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Karl Lagerfeld

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マクシミリアン・ロベスピエール
18世紀 フランス / SAI

今日、長いです。僕は全くの無知です。だから不思議だなって思ったことを調べて述べているだけです。

「革命における最大の人物で、史上もっとも偉大なりし人々の一人」と賞賛しているが、解説は「しかしながら」と続く。

こうした賛美は19世紀に多く、彼の業績を讃えたものではない。なぜなら彼の諸原理が理解していないものだからだとある。

この革命時代のロベスピエールという一個人の生き方に偉大だが、その業績の評価はどうだったのか。

それを僕は、ロベスピエールは独裁者ではなかったという前提での話でまとめています。「独裁権力を持った集団の第一人者」としてね。


ロベスピエール 当時の市民の日記から


独裁政治といわれているけど、彼が独裁者だったわけじゃない。ジャコバン派の山岳派の独裁政治。ロベスピエールは独断的だったわけ。

さて、alei から借りてきた本「フランス革命下の一市民の日記」に、このロベスピエールらの「陰謀」とした件が記されていた。

つまりロベスピエールが独裁者となる陰謀である。その陰謀と加担した者たちが、つまりロベスピエール一派になるんだけど逮捕されたんだ。

当時の市民の日記は、ホント貴重だね。

クーデタで打倒されるべき独裁者だったわけではなく、「ロベスピエールは独裁者になる陰謀を企て、その独裁者になる前にクーデタで打倒された」とこの日記は書いてある。

つまり当時の市民は恐怖政治は認めているが、彼が独裁者だとは思っていないんだ。



◆独裁者と独裁政治の定義◆

独裁者とは、wiki によると「一人の人物に権力が集中し、その者が国政を操っている状態を独裁制、そしてその権力が集中した人物のことを独裁者と呼ぶ」とあり、僕もこれはわかりやすいと思う。たとえばベニート・ムッソリーニ、アドルフ・ヒトラーがそうだよね。

独裁政治とは「特定の個人・党派・階級・身分などの少数者が国家権力を独占し、恣意的に行う政治」とある。

フランス革命時は1792年から1795年まで国民公会が立法機関として設置された。

ロベスピエール。彼がそのまま素直にルソーに傾倒し、「社会契約論」の国家理想を築いたらどうなっていたのだろう。ルソーの「社会契約論」は「人民の幸福と有徳な政治」だとされている。そのための革命はどうだったのか。


ロベスピエールの諸原理と法令

ロベスピエールはすべてを独裁的に決定したことは一度もない。

なぜなら、「自由のために望ましき多くの法令を採択することはできなかったが、わたしは自由を破壊すべき法令を否決させることができた。」とロベスピエールは述べているからだ。

そうそう、自分で法令を提示しなくても、ロベスピエールが望むものは採択できたから。

望まないものは徹底的に弾圧する。たとえば公安委員に指名された派遣議員ブリーズ。ロベスピエールの激昂に触れ、辞任することになる。

逆に重用したパリ市国民軍司令官フランソワ・アンリオはどうか。無能な男だ。だがロベスピエールには扱いやすかったのだろう。ロベスピエールが汚い仕事だと考えることを、自分の意思として働いてくれたからだと思う。このアンリオは選挙で司令官となったんだけど、裏工作はなかったのかな。

ロベスピエールは権力と職能をはっきり区別しようとしていた。

職権乱用を防ぐためである。人員を頻繁に入れ替え、権力の循環が人民のところで閉じることだという。国庫の管理は議会のみである。国民の公金を正しく使用することに注意することができるという。

このロベスピエールの職権乱用防止の原理は、汚職や横領が横行し、逮捕や処刑で財産没収したものは着服されることになり、挙句にはロベスピエールを失脚させることになる。


 
◆革命行為の正当化◆

ロベスピエールの固定観念には革命行為の正当化があげられる。そしてジャコバン派の山岳派(モンターニュ)への非難を防ぐことだ。

1791年1月2日
「真の敬神とは、万人の福祉のために社会を乱す者を罰することの中に存する。」

1793年12月25日
「革命政府は非常手段をとらねばならない。なぜなら戦時下にあるからだ。」

1794年2月5日
「恐怖によって自由の敵どもを圧服せよ。そうすれば諸君は共和国の建設者と呼ばれるに値するだろう。(略)平時における人民的な政府の原動力が徳とすれば革命時におけるそれは徳と恐怖である。徳なき恐怖は忌まわしく、恐怖なき徳は無力である。」

ロベスピエールは恐怖を実施するには、自己犠牲や私利私欲が必要だと言う。ところが同意した地方の反乱の鎮圧では思いがけない事態が起こる。(というかわからなきゃならないんじゃない?)

1793年8月
ジャン=ランベール・タリアンのヴァンデへの破壊命令
「戦争に関わった可能性のある者は、老若男女を問わず、容赦なく殲滅せよ」

1793年11月
ジョゼフ・フーシェ、コロー・デルボワらのリヨンの虐殺

フーシェの殺戮にはロベスピエールは批判を恐れていた。だからこそ過剰な殺戮は「体面」を汚したと激怒。ところがジャン=ランベール・タリアンのボルドーでの静粛に関しては手ぬるいと言うロベスピエール。

1793年9月-12月 
ポール・バラスとスタニスラ・フレロンのトゥーロンでの大虐殺

※国民公会軍は、ジャン・フランソワ・カルトー将軍が率いてトゥーロン攻囲戦を開始。ここでナポレオン・ボナパルトがオーギュスタン・ロベスピエール(ロベスピエールの弟)の推薦で、負傷者の後釜に納まる。この鎮圧にきたポール・バラスは、のちにナポレオンを副官にする。

また最後までロベスピエール派の手の及ばぬ分野があったのではなく、ロベスピエールは決然とした指導者ではなかったからだ。そして「独裁者」と思われることを極端に嫌った。

なぜなら彼の提唱する自由と平等に「独裁者」とされると困るからだ。「自由を侵すもの」であtってはならないのである。

だからこそロベスピエールにとって都合のよい法令はそのままである。「議会そのものが認めた諸原理」は、ロベスピエールが採択したものと変わらない。そして授用したという形式をとる。

「独裁者」にならぬように、「議会そのものが認めた諸原理」としておくことが都合がよいのだ。ロベスピエールの提議が受け入れられるのは稀だと言わせしめることができる。

そしてそもそも制度上、独裁者が君臨する余地はなかったことになるように。

「諸官庁や行政官などを監督する一般監察局についていえば、サン・ジュストであり、サン・ジュストが配属先に出向いているときだけ、ロベス・ピエールは代行をしていただけである。」

ほらね、こういう所見がでてくるようになる。

「1793年9月5日(施行は15日)の反革命容疑者法はこれはエベール派と極左化したパリ民衆の圧力によって成立したものである。」

「自由のために望ましき多くの法令を採択することはできなかったが、わたしは自由を破壊すべき法令を否決させることができた。」とロベスピエールは述べているでしょ。

つまりこの反革命容疑者法は自由を破壊すべき法令ではなかったので、ロベスピエールは否決しなかったのだ。

エベール派を弾圧したが、この法令を撤廃していないしね。


ロベスピエールの教唆扇動と買収

ロベスピエールは、「教唆」が巧い。暗示してそそのかすことを得意としている。そのためには機密費の利用、買収はかかさない。

ギロチンの処刑台には一般の民衆に混ざって暗躍する人々の喝采。民衆が熱望して恐怖政治がはじまったという状況じゃないよ。扇動されたんだ。

あるいはヴェルサイユ行進だって中央市場の主婦達っていうけど、女装した男達が扇動したんだ。そして各家をまわって女たちを引きずり出して、行進に加える。サド侯爵夫人がその手紙を書き残している。(オルレアン公の手引きと言われている)

これは何もジャコバン派モンテーニュ派に限ったことじゃないけどね。

1793年4月にはジャコバン派内部で、モンテーニュ派とジロンド派の対立が激しくなった。ロベスピエールは頻発している民衆デモを利用して人民を扇動するようサン・キュロットらを買収した。

1793年の4月18日、ジロンド派への陥れがはじまった。請願書の署名である。

記事 
フランス革命下の一市民の日記 1793年 4月

5月8日 ロベスピエールはジロンド派へサン=キュロットをもって革命軍隊を編成すべしと要求する。

5月25日、ロベスピエールは人民の蜂起を求める演説。

5月31日、アンリオ(司令官になるのはこのあと)が国民衛兵の指揮を執り、12人委員会の廃止とジロンド派の逮捕を求めた。人民蜂起の暴徒は国民公会へ侵入。

この日のギタールの日記には、「集合太鼓が鳴り、全市民は武装した。この突然ふって湧いた異常な事態の原因がわからなかったので、憶測が憶測を呼び、恐ろしい憶測が生まれた。」とある。(aleiの奴、ここの月とばしてる!ムカッ!)

あっ、いまごろ・・・
フランス革命下一市民の日記 ロベスピエール編 その1

6月1日 ジロンド派幹部の逮捕。アンリオは国民公会を包囲。そしてジロンド派29名を逮捕させた。


まだ、マラーの暗殺1ヶ月前だ。恐怖政治はマラーが推進したものだ。ジロンド派逮捕の翌日1793年6月2日から、ロベスピエール処刑の1794年7月28日までが年表では恐怖政治である。

つまりマラーではじまりロベスピエールで終わる。

記事 
パンテオンにおけるマラーとジャン=ジャック・ルソーとの大論争 by デュプライユ

前回の記事で、ペンネームで書かれた1794年のパンフレットを紹介した。「パンテオンにおけるマラーとジャン=ジャック・ルソーとの大論争」のことだ。

「これを聞いて、腹を立てたルソーは ”人々の間ではなく虎の間といってもらいたい。どうして30万人もの頭を君ははねたのか ”」

(テロリズム推進のことをなじってるんだね。)

「マラーは ”公共の自由と君自身が用意した革命の成功を確保するためには、それだけでも足りないくらいだ ”と言う」

(” 議会が「一般意志」に基づく公正な政治 ” の限りでは、抵抗権の合法性は認めないとルソーは言うが、「ルソーの血塗られた手」のロベスピエールは ” 議会の代表者の「一般意思」” と捉えている。)

「ルソーは ”革命について語ったとき、ただ一人の人間の生命でも必要とするなら、それを行うべきではないといわなかっただろうか?”という。」

(ルソーの「国民の最後の一人」をも保持すること、そうでなければ社会契約に従って国家形成が解消されてしまうってこと?)


この抜粋したところは、1794年の「パンテオンにおけるマラーとジャン=ジャック・ルソーとの大論争」だ。マラーの墓がまだパンテオンにある頃。

ジロンド派に関係があるとされているシャルロット・コルデーがマラーを暗殺したのが翌月7月13日だった。

記事 
フランス革命下の一市民の日記 1793年 7月

「革命における政府の基礎は徳と恐怖である。徳なくしては恐怖は忌まわしく、恐怖なくしては徳は無力である」とロベスピエールは言う。



 サドの言い分

だが、サド侯爵が面白いことを述べている。「徳もなくして、恐怖もなくして」と批判した。

これにはサド侯爵流の理由がある。

ロベスピエールは無心論者は貴族的という理由で断罪したわけなので、「美徳」を土台にした偶像を創り上げる。

あまりにもセンスなさ過ぎ。なんでもルソーに結びつけて猿芝居だ。これにはあのサド侯爵も切れた。

記事 ルソーの妄想・空想・瞑想

そして、革命を支持していたサド侯爵(一応ブルボン家の薄い血を持っている)は、一変してロベスピエールの提唱に反対を唱えだした。「徳の無い、恐怖政治」に。

記事 
サド侯爵 マルキ・ド・サド

さっそく請願書を書く。これがサドの逮捕になるわけだが、死刑はロベスピエールのほうが早かった。(サドは二度目の死刑宣告も免れた。)

ちなみにサドもルソーを対極化した論理の持ち主である。ロベスピエールと違って、サドはサドなりのルソーの引用をしている。



 最高存在の祭典

サドが切れた猿芝居が「最高存在の祭典」である。

このロベスピエールの祭典の7ヶ月前に「自由の祭典(理性の祭典)」をおこなったのがジャック・ルネ・エベールだ。ロベスピエールはこれを非キリスト教化論者として非難。革命暦を採用したことも民衆の感情を害すると言っていた。

最高存在の祭典について、はじめに言い出したのはポム・ラメリカンだ。1793年4月のことだ。

諸説やいろいろな解説がある。ひとつは革命に蜂起するべき民衆が、秩序を乱すことがないよう理性を絶対視し、ジャコバン派モンテーニュ派の「恐怖と徳」を理想化し、娯楽にうつつを抜かすことなく、情熱と愛国心の助成のために催されたとか。

wiki に「祭典のメインイベントは二百人もの人間の首を落とすギロチンであった。」とあるが、当時の市民の日記や文献をいくつか調べてもその事実はなかったようだ。

「クロニク・ド・パリ」(1792年11月9日)で、ミシュレは「なぜ多くの婦人たちがロベスピエールのあとについてゆくのが、時々不思議に思われる。だがその理由は革命がひとつの宗教であり、ロベスピエールがその宗教の一派を立てているからだ。彼は信徒を従えた司祭である。」

ロベスピエールは市民的な宗教を組織しようと考えた。道徳、訓育、教育、徳の発展である。「道徳上、政治上の大きな刺激を与える」とし、一方で「よこしまな人間でもたやすく偶像視したがる民衆の迷蒙を啓く」ことに努めた。

自由のために死した殉教者を祭ることからはじめた。革命暦の採用で廃止された安息日、聖人の日を国民的祝祭に変える。最高存在の下に、富者と貧者、強者と弱者を統一しようという平等主義的理想を強調した。

1794年6月8日のこの祭典は画家ダヴィットに一任され、二十人以上の芸術家たちが装飾を凝らす。祭典のためにつくられた賛歌をオペラ座団員と各地区の合唱団が歌う。無神論を擬した綿屑人形にロベスピエールが火をつけると、「知恵」の人形があらわれる。楽隊の行進。自由の凱旋車。議員達の行列。シャン・ド・マルスで一行は賛歌を歌い築山をめぐる。

この理性の礼拝。これ以降に誰も崇拝するものはいなかった。


国民公会、公安委員会、保安委員会、革命裁判所

国民公会は、1792年9月20日に開会。ジャコバン派内の山岳派(モンターニュ)のロベスピエールは、翌年3月にジロンド派を追放した。

ロベスピエールを支持したのは、エベール派とサン=キュロットである。

そもそも国民公会とはフランス革命時は1792年から1795年まで国民公会が立法機関として設置されたもの。

wikiによると
国民公会にはあらゆる階級の民衆が参加していたが、最も多数を占めたのは弁護士たちであった。立憲議会は75人、立法議会は183人の議員で構成され、代議員の定数はフランス本土の749人に加えて植民地の33人であったが、植民地からの参加は少数であった。

国民公会の議長は内規により2週間ごとに選出され、再選も許された。(略)国民公会は立法及び行政上の目的で委員会を設立し、次々と法令によってその権限を拡大し、運営した。これらの委員会の中でもっとも有名なものは公安委員会 (Comité de salut public)、保安委員会 (Comité de sûreté générale)、文部委員会 (Comité de l’instruction) だろう。


ふーん、法令はここで決まる。

1791年から1795年までの法令には次がある。

ル・シャプリエ法(1791年2月 ジャコバンの前身ブルトン・クラブ イザーク・ルネ・ギー・ル・シャプリエ)、離婚法(1792年) 、ここから国民公会→30万人動員法(1793年2月 モンターニュ派議員デュボワ=クランセ)、アマルガム法(1793年2月 モンターニュ派議員デュボワ=クランセの発案にサン=ジュストの支持) 、封建的特権の廃止(1793年7月)、総動員法(1793年8月)、最高価格令(1793年9月、ロベスピエールの公約)、反革命容疑者法(1793年9月 エベール派)、1793年の人権宣言、プレリアール22日法(ジャコバン派モンターニュ ジョルジュ・クートン)、ヴァントーズ法(1794年2月、ジャコバン派モンターニュ サン=ジュスト)

フランス革命の年表では、1793年4月からジャコバン派独裁政治としている。

alei の記事 フランス革命下一市民の日記
テルール(恐怖)のあと (1794年8月〜12月)
ジャコバン派独裁 恐怖政治編 (1794年1月〜7月)
ロベスピエール編 その1 (1792年12月〜1793年7月)
ロベスピエール編  その2 (1793年8月〜1793年12月)


 
◆国民公会

▽最高価格法について▽

1793年の5月に穀物の最高価格法が制定された。

「最高価格法」もそうだ。一時的にせよ、「最高価格法」が効力を発したのは事実だろうが、それをなし得たとは言わない。

ロベスピエールは過激派の食料輸送中の略奪を一時的には見逃していたというべきか。略奪物は安価で貧民に分配される。

1793年2月25日に食料品店略奪暴動が起きる。この件に関してロベスピエールの意見書は次のようなものだ。

パリの民衆は暴君こそ撃減すべきであって、食料品などを襲うべきではない。人間とあろうものが ” いやしい商品 ” のために騒動を起こすなどは考えただけでも憤ろしいのである。フランスの人民がつくりだしているのはパンだけではない。法律によって強化された自由こそ、彼らの賜物なのである。

アホか!「パンがなければブリオッシュを食べよ」じゃなく、「パンがなければ自由を口にせよ」と言っているのと同じだ。

人間は、とくにこの当時は、人はパンのみによって生きるのである。ロベスピエールが偉大になれなかった、指導者になれなかった理由はここにある。

議会の外で、民衆が虐げられている声を代弁することだとロベスピエールは考える。何を為すかは民衆の意志だという。それを ” 卑しい商品 ” としてどうするのさ?

あっ、いまごろ・・・alei くん
フランス革命下一市民の日記 ロベスピエール編 その1
この記事にギタールが食料品店略奪暴動の日記をトピックしてる。

wikiに
7月下旬から8月上旬にかけてパリなどの都市部では食糧危機が再燃していた。パリでは最左翼の極左勢力であるアンラージェ(過激派)がこれを盛んに煽って、極端な社会政策を提示してサン・キュロットの支持を集め、体制打倒を目指すような言動をはじめた。公安委員会は、派遣議員に近県から力ずくで徴用してパリに食糧を送るように厳命する一方、後述の機密費を利用して自治市会(パリ・コミューン)に大金を与え、物資の調達を命じた。これが功を奏して民衆の飢餓の不安が鎮まると、アンラージェへの支持は揺らぎ、その間隙に彼らを一斉に逮捕して粛清した。これら極端に過激な意見を取り除き、左右のバランスを取ろうというのは、ロベスピエールの指導によるものだった。


1793年、9月5日。武装したサン=キュロットが議場に乱入し、「パンとギロチン」を要求した。パリではパンがまた不足している。

穀物を退蔵している投機家を捕まえてギロチンにかければパンがもっと出回るだろうということだ。

この要求はロベスピエールの統制経済と恐怖政治を支援するものである。

aleiは当時生きていたセレスタン・ギタールの日記を記事にしている。1791年2月から1796年5月までの日記である。

1793年の9月制定の「最高価格法」については9月27日にほんの数行で、「価格の引き下げる必要のある全商品の定価表が示されることになろう。」だけだった。

1793年12月、「昨日から5ヶ月ぶりに店先にパンが並んだ。パン屋での行列がなくなった。この状態が長続きするように、とギタールの日記にある。皆が等しく一定量のパンを購入できる。これこそ悪徳商人をやりこめる方法だ。」とある。

そうして2ヵ月後。
翌年の2月の日記、「食料品が極度に乏しくなった。肉、バター、いんげん・・・・。」

こうして「最高価格法」で、最後の日記はギタールの破産で終わっている。たった2年のうちにアッシニア紙幣は紙くず同然になったからだ。


「最高価格法」、これでは生活苦にあえぐ人々には何の救いにもならないだろう。アッシニア紙幣の下落は、撤廃になる前から急激なものだった。

ただし「最高価格法」が撤廃されてから物価は高騰している。それは「ル・シャプリエ法」が撤廃されていないからだ。

ギタールは比較的裕福な市民だった。ところが、ロベスピエールらが「貧民のため」と叫んだ政策は「貧民」を救うどころか、裕福な市民さえ生活ができなくなった。

ただし、職人の生活は向上している。1791年のル・シャプリエ法によるものだ。つまり、同業者の団結を取り締まるものだが、これは自由競争を生み出した。だから価格はどんどん上がる。職人にとっては万々歳。

記事 
フランス革命下の一市民の日記 1791年の2月




 だから結局

サン=キュロットたちは最高価格法が小手工業者、小売商人にも適用され、彼らが給与生活者と同じであることに憤慨する。

一般市民の食料供給は諸商品が欠乏し、闇市場が生まれ、労働者は手がでない。期待は全くはずれてしまった。

市民にとって、これは厳しい経済統制のため「自由」はまったく存在しないのである。経済統制に違反して逮捕される人はうなぎ上りだが、インフレもパンの不足も解消しなかった。



▽プレリアール22日法▽

「反革命的行為とみなされる行為は、証拠がなくとも、陪審員の心証だけで有罪である。」って。量刑が有罪の場合は平等に死刑のみだ。

「反革命容疑者法」は、証拠がなくとも逮捕できるという法令。要はプレリアール22日法は、証拠がなくとも有罪にできるってことだ。

その「プレリアール22日法」制定の2ヶ月前。当時の一市民が書いていた日記がある。

まず1794年4月から、ギタールの日記の半分以上がギロチンの処刑者の氏名、年齢、身分に変わりだした。毎日というのは大袈裟だけれど、毎日に近いくらいに5日は15人、13日は18名(25名中7名釈放)、18日19名で、この18日以降はほぼ毎日。

要するに、処刑において「反革命的行為が発覚すれば、証拠がなくとも、陪審員の心証だけで有罪」としたのがジョルジュ・クートン。それをロベスピエールの支持を得て可決となった。

なぜロベスピエールの支持を得て可決なのか。彼に責任を負わせるわけではない。ただ、ジャコバン派のモンタニャール(山岳派)の筆頭が彼になっていた。

もしも、「証拠がなくとも、陪審員の心証だけで有罪である。」という法に問題があるなら、ロベスピエールは可決しなければよかったはず。


 
  恐怖の効果

「反革命容疑者法」では証拠がなくとも逮捕することができて、1年間と2ヶ月(1793年4月から94年6月10日)で、1251人が処刑された。

証拠がなくとも陪審員の心証で有罪(処刑)することができる「プレリアール22日法」では、47日間で1376名が犠牲となった。

(これを即座に、サン=ジュストが述べたルイ16世の囚人と処刑の数とを比較する必要は無いと思うが、革命裁判所のところで一応記しておいた。)

「反革命容疑者法」では逮捕することはできた。検挙率をあげるためである。反革命容疑で逮捕拘束された者は約50万人。そのうち処刑に間に合わずに獄中死も多い。こうした処刑以外の逮捕者の死の財産没収はどうなっていたのだろうか。

結局、サン=キュロットと密接なつながりがあったエベール派を弾圧したロベスピエールらは、サン=キュロットの支持を得られなかった。だからこそ、「味方」につけるべく、「ヴァントーズ法」を急ぎ、その財産没収のための「プレリアール22日法」を可決したのではないだろうか。

証拠もなしに処刑される。恐怖政治といわれる由縁だ。

革命裁判所 検察官 フーキエ=タンヴィルについて、僕は好意的な記事は書いていないが、この法令のもとに従っていたとすれば、密偵以外については、「良いも悪いも関係なく」法令に従ったという人物かもしれない。


 
▽ヴァントーズ法▽

1794年の2月、サン=ジュストが提案したヴァントーズ法。検挙や処刑で財産を没収したからこそ、反革命容疑者の財産を貧民に分配できたわけだ。

(ちなみにこのヴァントーズ法は、財産分配だけに限らない。国家による医師養成・管理制度なども含まれれている。しかしながら財産分配同様に、こちらでは十分な医師の確保ができない状態で制定しているんだ。)

パリの民衆は暴君こそ撃減すべきであって、食料品などを襲うべきではない。人間とあろうものが ” いやしい商品 ” のために騒動を起こすなどは考えただけでも憤ろしいのである。フランスの人民がつくりだしているのはパンだけではない。法律によって強化された自由こそ、彼らの賜物なのである。」(再度引用)

ジロンド派のブリッソーは「人々は国内の平静を望み、その平静は財産家には財産を、労働者には仕事を、貧しいものには日々のパンを、そして万人に自由の享受を保障する。」のだと僕は思う。

それを財産家から財産を没収し、貧しいものに財産を与えても、それはパンに変わるものじゃない。土地を与えられ、耕し、収穫するまでの期間。そして農具と人手。ただ土地にしがみつく貧しいものを増やし、パンはない。

貧農は土地を買うことよりも、むしろ一袋の食料をうることに切実な関心を寄せていたのだ。


 
 農業方法

ビュゾーは言う。
「金持ちを殺すことによって、明らかに貧しい人を殺すことになる。」

そうだよ、何にも土地の利用法や経営がわからない農民に与えても、その土地を耕し、収穫するまでのモノがないから、パンを与えたほうが良かったかも。

それで与えられた貧民はどうしたかって。革命前と大差のない小農民と零細農民が伝統的生産方法のまま革命は終わってしまった。

つまり根本は農業の方法だ。英国のアーサー・ヤングが、この革命下で見たフランスの農業方法(伝統的生産方法)を嘆いている。

記事 マリー・アントワネット フランス紀行から

彼は貧農に「土地」を与えることが最良と思っていた。

「貧困の克服策は、土地を無償配布することではなく、貧困な廃疾者に救済を、壮健な貧困者には仕事を確保することに在る。」

いつの間にか、ジロンド派のような弁を用いるロベスピエールだが、社会的デモクラシーという理想は彼には指導できなかった。なぜならこの法令の適用を受けるものはごくわずかに限られて、実際上の効果は無に等しい法令だからである。

つまり、貧農層の支持を確保しようという政治的意図しか見出せないのだ。結局学者のいないモンテーニュ派は、農業の伝統的生産に問題があること自体知らなかったというわけ。



 サン=ジュストの理想

サン=ジュスト
「税金のかからない一艇のスキ、一枚の畑、一軒のワラ家、卑劣な泥棒根性を持たない一家族。ここにこそ幸福がある。」

マルクスはこの小生産者の一般的解放に、「巨大な錯覚」だという。しかもすべての農民層を解放したわけではない。結果として、「小農民的所有の確認」ができるという一点だ。

再度ビュゾーの言葉を借りる。
「金持ちがまわりのすべての人々を活気付ける手段(資本)を奪うことによって、労働を欲している人民から、生活の手段(賃金)を奪うことになるからだ。」

実際の貧農はこのヴァントーズ法をどう見ていたか。もはやなんの信頼も得ずであった。なぜならこの法令は土地を獲得しようという貧農の要求と貧農に有利だとする売却方法は、結局限られたものにしか適用にならなかったのだ。

僕の疑問 「結局は政治宣伝なんじゃない?」
◇「プレリアール22日法」は、財産没収を急ぐ必要があった。
◇「ヴァントーズ法」は、下層市民の代表サン=キュロット離れをつなぐためのものだった。



◆革命裁判所

革命裁判所は本来、告発を検事(当時はフーキエ)、保安委員会やコミューンが陪審員を務める。だからロベスピエールが関与するところではないという所見がある。

ロベスピエールが逮捕令に署名した数は542名だ。たぶんほとんどが処刑されているだろう。積極的に関与したといわれているのが170名といわれているが、170名しかロベスピエールが処刑していないのさということではない。

1794年3月24日はジャック・ルネ・エベールをはじめ、エベール派の処刑だった。この日20名のうち18名が処刑。一人は出産まで延期されたクティノー将軍の妻。

そしてもう一人は、J.B.ラブローという誰も知らない医学生である。彼は処刑が免除された。なぜならロベスピエールの密偵だったからである。

革命裁判所の検事フーキエも密偵を使っていた。囚人同士の話を聞いて密告するという任務を与えられた者だ。

革命裁判所ではフーキエはエリザベート王女宛てのマリー・アントワネットの遺書をロベスピエールに渡している。ロベスピエールは、フーキエ、エベールに、マリー・アントワネットはなんとしても死刑であるという。

大量のギロチン処刑は、検事と革命裁判所といわれるが、ロベスピエールは関心のあることには関与し、関心のない人々の処刑はお任せした。財産没収しか頭になかったのではないか。


 
サン=ジュストは言う。
「人は革命的手段テルール(恐怖)について不平を言う。しかし、われわれはあらゆる政府に比べて穏和派だ。なぜならルイ16世のもとでは、40万人の囚人がおり、毎年1万5千人の密輸業者を絞首刑にし、3千人を車裂きの刑にした。パリにいる囚人は今日よりもはるかに多かった。」

教養ある人なら、はーんと思うでしょ。反革命容疑で逮捕拘束された者は約50万人だったでしょ!一応説明しておくけど、ルイ16世は絞首刑、車裂きの刑を非人道的と見なし、苦痛のないギロチンを人道的な処刑道具として普及させたんだよね。

そして、フランス革命が1791年7月14日からだとすると、その犠牲者(有罪、無罪関係なく)はどう? フランス革命にかかわる8月10日事件、9月虐殺、内乱の鎮圧や対外戦争を考えると酷いよね。もちろん人的被害を除かなければならないけど。

テルールでの革命の処刑とその他の革命の犠牲者とを区別して少ないとはどうだろう。

そして、恐怖政治の法令のように証拠もなしに逮捕したり、証拠もなしに有罪になった。無罪のままテルールの犠牲になったものはどれだけいるのかが大事じゃないの。



ロベスピエールは無罪だというものは解放したという。エリザベート王女も解放するべきと提案したそうだ。ロベスピエールは本来革命裁判所は管轄外だっていうのに。しかも民衆がテルールへの疑問、エリザベート王女の処刑に疑問を持ったからだよ。

だが、ロベスピエールは「プレリアール22日法」を可決した。

有罪の理由は非常に馬鹿馬鹿しいものが多かった。また有罪にするために様々な濡れ衣も用意した。王妃の母子相姦、エベールの盗みなど、ロベスピエールの教唆じゃないかと思うことも。

基本的に、きっと僕はロベスピエールが嫌いなんだな。なぜかって、正当性のための演説や法令、非難に対してはしかるべき手段で排除するが、あとで汚名や責任を一切に受けるような法令に関しては他人に任せている。そういうとこ。

僕の疑問
◇密偵を侵入。
◇権限がないのに542名の逮捕状に署名した。

保安委員会、革命裁判所は彼の管轄外とも言われているが、監獄での囚人たちの遺言はロベスピエールの手に渡っている。彼の処刑後の囚人の遺言は差出人へ渡っている。



◆公安委員会

さて、実際にロベスピエールは国民公会、公安委員会、保安委員会、革命裁判所 に通じていた。

というよりも公安委員会のメンバーの一人である。1793年9月25日から翌年7月27日までがロベスピエールの大公安委員会の正式にリーダーとなっている。

議会内でも外でも常に少数派だったが、その権力はむしろ脆弱とは言えないだろう。

「一人の人物に権力が集中し、その者が国政を操っている状態を独裁制、そしてその権力が集中した人物のことを独裁者と呼ぶ」のが独裁者。

「特定の個人・党派・階級・身分などの少数者が国家権力を独占し、恣意的に行う政治」を独裁政治。


 
この1793年9月から公安委員会(大公安委員会)のメンバー12名(11名)が恐怖政治そのものといっても過言ではないと思う。

軍事からラザール・カルノーとプリュール・ド・ラ・コートドールが加わる。海軍担当のアンドレ・ジャンボン・サン=タンドレ(ほとんど不在)。

そして右派にはジャン・バプティスト・ロベール・ランデがいる。

マリ=ジャン・エロー・ド・セシェルはダントン派と共に処刑され、ジャック=アレクシス・チュリオ・ド・ラ・ロジエールは辞任。

中央派はベルトラン・バレール・ド・ヴューザックが残る。

極左派にコロー・デルボワ(リヨン虐殺の一人、なぜかロベスピエール派として流刑になる。)、そしてジャック・ニコラ・ビョー=ヴァレンヌ。

そして公安委員会筆頭となったロベスピエールに、サン=ジュスト、ジョルジュ・クートン、ジャン・ポン・サン・タンドレ、ピエール=ルイ・プリュール・ド・ラ・マルヌ だが、サン=タンドレは財政専門となる。



ロベスピエールは軍隊、財政、行政当局を掌握していないという。

しかし10月10日のサン=ジュストの演説で、大臣、将軍、行政、司法のすべては公安委員会の監視下に置かれることになった。

「フランスの臨時政府は平和回復まで革命的たるべきこと」とサン=ジュストは述べた。そして主張したドクトリン (Doctrine 政治や外交あるいは軍事等における基本原則)が形を整える。フリメール14日の法令はその諸特徴をまとめたものだ。

内務、文部、農業、商業、建設、救貧、運輸、財政、戦争、海軍、軍需、外交の12部門が公安委員会の下に置かれた。

これは立法権と行政権は完全に一体化し、中央集権化したといえるでしょ。ここでロベスピエールは公安委員会、保安委員会、革命裁判所などの機関と通じるのだ

wikiによると。
ロベスピエールやサン=ジュストが、同じ公安委員のカルノーやコロー・デルボワ、ビヨー=ヴァレンヌらに「独裁者」との不当な中傷をうけても、彼らは酷く孤立してどこからも支援が得られなかった。もう一人の同派の委員クートンは満足に動けないほどすでに重病だった。ロベスピエールは影響下にある自治市会を動かし、国民衛兵隊を動員して武装蜂起することはできたが、そのような非合法なクーデターを彼は最後まで好まなかった。

いやいや、買収して蜂起やってますって。武装蜂起を呼びかけたロベスピエールの最後の指令所がカルナヴァレ博物館に残ってるし。

ただ最後のテルミドールのクーデターではコミューンの召集にもままらなかったというわけ。

さて、ロベスピエールは1793年12月25日に集団的独裁を正当化するための報告を行っている。



 ロベスピエールの正当化

「嵐が吹きすさび、革命の現段階はわれわれにもうひとつの課題を与えている。(略)革命政府は非常手段をとらねばならない。もしも公共の大義、すなわち人民の大義が存在しないならば、わたしはむしろ故山に帰臥するであろう。」

これは「恣意的なものではなく、公共の利害という至高の法に従うものである。従って周囲の事情によって修正されるものでもあり、革命政府が適法で在り得るのは人民が信頼を寄せている限りなのだ」ということだ。(マルク・ブゥロワゾ著より)

軍事に関してというよりも武装蜂起の準備は整えていた。ロベスピエールの側近のアンリオが国民衛兵の司令官に任命されている。フランス革命以前のラ・ファイエット将軍と同じ地位だ。考えられない。

1793年2月 モンターニュ派議員デュボワ=クランセの30万人動員法の提案が可決された。これに続いて「総動員」が可決される。

彼の権力は脆弱ではなかった。保安委員会は彼らの配下にあり、それが不和を招いたという事実がある。


 
▽不正の粛正について▽

鎮圧の殺戮、多くの検挙をロベスピエールは法令のもとに認めていた。

ジロンド派はモンターニュ派と違って現実社会に対する客観的な認識を持っていたと思う。哲学者、教育学者、経済学者が控え、新社会の青写真を持っていた。

そして人々が何を望んでいるのかを知っていた。

ジャック・ピエール・ブリッソー
「国内の平静を望み、その平静は財産家には財産を、労働者には仕事を、貧しいものには日々のパンを、そして万人に自由の享受を保障する。」

しかし食料不足、物価高騰に対処することができなかった。

ロベスピエール
「パリの民衆は暴君こそ撃減すべきであって、食料品などを襲うべきではない。人間とあろうものが ” いやしい商品 ” のために騒動を起こすなどは考えただけでも憤ろしいのである。フランスの人民がつくりだしているのはパンだけではない。法律によって強化された自由こそ、彼らの賜物なのである。」(再再引用)

だがロベスピエールの発言を考えると、ブリッソーの方がそれぞれの基本的利害を知っていると僕は考えている。

こうしてパリの国民衛兵とコミューン、サン=キュロットは先にも書いたように、ロベスピエールらの買収により蜂起したわけ。

ジロンド派の粛清は終わった。



エベール派、ジャック・ルゥの過激派は、サン=キュロットを扇動する反革命分子と見なしたとあるが、ロベスピエールはそのサン=キュロット離れを恐れている。

A・マティエによると、ロベスピエールが過激派の意図は反山岳派的、反ジャコバン的だと述べているのは正しい。しかし、そこから推して過激派が反革命的だとなすのは論理の飛躍である。」としている。

ジャック・ルネ・エベールは、1793年11月10日に、「死は永遠の眠り」だという「自由の祭典(理想の祭典)」をノートルダムで遂行した。ロベスピエールはこれを非キリスト教化論者として非難した。

エベールは常に何かをロベスピエールより先に演出する。そのたびにロベスピエールはエベールは悪徳、自分は美徳の論理を当てはめる。

大きな勘違いは貧民やサン=キュロットがどうしてほしいのかをロベスピエールの都合に当てはめたことだ。だからエベール派を粛清したことで、決定的にサン=キュロット、パリの貧困の大衆との乖離となった。

何度も引用するけど。
「パリの民衆は暴君こそ撃減すべきであって、食料品などを襲うべきではない。人間とあろうものが ” いやしい商品 ” のために騒動を起こすなどは考えただけでも憤ろしいのである。フランスの人民がつくりだしているのはパンだけではない。法律によって強化された自由こそ、彼らの賜物なのである。」(再々々引用)

こうしたロベスピエールの論理が彼らの革命にそぐわないのである。

それこそロベスピエールは、9月虐殺でのパリ市長ペティヨンとエベールの陰謀、革命裁判所の検事フーキエの策略などの件は問題にしていない。


 

1794年4月にロベスピエールは収賄の容疑でダントン及びカミーユ・デムーランらダントン派を逮捕し、ダントン派を粛清した。無罪に傾きかけたが、弁論を妨害されるなどの圧力がかかり、結局死刑の判決を受けた。

ダントンの汚職を許せなかった?インド会社事件での横領である。

wikiに「(ロベスピエールは)私生活は至って質素で、紳士的な服装や振る舞いは広く尊敬を集めた。しかし、あまりにも高潔で純粋すぎたために、ともすれば利や欲で動く人間を見極めることができなかったとも考えられる。」とある。

いやいや、ロベスピエールも買収してるでしょ。酷い中傷を教唆して人に言わせているでしょ。利や欲で動く人間をよく知っている。貧しい民衆、サン=キュロットたち。

ダントンやデムーラン、人間的に魅力あるよ。賄賂は受け取ったりしたけれど、そこには和平のための功労が実はあったんだ。

そして清廉じゃないけど卑劣で卑怯でもなかった。

Maximilien Robespierre by Claude-André Deseine

ロベスピエール


ロベスピエールはダントンやデムーランの家族には暖かい愛情を注いだ。あのデムーランの子を膝に抱いた時代もあった。

さて有名な名文句
「民衆よ、武器をもて」 デムーラン
「勇気が、常に勇気が、さらに勇気が必要なのだ」 ダントン

デムーランは革命的独裁と恐怖(テルール)との緩和を要求、経済統制にも反対していた。

さてロベスピエールはダントンの汚職を知っていた。だが、エベール派の非キリスト教化運動と戦うために、しばらくは黙認していた。彼らの協力が必要だったからだ。

ひと段落すると、ダントンを弾劾する「覚書」をサン=ジュストに渡した。(ロベスピエールは自分の手を汚したくない男なんだ。決して告発するのに忍びがたいわけじゃない。「覚書」があるからね。)

恐怖(テルール)と徳(ヴェルチェ)という正当化のためにロベスピエールは裁く。本当に裁かなければならい人物たちを残して。


 
バラス、ジョゼフ・フーシェ。バラスは、もともと悪徳の士で有名だったんだ。makiさんも書いているけど「テンプル塔の独房でルイ・シャルルを発見した」というのがこのバラス。「ルイ・シャルルのすり替え事件」の噂もバラスの発見からだと思う。

こうした人物たちを野放しにして、ジロンド派やエベール派、ダントン派を粛清したの失敗だ。彼らはバラスらの「悪徳」とは違う。本当の「悪徳」を粛清すべきだった。

▽テルミドールのクーデター▽

1794年7月27日、ジョゼフ・フーシェ、ジャン=ランベール・タリアンら、悪徳の先制攻撃にあい、あっけなく3ヶ月の独裁政治に幕を降ろす。

前日、「諸君がいま聞いた演説は私の最後の遺言である」と発言したとあるが、これは意訳かも。

「裏切り者を処罰し、保安委員会の各部局を更迭し、国民公会の至高の権威のもとに政府の統一を樹立する」

一体誰が有罪なのかを指摘していれば、このロベスピエールの弾劾は成功しただろうか。

僕は専門家たちや歴史家とは違う。どちらにせよ、長く続かない。経済政策も民衆の声もすべてズレているからだ。民衆も議員達も、もはやロベスピエールに見切りをつけていたと思う。

Act of Justice

正義の法律


28日 「おまえは独裁者だ」 もっともロベスピエールが恐れていた言葉である。

くだらない最高価格法ですでにサン=キュロットは見限った。民衆の人心離れている。コミューヌ(コミューン)の部隊も次第に散っていく。蜂起の指揮を取らなかったのではなく、ロベスピエールは人心が離れていたこをを知っていた。だから指揮を取れなかったのだと思う。

どちらにしてもコミューヌが召集し集合したのは少数だったからと解説しているものある。

そしてロベスピエールがダントンたちを一段落したところで粛清したように、ロベスピエールも一段落したところで失脚させられた。

ロベスピエールの4度目の粛清は、自分の粛清に変わっていた。

「暴君を倒せ」

ダントンがそうだったように、デムーランがそうだったように、ロベスピエールも発言は拒否された。

「共和国」そのものが終わってしまった。そう嘆く歴史家もいるかもしれないけど、思いがけずパリの人々は、この腐敗した議員たちを大歓迎した。誰もがロベスピエールにうんざりしていたのだから。


王殺しの歴史

英国 清教徒革命 チャールズ1世 斬首
フランスブルボン朝 アンリ4世暗殺
フランスブルボン朝 ルイ16世 革命で処刑

王政復古ではナポレオン1世が弑逆罪を設け、国民公会でルイ16世の死刑に賛成票を投じた議員を「王殺し」と認定した。保身のためだろうけどね。

フランスブルボン朝 ルイ16世 革命で処刑
記事 クレリーの日記 1 ルイ16世の遺書
記事 クレリーの日記 2 タンプル塔の無能な王

1792年にジロンド派はルイ16世にオーストリアとの宣戦を布告させる。その敗戦の責任をとってフイヤン派(ラファイエット、バルナーヴ、ラメット、シエイエス、バイイ)が1792年の6月に政権は戻るが7月に総辞職。

フイヤン派は反革命の王党派として逮捕、処刑、亡命するが、1795年から王政復古にかけて立憲君主派として復活。

ジロンド派は王政の廃止および共和国宣言を採択で革命を終わらせようとした。つまり「国王の処刑なし」で、共和制を主張した。

Execution of Louis XVI: Last Words of the King to His People, 1793

ルイ16世の処刑 1793年


ジャコバン派は「国王の処刑」をもって共和制を主張した。

ジャコバン派モンテーニュのサン=ジュストの処女演説、ロベスピエールの演説が決定した。

サン=ジュスト曰く
「王として統治すべきか、それとも死ぬかである」

ロベスピエール曰く
「祖国は存在すべきもの、ルイは死すべきものである」

オルレアン公の1票がルイ16世の処刑を決定したわけではないのはご存知だと思う。だが、オルレアン公は、このときジャコバン派モンテーニュの一人だった。

こうして投票になったわけだが、サン=ジュスト、ロベスピエールは国民投票に反対した。それは国民投票でルイ16世の処刑反対が明らかだったからだ。こうして即時の死刑執行を決定したのだ。


 ロベスピエールの失脚

ロベスピエールの処刑日には22名、ロベスピエールと21名の共謀者とある。この日、ルイ・シャルルの教育係だったあの靴屋のシモンも一緒に処刑された。不思議な話である。

楓の記事「
ブルボン朝の王妃 マリー・アントワネット さらば、王家よ

さて、ロベスピエールの処刑の翌日には71名。

独裁者というイメージで責任を問われたのは、結局はロベスピエールの自業自得であり、粛清というより自滅。


「清廉の人」という異名のとおり、悪徳を排除すべく恐怖政治を行ったのだろうか。否だ。

ロベスピエールは「徳」を主張するが、「徳」のない人物だった。

◇先導者にあらず扇動者。
◇横領はせず、買収はする。
◇監獄に密偵を利用する。
◇理想に不適格者を弾圧、除外、粛清する。
◇経済統制のための「パン」と「ギロチン」。
◇プレリアール22日法、ヴァントーズ法の可決。

僕は、「信頼を置いても信用せず」を信条にしている。だがロベスピエールは「人を信頼せず、法令を信用する」人だったのだと思う。

HONORE-GABRIEL RIQUETTI, COMTE DE MIRABEAU

ミラボー伯爵オノレ・ガブリエル・リケティ


ミラボーが生きていたらどうなっていただろう。ルイ16世も処刑されずにいたかも。そのミラボーはロベスピエールを「あいつは偉くなるかもな」と言っていたけど。

でも人に畏怖されて、信頼もされず、経済政策もダメ、人事の掌握もダメ、根回しも下手、情報収集も然り、協力者を得られないような粛清。政治家としては偉大などころか、ただ無差別に周囲へ猜疑心を起こさせ、身の危険さえ感じさせていただけ。

僕はサドの小説のタイトルだけが大好きだ。「悪徳の栄え」、「美徳の不幸」である。

ルソーも、ルソーの血塗られた手ともよばれたロベスピエールも、「美徳の不幸」の代表者だ。おもいがけす、悪徳の士と呼ばれていたバラスはまさに「悪徳の栄え」であり、失脚するにしても、郊外で優雅な一生を終えている。

教訓にしよう。

ちなみにジョルジュ・サンドは「革命における最大の人物で、史上もっとも偉大なりし人々の一人」と賞賛しているが、解説は「しかしながら」と続く。

彼の諸原理ではなく、彼の革命での生き方に対してだという。ロベスピエールの評価としてではないという。

ロベスピエールは処刑のとき36歳だった。顎に負傷したままコンシルジュリに移されている。自殺を図ったそうだ。残念な人だ。ルイ16世や王妃マリー・アントワネットとはそこが違う。偶然で王位についたとロベスピエールは言うが、死の覚悟が違うなァ。

Antoine Jean Gros Napoleon Bonaparte

ナポレオン1世


コンシルジュリでは王妃の監獄の隣である。

1794年7月28日 午後5時。市民から罵声が飛ぶ。6万人の首を撥ねる極悪人のロベスピエールと言われている。ギタールの日記には7月31日から処刑された名前が無くなっている。

ルイ16世、王妃の処刑、ブルボン家の人間たちにおさまらなかった。日記は1794年3月から処刑が多くなってきて、毎日の処刑は4ヶ月目のロベスピエールの死刑で終わったとみえる。

ただし1795年まではモンターニュ派の残党は逮捕され処刑されている。

そして「清廉の士」がいなくなると、たちまちに640軒のダンスホールが開店する。タリラン夫人、レカミエ夫人のサロンが開かれ社交生活が再び始まる。僕ね「清廉の士」というのは彼の諸原理への揶揄と私生活の賛美だと思ってるんだ。決して政治上じゃないって。

フランス革命。
「ミラボーとともに革命を生み、ナポレオンとともに革命を葬った。」

王妃が裏切ったオーストリア戦争は1792年。1815年の敗北とフランス革命の時代をあわせて200万人が死んだ。

「紀行フランス革命200年」は「1789年の総人口は2千600万人。200万の命は大変な損失だ。おかげでそれまで覇権国だったフランスはイギリスにとって換わられた。まことに革命は高くつく。」と結んでいる。



エティエンヌ・デュモン(スイスの翻訳、編集者)
私は二度ロベスピエールと話しあったことがある。陰気で、決して正面を見ず、絶えず辛そうに目を瞬く。ジュネーヴに関する事件で彼は私に解明を求めてきた。なかなか話を切り出さない彼に催促をした。すると自分は臆病で、演壇に上がるときには震え、話すときには何を話すのかわけがわからなくなると打ち明けた。



参考そして引用
wiki
フランス革命200年 河野健二
ロベスピエール マルク・ブゥロワゾォ 遅塚忠躬
紀行フランス革命200年 本城靖久・渡部雄吉
フランス革命下の一市民の日記 セレスタン・ギタール
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本日のギタールの日記はこれまでと違って人物編で。僕がロベスピエール編を書くハメになったのはsai のせいだ。sai がサド侯爵、ルソーの記事を書くにあたって、どちらにもロベスピエールとの接点があるからして、インターネットで軽く検索して、年表を確認しよう
| remove | 2011/01/12 11:23 PM |

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