からはじまるクレリーの日記。フランス国王ルイ16世は監禁された。
その当時は王太子殿下に仕えていた。その日、パリ県の検事総長レドレルは、ランバル公妃と養育係のトゥーールゼル夫人だけをお供にさせて、議会に非難させた。
取り残された私は、フイヤン修道院のテラスに槍にささった生首を4つ見た。それが王宮襲撃の合図だった。
宮殿は死骸でうまり、王妃のテラスから飛び降りた。スイス兵は無残に殺され、女たちはズタズタに死体を切り裂き、意気揚々としている。
面識のないリュドリュー氏が危険が去るまでかくまってくれた。そこに王太子殿下の侍女ランボー夫人も避難してきた。
その主人の息子たちが帰ってくると、陛下の権限停止と監禁の話を聞く。タンプル塔に幽閉された6日後に、王家に仕えていた女官達が逮捕されたことを知り、パリ市長ペティヨンに頼み、王太子殿下の従僕として8月26日にタンプル塔に入った。
引用・要約 「国王の従僕クレリーの日記」 クレリー著、ジャック・ブロス編 吉田晴美 訳
アントワネットの娘マリー・テレーズの回想録を読むと、マリー・テレーズはクレリーに好印象を持っていなかったようだ。11月2日のこと。、クレリーが知り合いの歩哨と握手したことが原因で、邪推されたクレリーが逮捕された。戻ってきたクレリーはルイ16世にこれまでの振る舞いを詫びたと記している。
マリー・テレーズから見て、この当時に何か不審な点があったのだろうか。まさか、テュイルリー宮殿襲撃の日に、さっさと逃げたのではないかという僕の邪推。
9月3日、昼食の最中に太鼓の音、次に人民の叫びが聞こえた。窓の向こうに槍の先にささった人の頭が現れた。・・・(略)・・・ランバル公妃の首だった。血だらけだが顔はくずれていない。髪にはまだカールがかかっていた。
陛下のところに行くと役人が二人いた。市民が窓際に姿を見せろと要求しているのを役人は告げていた。王妃様への罵声が激しくなる。そこにまた数人の男達が入ってきた。国民衛兵の服を着た男が王妃に向かって「ランバルの首を見せたがっているんだよ。」と王妃さまに言った。
王妃様は気を失って倒れた。
陛下は毅然として言った。「私たちはどんな覚悟もできています、ムッシュー。でもそんな恐ろしい話を王妃の耳に入れないでおいてもらいたかったですね。」
ご家族はエリザベート様の部屋へ入られた。私はしばらく王妃様の部屋にいた。窓からランバル公妃の首が見えた。別な男は不運な公妃の血だらけの心臓を剣の先に刺して掲げていった。
引用・要約 「国王の従僕クレリーの日記」 クレリー著、ジャック・ブロス編 吉田晴美 訳
マリー・テレーズとクレリーの矛盾。
マリー・テレーズはこのときの父ルイ16世が、逆に男に詫びている様子を書いている。その様子は下記記事から。
楓 記事 「マリー・アントワネットの娘 マリー・テレーズ王女の回想記録 1
どちらが本当のルイ16世の態度だったのだろう。そしてマリー・アントワネット。クレリーは失神したとあるが、マリー・テレーズは立ったままと書いている。
クレリーは塔の中、そして彼らの一日の様子も日記に書いている。
小塔と大塔は背中合わせで中はつながってはいない。小さな円塔が二つあり、一方は階段、一方の円塔は小部屋で各階とつながっている。
主屋は一階の控えの間、食堂、円塔の中の小部屋は図書室。二階の一番大きな部屋は王妃と王太子。小さな控えの間を隔て、王女様とエリザベート様。その部屋を通り、小部屋は共同の衣裳部屋。陛下は三階。円塔の中の小部屋は書斎。四階は封印されている。
陛下は6時に目覚め、身支度を整えた数分祈る。9時まで読書。9時からご家族で陛下の部屋で朝食。10時には王妃の部屋に集まり、一日を過ごす。
陛下は王太子さまにコルネイユ、ラシーヌを暗誦させる。フランスの新しい地理。傍らで王妃は王女様の教育にあたる。それがすむと、お昼まで縫い物、編み物、つづれ織り。正午に三人のご夫人は部屋着を着替える。天気がよければ庭へ散歩。二時に塔に戻り、昼食。
国民衛兵隊総司令官サンテールと副官二人が巡視にくる。昼食後は陛下と王妃はゲームをする。四時、陛下はお休みになる。お目覚めになると王太子様の手習いがはじまる。モンテスキューや著名な作家の著作集から書き写す。そのあとエリザベートさまの部屋で鞠投げや羽根突きをする。
日が暮れる頃、王妃様は歴史や選りすぐりの本を読み聞かせする。しかし思いがけずご一家の境遇とよく似た話が出てくることもあり、皆様はふさぎこんでしまわれる。その次にエリザベートさまが午後8時まで朗読。
そして夕食。陛下は図書室のメルキュール・ド・フランス誌から謎々をお出しになる。夕食のあとお祈りをする。9時、陛下は夕食をとる。陛下は真夜中まで読書をなさる。こうした生活が9月30日まで続いた。
引用・要約 「国王の従僕クレリーの日記」 クレリー著、ジャック・ブロス編 吉田晴美 訳
クレリーによると王妃やエリザベートが選りすぐりの本を読み聞かせし、思いがけず境遇が似ている話にふさぎこむ。
清教徒革命とか名誉革命とか?
不思議だが、まさか朗読するまで本の内容を知らないわけがないと思うのだが。タイトルなんかみても・・・。
仮に僕なら自分の置かれた立場からすると、朗読の本は選定するだろう。
だが・・・、清教徒革命(ピューリタン革命)では三十年戦争が尾をひき、海外の干渉をほとんど受けずに革命は進展した。
「義弟よ、署名するのか?」
レオポルド2世がルイ16世に問う場面
ルイ16世は海外の干渉を受けなかった清教徒革命から、プロシャ(プロセイン)、オーストリアに侵入させる手段を考えたのではないか。
ルイ16世の地位を保証がないなら、フランスと戦争をするというピルニッツ宣言。海外からの干渉を得ることで地位を守ろうとしたのか?
1791年のピルニッツ宣言は、マリー・アントワネットの兄、レオポルト2世(神聖ローマ皇帝)とフリードリヒ・ヴィルヘルム2世(プロセイン王)の共同宣言で、アリー・アントワネットは兄レオポルド2世にフランス軍の情報を提供したとある。
マリー・テレーズが父がそんなことをするわけがないと書いているプロシャの侵入。
クレリーは次のように書いている。
マニュエルが9月中にきて、プロシャ王がシャンパーニュに侵入したころ、陛下にプロシャ王宛ての手紙を書かせた、といううわさが流れたことがある。
はっきり言えることだが、私が塔にいた間、マニュエルが姿を見せたのは、9月3日と10月7日の二回だけである。
二回とも大勢の役人と一緒だったし、陛下と個人的に言葉を交じわすこともなかった。
引用・要約 「国王の従僕クレリーの日記」 クレリー著、ジャック・ブロス編 吉田晴美 訳
たったこれだけだ。
クレリーは、ルイの遺書をこの日記に書き残しているが、ルイ16世は二通用意した。その一通なのか、あるいはクレリーが写したのかわからないが、クレリーに遺書の中身を見せるほど信頼されている。
そのクレリーがルイ16世の醜聞を書くわけがない。クレリーの目的はルイ16世の美談なのだ。
そしてもうひとつ歴史からルイ16世が学んだのは名誉革命だろう。王を処刑せず、その亡命を認めている。処刑すれば殉教者として扱われるからだ。
これだよ。
ルイ16世はこの二つの革命を知っていた。だからはじめにフェルゼンと共に逃亡したんだ。きっと殉教者として扱うことに難色を示すと思って。
ところが失敗した。もう彼らの名誉は殉教者になる以外ない。
ジャック・ブロスはあたかも断頭台の下でフィルモン神父(Henry Edgeworth de Firmont)が与えたその名文句で、ルイ16世は信仰篤い殉教の王(roi martyr)として、キリストの殉教のように当てはめられたかのように語っている。
だが、僕はもっと以前から殉教の王(roi martyr)としての伝説つくりをしていたと思う。タンプル塔の図書室で。
さて日本では、処刑された殉教者としてのルイ16世、アントワネットの伝説はあまりひろまらなかったようだ。
クレリーの日記には、1792年に書かれたルイ16世の遺書の内容が載っている。
記事 クレリーの日記 ルイ16世の遺書
無能王あるいは啓蒙思想の王、そして可愛いアントワネットのお話ばかりで、伝説の美談になったこの「殉教」が抜けてしまっている。
ルイ16世の処刑は、三銃士、王妃の首飾りで有名なアレクサンドル・デュマ(大デュマ)が、その様子を伝えている。ルイがフィルモン神父から与えられた名文句だ。
太鼓の音がその声を閉ざす。とあるが、大デュマには聞こえていたらしい。
エジウォルト・ド・フィルモン神父
手記「ルイ16世の最期」は国王の贖罪司祭エジウォルト・ド・フィルモン神父が書いているが、結構、マリー・テレーズ、クレリー、フィルモン神父は同じことを綴っても、みんなそれぞれ違うことがある。
とくに、フィルモン神父はあとになって書いているようだから、記憶が定かでないと思われるところもある。
ただし、ルイ16世の名文句は一字一句間違いないだろう。大デュマに聞こえていたとおりだから。
国王陛下の運命がまだ決まらない頃、マルゼルブ様から第三者の家で会いたいとの申し出があった。
委員会が開かれているテュイルリー宮に来てみると、至宝大臣ガラから「ルイ・カペー(ルイ16世の平民としての呼び名)が臨終のときにあなたに立ち会ってもらいたいと言っています。」と言う。
「陛下が望まれ、私を指名なさったのなら、陛下のおそばにまいるのが私の義務です。」と応えた。
タンプル塔に着くと、陛下は「神父様、今はあの最も重要な用件についてお話しなければなりません。」といって封を切られた。
遺書だった。
陛下にお会いして、ある思いがますます強くなった。それはいかなる犠牲を払っても聖体を拝受していただくことだった。
さっそく陛下の了解を得て、明日処刑場に向かう8時の前に行うことになった。
・・・(略)・・・
陛下はしっかりしたお声で「出かけよう」と言われた。
陛下は馬車に押し込められ、ルイ15世広場についた。三人の処刑人が、お召し物を脱がせようとした。陛下は毅然と押し止め、ご自分で処刑の身支度をなさった。
処刑人は陛下の両手を縛ろうとした。陛下はそれを憤然と断ったが力ずくで縛ろうとしているように見えた。
「陛下、この最期の侮辱においても陛下と神とは相通ずる点がございます。それこそ神が陛下にお与えになる償いとなるのです。」
陛下は処刑人に「好きにするがいい。苦い杯を最後まで飲み干そう」
それから二十ばかりの太鼓に一瞥をくれて静かにするようお命じになり、あの永遠に忘れられない言葉を仰せになった。
「私は無実の罪をきせられて死ぬのだ。私を死に追いやった人たちを許し、こう神に祈ろう。これから流される血が二度とフランスを血で染めぬようにと」
「国王の従僕クレリーの日記」 クレリー著、ジャック・ブロス編 吉田晴美 訳
この最期のルイ16世の言葉。彼は罪人ではなく殉教者として処刑されたことになる。
ルイ16世 デス・マスク マダム・タッソー
なぜならジャック・ブロン曰く「信仰篤き王の言葉であり、キリスト教徒の言葉である。」と。
「しかし同時に国王としての言葉でもあった。その言葉はフランス全体が罰を受けるべきだと前提しているからである。」
そしてジャック・ブロンは語る。
「国民公会は凡庸な男を殉教者に変えてしまった」と。
引用・要約
Journal de ce qui s'est passé à la tour du Temple
「国王の従僕クレリーの日記」 クレリー著、ジャック・ブロス編 吉田晴美 訳
さて死刑執行人シャルル=アンリ・サンソン。彼からのルイ16世に対する感服の言葉は残っていない。長い間ためらったとある。