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Karl Lagerfeld

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カール・ラガーフェルドの略歴 career
1950年代から現在のカール・ラガーフェルドの写真、スタインウェイのピアノ、H&Mとのコラボ、アウディ・フォーラムの写真展、VOLVO(ボルボ)の広告などはこちらから。
コラボ collaboration
マイセン×カール・ラガーフェルド
カール・ラガーフェルド コラボのモデル
ここではCoca Cola Lightのボトル、tokidokiのミニ・カール、Steiffのカールのティディベア、フォトグラファーのカールのフィギュアが紹介されている。

Karl×Lenôtre
デザイナー× 「ブッシュ・ド・ノエル」
FENDI
インタビュー
ハーパース・バザー誌 2009年
写真家カール・ラガーフェルド

Karl×Dom Perignon
Dom Pérignon Vintage 1998
ドンペリ Rose Vintage 1996
Dom Perignon Oenotheque 1993
Moët & Chandon×Karl Lagerfeld

Numero ヌメロ
ヌメロ誌 カール・ラガーフェルド

写真展
2010年 Karl Lagerfeld, parcours de travail

2008年 ア・ロンブル・デュ・ソレイユ A l’ombre du soleil(太陽の陰で)

シャネル CHANEL
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シャネル 宮廷の威光と王家の儀式
CHANEL Paris Fashion Week
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シャネル 2011 春夏コレクション
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CHANEL 2008「パリ−モスクワ」
画家 リューボフ・ポポーワとシャネル

CHANEL 2009「パリ−上海」
ショートムービー シャネルの夢
ココ・シャネル
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マルク=アントワーヌ・カラス事件  L'Affaire Calas
ヴォルテール / SAI

ヴォルテールが扱った通称カラス事件は、怪死した者の名がつけられたマルク=アントワーヌ・カラス事件だ。

トリーヌ・ド・メディシスの時代に起こったサン・バルテルミーの虐殺、14世の公妾ントノン夫人のキエティスム(クワイエティズム)事件と、カトリックvsプロテスタントや異端が原因になるが、このマルク=アントワーヌ・カラス事件も同様だ。

マルク=アントワーヌ・カラスが首を吊って死んでいた。そこに駆けつけた家族や知人。



ジャン・カラスと家族の決別


してプロテスタントの父 ジャン・カラスが死刑になった。怪死したマルク=アントワーヌはカトリックへの改宗を控えていたという。

判決を下したのはトゥールーズ高等法院。

ヴォルテールはこの一件を知ると、裁判の不当性を訴え、冤罪を晴らすのだ。

だが、ちょうど1年前の新教徒、旧教徒絡みのグルニエ事件には、援助を求められたにもかかわらず、断っている。

それがマルク=アントワーヌ・カラス事件に関してはどうだろう。絶好の機会だとヴォルテールは考えたからではないだろうか。

カラス事件の裁判の内容に、「勝てる」という直感がヴォルテールを揺さぶったのではないか。

ゥールーズは、1562年に新教徒が殺戮された町だ。

つまりカトリーヌ・ド・メディシスの時代にだ。ちょうど息子のシャルル9世が在位について1年後のなる。

サン・セルナン教会をカルヴァン派を占領。つまり、サン・バルテルミーの虐殺にいたる最初のユグノー戦争が起こった年である。

それからヴォルテールの時代までの200年。

1761年にモントーバンの近郊で、夜盗の疑いで新教の牧師ロシェットが捕らえられる。運悪く新教徒の結婚式に参加した名簿が発見され、死刑が確定した。

この牧師ロシェットを奪還する噂がひろまり、旧教徒たちの警戒線に触れたのが、グルニエ三兄弟だ。武器を持っていたからである。

ルソーとヴォルテールに援助を求めたモントーバンの新教徒リボットにルソーはこう手紙を書き送っている。



ヴォルテールとカラス一家


人が相応の罪を犯さぬ限り残酷な処断はありえない。また司直の手から彼らを奪還するのは正当化しえない反抗にもなる。」

ヴォルテールは援助する力がないと断った。
ヴォルテールはロシェット-グルニエ三兄弟事件を蹴った。

カラス事件の闘争中のヴォルテールは哲学書辞典で「寛容」を発表しているが、ヴォルテールはそのなかで、幾世紀末の宗教の恐るべき葛藤は許しあうべきの教訓であり、寛容は唯一の治療薬だと書いた。

つまり、ロシェット-グルニエ三兄弟はカトリック側の不寛容の狂信による迫害で犠牲になったということだろうか?

そして彼らの処刑から1年後のカラス事件の処刑。

ヴォルテールはマルク=アントワーヌ・カラス事件に飛びついた。

奇しくも事件が起こったのは、グルニエ兄弟事件の1ヵ月後のことだった。


マルク=アントワーヌ・カラス事件 L’affaire Calas

1761年10月13日
カラス家は7時に夕食をはじめた。三男でカトリックのルイは家を出ていたので、この日はいない。この家では女中のジャンヌ・ヴィギェールだけがカトリックである。

男のドナはニームにいた。

この夕食には当主のジャン・カラス、妻アンヌ、長男マルク=アントワーヌ、次男ピエール、その友人のラヴェス。二人の娘は知人宅に呼ばれていたため、女中のジャンヌを含めると6人が居合わせていた。

長男マルク=アントワーヌが席をはずしたのが食事も終わりかけの頃だ。

家族とその友人は午後10時までサロンで談笑している、つまり席を立たなかったということだ。

友人ラヴェスを送るためにピエールらは階下に降りる。そして二人は叫び声をあげた。カラス一家が駆けつける。

長男マルク=アントワーヌの首縊りの姿があった。




トゥールーズの参事ダヴィッド・ド・ボードリグと思われる人物とカラス父子


の絵は怪死したマルク=アントワーヌ・カラスが床に、そして父ジャン・カラスが指を突き立てられている場面だ。トゥールーズの参事で、ダヴィッド・ド・ボードリグと思われる。

彼はここで調書をとらず投獄する。

その背後には叫び声に集まる人々。多勢のカトリックの人々だ。「カトリックに改宗するつもりの長男を、プロテスタントの父親が殺した。」と喚いているのだろうか。

そしてここには矛盾した場面も描かれている。首縊りの紐である。

結果的には首縊りの紐は自然にはずれてしまったらしい。気が動転していたのかジャン・カラスは自分が切ったと供述した。

証言の曖昧さとトゥールーズ高等法院のずさんさ。

ォルテールの疑惑とは稚拙な手続きや公判に対し呆れ、不確かな証言を認めたことに呆れ、この高等法院の「恥知らずな奴ら」を懲らしめようというのがヴォルテールであったのではないか。

そして教会が告訴したという事実。

教会のプロバガンダ、恥知らずな裁判や証明力の低い証言に対して、ヴォルテールが紛糾するのはまだあと。

「私は無実のまま死んでいくが、心残りは家族のことだ。」と残し、神に裁いた人々を許すように祈るジャン・カラスは、1762年3月9日に死刑を宣告され、翌日10日、拷問のうえ車刑によって処刑された。

3月18日、ジャン・カラスとともに投獄された妻アンナ、次男ピエール、友人ラヴェス、女中ジャンヌに判決がでる。ピエールは追放、ほか3名は無実である。

ジャン・カラスが処刑の日に自白するだろうと考えていた高等法院側は、最後まで潔白を主張し刑に挑んだカラスに対し、いささか震えたに違いない。

殺の可能性と検証を主張した判事、訴訟却下とした判事をのぞいて。

このジャン・カラスが処刑された時点でヴォルテールはこの事件に対して特別に関心を寄せていない。

ヴォルテールからル・ポー宛の手紙
「おそらくあなたもトゥールーズ高等法院が息子を殺したかどで一人の善良な新教徒を車刑に処したことはご存知でしょう。・・・(略)・・・彼は息子を神に捧げ、アブラハムにまさることをやった、と考えていたのです。」

そう書簡に残したように、ヴォルテールはまったく無罪、有罪を問うどころか、アブラハムに勝ると名文句を残している。これはジャン・カラスの処刑から2週間後の1762年3月22日の日付である。

ところがル・ポーの手紙から5日後のカーン宛ての手紙はまったく違う。

ヴォルテールからカーン宛ての手紙
「あなたはジャン・カラスの処刑について確かな情報をおもちですか。彼は無罪でしょうか。有罪でしょうか。いずれにせよ、これは最も開けた世紀の最も怖るべき狂信です。」とある。



不幸なカラス事件


ちにカラス擁護の秘密委員になるジュネーヴの商人ドゥブリュは、以前にカラス家に滞在していたという人物だ。

処刑されたあとに関心を持ったヴォルテールは、このドゥブリュ(ドブリュ)から何か聞かされたのだろうか。

僕が思うには、無罪でも有罪でも宗教上のみの事柄なら、ヴォルテールは介入しなかっただろうと思う。だが、高等法院の愚行には我慢できなかたのだ。

つまり、ヴォルテールはダランベールも百科全書の理性(哲学)で示しているように、「真実」と「証明」が彼を動かしたと解釈している。真実より異端を排除する高等法院に対して。

はあなたの書いたものは嫌いだが、私の命を与えてもあなたが書き続けられるようにしたい。」というように、ヴォルテールは「私の命にかえても」というフレーズを好むタイプのようで、このときも「死ぬまで闘争を続ける」と述べている。

1762年の4月4日のダミラヴィルへの手紙では、「トゥールーズ高等法院の裁判官たちは罪なき人間を車刑(車裂き火あぶり)に処したことが判明されました。」と送っている。

ジャン・カラスの死刑は6対6で、死刑には8票が必要だ。ところが審理に含まれない判事が死刑に1票、反対側の判事が死刑に1票転じたことで確定となった経緯がある。

ヴォルテールが冤罪を晴らす証明に焦点をあてたのは、状況証拠、物的証拠、物理的証拠、証言の信頼性、そして高等法院の証拠資料、その証拠能力と証明力の低さだろう。

してトゥールーズ高等法院側の不正にはどのようなものがあげられたのか。追放刑に処せられたはずの次男ピエールを脅迫し改宗させ、形式的な追放と追放されたトゥールーズの修道院への監禁。あるいは死刑の投票も含まれたのだろうか。

僕はまだヴォルテールのカラス事件は読んでいないので、この部分は確かなことではない。

この頃(1763年)、イギリスのアダム・スミスはトゥールーズに来ていた。前記事のダランベール、そしてテュルゴー、ケネーらと親交を結んでいる。

彼はこの事件をどう見ていたのだろう。

パリにくるまえのグラスゴー大学での講義録「道徳感情論(道徳情操論」 The Theory of Moral Sentiments)は、1790年の増補改訂で、このカラス事件(L'Affaire Calas)を言及した。

さてヴォルテールに話しをもどす。

1762年5月、フェルネールにカラス再審運動のための秘密委員会が組織され、先に名をあげているドブリュ、牧師のムルトゥ、法律家のヴェゴーヴル、ジュネーブの銀行家カタラ、弁護士トロンシャンらと協議する。

これにダランベール、ダミラヴィル、ダルジャンタル、ショワズール、マリエット、ポーモン、カロン、デュフール、マレたちが賛同し、カラス一家の擁護をした。

同年の8月には、ルイ15世の公妾ンパドゥール夫人をはじめとする側近らを動かすことに成功し、国王顧問会議で判決を破棄し、国王直属の請願委員で再審にあたることとなった。

こうして最終判決で無罪となったのが1765年のこと。処刑されたジャン・カラスの名誉が回復されたのだ。

だが、ヴォルテールの名声はあがったものの、結局このあとも同じ事件は続く。



「シュヴァリエ・ド・ラ・バールの記念碑」1907年
(Le monument du Chevalier de La Barre)
画像ははじめの記念碑で、台座を残してはずされた。


罪が晴れたジャン・カラス事件の翌年、1665年。

アブヴィルの橋、サン=シモンの詩にも登場するポン・ヌフで、そこの十字架が傷つけられた事件が起こる。ここでもまた証拠力の低い証言が用いられる。「聖体拝受の日の行列への冒涜」、「宗教の戯れ歌をうたった」などだ。

繰り返される証言の重用。

よりによって、捕らえられたシュヴァリエ・ド・ラ・バールは、禁書であったヴォルテールの「哲学辞典」を発見された。

つまり、異端については審議を軽んじ、さっさと処刑するという高等法院のやりかたは変わっていない。

このラ・バール事件は1791年に名誉回復とするが、ラ・バールは拷問の後斬首され、ヴォルテールの哲学辞典とともに火あぶりにされた。

してカラス事件よりさらに10年後。1772年だろう。

その事件に際して書かれたヴォルテールの小論文を「フランス18世紀の哲学者たち」(訳:串田孫一、高橋安光、中川久定)からそのまま引用する。


モランジュ事件に際して書かれた「正義における蓋然性について」という小論文は注目に値する。「物事は真実か虚偽であり、その中間は存在しない。不確実はほとんど人間の宿命であるから、証明を待っていては容易に決断できないであろう。いずれかに立場を決めるなければならない。それも場あたりであってはならない。脆弱な、盲目の、誤りやすい吾人の本性に必要なのは、数学的幾何学的と名づけられる慎重さで蓋然的な事柄を吟味することである。」 by 「フランス18世紀の哲学者たち」

ところでジャン・カラスは無罪で名誉回復となったが、マルク=アントワーヌ・カラス事件は解決していない。他殺の疑いもあるらしい。つまり中間の存在のまま、200年以上経過している。
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