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Karl Lagerfeld

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カール・ラガーフェルドの略歴 career
1950年代から現在のカール・ラガーフェルドの写真、スタインウェイのピアノ、H&Mとのコラボ、アウディ・フォーラムの写真展、VOLVO(ボルボ)の広告などはこちらから。
コラボ collaboration
マイセン×カール・ラガーフェルド
カール・ラガーフェルド コラボのモデル
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Karl×Lenôtre
デザイナー× 「ブッシュ・ド・ノエル」
FENDI
インタビュー
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ドンペリ Rose Vintage 1996
Dom Perignon Oenotheque 1993
Moët & Chandon×Karl Lagerfeld

Numero ヌメロ
ヌメロ誌 カール・ラガーフェルド

写真展
2010年 Karl Lagerfeld, parcours de travail

2008年 ア・ロンブル・デュ・ソレイユ A l’ombre du soleil(太陽の陰で)

シャネル CHANEL
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シャネル 宮廷の威光と王家の儀式
CHANEL Paris Fashion Week
*シャネル・ニュース
シャネル 2011 春夏コレクション
Spring Summer 2011 Collection
*Métiers d’Art メティエダール

CHANEL 2008「パリ−モスクワ」
画家 リューボフ・ポポーワとシャネル

CHANEL 2009「パリ−上海」
ショートムービー シャネルの夢
ココ・シャネル
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19歳だった頃 衝撃的だった映画「エレファントマン」
映画 / SAI

大滝詠一の記事を書いてから、その頃の僕を思い出した。ホラーなんかが嫌いで、でもいろんな本を読んで、いろんな音楽を聴いて、とりあえず大学生だった頃だから勉強もしたし。








邦楽ではYMO、財津和夫、オフ・コース、南佳孝、達郎なんかを聴いて、とりあえず高校のとき読破できなかったプルーストなんかも読んで、TVはTHE MANZAIを見て、年末にジョン・レノンが死んで、忘れてたビートルズを聴きだしたり。

でも松田聖子は別に・・・。

楓記事 私の1980年 世紀のアイドル Seiko

で、ジョン・レノンが射殺されたその翌年には映画「エレファント・マン」が上映された。aleiに誘われた。

「女の子と観る映画じゃないし」って。すっごくなんでも知っている仲だけど、aleiって女の子とどんな映画観てたのさっ?

それで「エレファント・マン」なんだけど、象に踏まれた母親から生まれた奇形の青年の話という宣伝で、「えーっ、母親は死ななかったのか?それともそのショックで生まれたのか?」とか、象に踏まれたら人間は死ぬでしょとか思いながら観に行った。

医師フレデリック・トリーヴスが見世物小屋から保護したのがジョゼフ・ケアリー・メリック(Joseph Carey Merrick)。

Elephant man


どうして僕がそのジョゼフ・ケアリー・メリック(Joseph Carey Merrick)を思い出したのかというと、久しぶりに地下鉄に乗ったら顔の半分が他の半分分よりも大きい事、左の手が大きいが、とても知的で上品な紳士的な人と隣り合わせになったからだ。

つい1週間前のこと。でもね、日本で症例がないんだ。

顔の半分が他の半分分よりも大きい事、左の手が大きいが、まったく違和感がなかった。誰の目も気にしていないし、誰もその人を特別な目で見ていなかった。

1980年の上映後、顔の半分が奇形のような男の人と出遭った。

その人は、「エレファント・マン」が上映されて、どう感じたのだろう。それまで通学路で会ったことなかった。だから一瞬だけどすれ違って僕は立ち止まった。

なんとなく僕とそんなに変わらない年齢に思えた。3回くらいしか出会わなかった。しかも5-6人の仲間のうち3回目でようやく一人の友人が気がついた。

だけどしばらくして見かけなくなった。その人は亡くなったのだろうと思う。

車通学してなかった頃で、地下鉄の通路だった。みんな忙しく歩いていて、気がつく人はほとんどいなかったようにも思う。ただ、僕がはじめてすれ違ったときのように、一瞬立ちすくむ人も見た。

ジョゼフ・ケアリー・メリック(Joseph Carey Merrick)の写真がWIKIにあった。僕はそういうのにドキドキするものだから、直視できず。

ジョゼフ・ケアリー・メリック(Joseph Carey Merrick)は30歳になる前に亡くなった。彼の写真はいっぱい残っている。見世物小屋から保護されたはずだけど、医学の対象で紳士的に扱われたと思われるが、結局は死後もジョゼフ・ケアリー・メリックはある意味いつも見られている人だ。

とにかく僕にはこの「エレファントマン」は衝撃だった。身近にもいたんだという事実。映画の中だけじゃなかったんだ、僕にとって、映画でもドラマでもなかったんだ。だからこの映画「エレファントマン」は僕を無言にさせるんだ。

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百一夜 1995 A Hundred and One Nights
映画 / SAI
評価:
アニエス・ヴァルダ
コメント:僕にはB級映画。コメディーとしてなら面白い。

百一夜(Les cent et une nuits de Simon Cinema)は、僕の中ではB級映画。

100歳になろうといているシモン・シネマ(ミシェル・ピコリ)が、101日をかけて自分の回想を聞かせるために、映画の大学院生のカミーユ(ジュリー・ガイエ)を雇うところから百一夜とし、「千一夜」のタイトルをパロディ化。

シモン・シネマ(ミシェル・ピコリ)は、映画が100年を迎えた擬人化だ。

古い映画の話に登場する有名な俳優たち、貴重なフィルムとのオーバーラップは、パロディだったり、アニエス・ヴァルダのメッセージだったりするわけなんだけど・・・。

映画100年という流れで、これだけの有名な俳優のカメオ出演や伝統作品の継続としての映画が登場するのに、本質的なメッセーッジって何もない。詰め込みすぎて、単なるアニエス・ヴァルダの懐古趣味。

合作したフランスや英国では、制作から10年以上経た現在では、僕たちのような大衆層でちっとも話題にならないのは、「ヌーヴェルヴァーグの祖母」と呼ばれるアニエス・ヴァルダの一方的な姿勢だろう。



(C)Les cent et une nuits de Simon Cinema
シモン・シネマ(ミシェル・ピコリ)


彼女の夫だったジャック・ドゥミへの賛辞。この「百一夜」はジャック・ドゥミの「シェルブールの雨傘」(三話)のように一話一話を連続させて構成している。

しかも第17回カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞の「シェルブールの雨傘」に重ねたように「カンヌ映画祭にて」を構成し、エイズで死去したジャック・ドゥミをそこに投影したたように、「百一夜」でがシネマ氏が全財産を「エイズ基金」に寄付することになる。

日本だけが形而上的コメディーとして、哲学的解釈を施しているのに笑える。だけど僕的にはB級映画として楽しめる。

百一夜 俳優たち
百一夜 短い友情出演
百一夜 城にて
百一夜 若者たち
百一夜 とても若い者たち

あるいは

百一夜「カンヌ映画祭にて」
百一夜「短い友情出演」
百一夜「俳優たち」
百一夜「城にて」
百一夜「抜粋映像として」
百一夜「若者たち」
百一夜「とても若い者たち」

「俳優たち 」
アヌーク・エーメ
ファニー・アルダン
ジャン=ポール・ベルモンド(ベベウ教授 )
ロマーヌ・ボーランジェ(死神役)
サンドリーヌ・ボネール(ジャンヌ・ダルク)
ジャン=クロード・ブリアリ (バス・ガイド役)
アラン・ドロン(ヘリコプターで登場 本人役)
カトリーヌ・ドヌーヴ(舟遊び)
ロバート・デ・ニーロ(舟遊び)
ジェラール・ドパルデュー
ハリソン・フォード
ジーナ・ロロブリジーダ
ジャンヌ・モロー
ハンナ・シグラ


アメリカの夜のロバート・デ・ニーロとカトリーヌ・ドヌーヴ





(C)Les cent et une nuits de Simon Cinema
百一夜 ロバート・デ・ニーロとカトリーヌ・ドヌーヴ


古い映画とのオーバーラップは、たとえばロバート・デ・ニーロとカトリーヌ・ドヌーヴの舟遊びの場面は、フィルムとのオーバーラップじゃない。

この映画のほかの場面にも登場している「アメリカの夜」が、このシーンには別のかたちで投影されている。

百一夜 動画
Robert De Niro with Catherine Deneuve (ロバート・デ・ニーロ&カトリーヌ・ドヌーヴ)

フランソワ・トリュフォー監督の「アメリカの夜」(1973年)は、業界用語の「アメリカの夜(la nuit americaine)」の隠語で、映画の撮影技法のことだ。



(C)Les cent et une nuits de Simon Cinema
百一夜 船から落ちたロバート・デ・ニーロ


ロバート・デ・ニーロとカトリーヌ・ドヌーヴの舟遊びの場面は、岸に船がぶつかる度に、朝になり夜になる。

つまり、昼に撮影しなければならない夜のシーン、夜に撮影しなければならない朝のシーンを撮影しているわけなんだ。真実らしく見せかけたもの。映画の撮影完了までを映画にした「アメリカの夜」です。

劇中劇があり、撮影技法を駆使し、映画に関わる人間模様があり、「アメリカの夜」は面白い。その「アメリカの夜」の朝と昼をここでオーバーラップさせている百一夜。



(C)Les cent et une nuits de Simon Cinema
百一夜 ロバート・デ・ニーロのパロディ?


突然、酒を飲んで舟遊びをしていたロバート・デ・ニーロは、いきなり立ち上がったかと思ったら、池に落ちた。すでに死んでいるような姿が池に浮かぶ。

いきなりロバート・デ・ニーロの「アンタッチャブル」(ブライアン・デ・パルマ 1987)を思わせる男が胸から取り出したのは拳銃。百一夜のロバート・デ・ニーロは、アル・カポネ(ロバート・デ・ニーロの役)に殺された?

この「アメリカの夜」は、カミーユの恋人ミカら若者たちがつくりあげる映画にも投影されている。


アラン・ドロン編


このB級映画での「錚々たる名優」に一番相応しい俳優はアラン・ドロンだった。過去のドロンの映画だけではなく、業界での人間関係を含む場面を演じさせ、それをサラリとやってのけるアラン・ドロン。自らの私生活さえもパロディーを厭わなかった。そこがスゴイ。



(C)Les cent et une nuits de Simon Cinema
バイセクシャルだったヴィスコンティと噂があったドロン
彼のこの真を眺めるドロン、左は「山猫」のポスターがある。


アンリ・ガルサン演じるシモン・シネマ邸の執事に迎えられたアラン・ドロン。その執事、アラン・ドロンのファンという設定だが、ムッシュ・シネマは病気で面会できないとアラン・ドロンに嘘をつく。

そのムッシュ・シネマは、ジャン・リュック・ゴダールを真似たヴァンサン役(孫に仕立てられた青年)と映画談義中。

アラン・ドロンはムッシュ・シネマの代わりにヴィスコンティの写真と対面したんだ。

そうしてアラン・ドロンの映画のポスターが張られた部屋で、執事はつかの間アラン・ドロンと二人っきりになり、サインをもらう。太陽がいっぱいのサインの場面のように?そうではないようで、執事は「ゴーシュ(レッド・サンでのドロンの役名)へと」と言う。

ゴーシュは裏切る男の名前だ。

そしてドロンは引き上げたあと、執事はヴァンサン役を演じるエマニュエル・サランジェと映画談義中のシモン・シネマに警察を追っ払ったという嘘を言う始末。






(C)Les cent et une nuits de Simon Cinema
「太陽はひとりぼっち」のような柱 山猫とドロンの断絶?
「山猫」のポスターのドロンはヴィットリアのように柱で半分の映像




シネマ邸の執事はアラン・ドロンだけではなく、「フレンチ・フィルム・ノワール(フランス製ギャング映画)」がお好きで、その主題でもある「男同士の友情と裏切り」を印象つけた。

アラン・ドロンの「太陽がいっぱい」の「男同士の友情と裏切り」であると僕は考えた。だからこのシーンは「太陽がいっぱい」と同じように、冒頭にヘリコプターが登場したのでは?原作のトム・リプリーは「ヘリの操縦」ができるんだ。

そして柱。ミケランジェロ・アントニオーニの「太陽はひとりぼっち」を、この柱で表現していると思う。

ジャン・リュック・ゴダールを真似たヴァンサンは、カミーユの計画で彼の孫に仕立て上げられる。ここでは、アラン・ドロンが演じた二役を暗示しているのではないか。

百一夜 動画
Alain Delon(アラン・ドロン) 「A Hundred and One Nights」








この映像には、ドロンが出演した「太陽はひとりぼっち」の証券取引所のような柱がある。その柱と柱の間にヴィスコンティが監督の「山猫」のポスターのバート・ランカスターが、ヴィットリアのように半分だけしか映されていない。没落する貴族の豪奢な倦怠と大衆のヴィットリアの倦怠を重ねたようだ。

アニエス・ヴァルダのカメラ・アイは、凄い。見事に「太陽がいっぱい」(ヘリコプター)、「太陽は一人ぼっち」(柱とアラン・ドロン、山猫)を映像化した。僕の不満は僕の過去記事「太陽が知っている」だけが見当たらない。

その映画は婚約解消したロミー・シュナイダーとの共演。ヴィスコンティは二人の婚約を祝福していた。ところが解消。ヴィスコンティは激怒。彼の映画ポスターと写真のあるその部屋。ドロンとの断絶を強調しているってわけ?






(C)Les cent et une nuits de Simon Cinema




引き上げるアラン・ドロンは、カミーユと邸宅前で出会い、彼女をヘリコプターでパリ15区に送る。

映画の大学院生のカミーユは、恋人のカミーユ(通称ミカ)と企んで、シネマ氏の遺産相続人である失踪した息子の孫を仕立て上げる。それがヴァンサン。

カミーユは、恋の相手をこのヴァンサンに鞍替えする。ちなみにB.B.ことブリジット・バルドーがジャン=リュック・ゴダールの「軽蔑」で演じたカミーユを重ねてるのかな。商業主義のポールから心がはなれたカミーユ。

このドロンとカミーユの二人が去ったあと、二人の親子があらわれた。

この場面、ネオレアリズモ(新写実主義)の名作といわれる「自転車泥棒」のシーン。(ひょっとしてシネマ邸の一室にアラン・ドロンのポスターを貼ったのは、「自転車泥棒」の父アントニオ?)






(C)Les cent et une nuits de Simon Cinema




ここで、比較できるのは貧しい親子が高級レストランで食事をするシーン。肩身が狭い思いをするが、「太陽がいっぱい」で、アラン・ドロンが演じたトムは金持ちのフィリップから、ナイフの使い方を蔑まれる場面がある。比較しているところだろうか。

あるいは男女の愛と比べて、親子の愛の絆を比較したのだろうか。

ここでもアニエス・ヴァルダの「ジャック・ドゥミの少年期」を思い出させる。ジャコ(ジャックの愛称)は自転車修理工の息子だ。家業を継がず、映画の世界に入ったジャコ。

「自転車泥棒」の制作された1948年のジャコは18歳。ドゥミ夫人(アニエス・ヴァルダ)にその映画を語ったことがあったのかもしれない。

これは僕の一方的な解釈。






(C)Les cent et une nuits de Simon Cinema




アラン・ドロンのシーンに、「黒いチューリップ」のポスターが何度も何度も背景に映る。

記事 アラン・ドロン デュマの黒いチューリップ vs ジョンストン・マッカレーの怪傑ゾロ

「黒いチューリップ」はドロンの初めての剣戟映画だ。アニエス・ヴァルダがこの映画に、アラン・ドロンの「黒いチューリップ」をちらつかせたメッセージはどうでもいい。

僕的に、「黒いチューリップ」のアラン・ドロンが美の頂点だったと感じている。そしてダークなイメージが消えている。






(C)Les cent et une nuits de Simon Cinema




ところで、1966年のルネ・クレマン監督の映画「パリは燃えているか」(Paris brûle-t-il ? )で、シモン・シネマことミシェル・ピコリとアラン・ドロンは共演している。

ドイツのコルティッツ大将は、フランスのレジスタンスに内部対立があるのを知っている。ドゴール将軍の幕僚デルマ(アラン・ドロン)と自由フランス軍=FFIの首領ロル大佐(ブルーノ・クリーマー)の対立だ。

ミシェル・ピコリ(Michel Piccoli)は、フランスレジスタンス運動(Résistance intérieure française)に参加したエドガー・ピザーニ(Edgard Pisani)を演じた。



(C)Paris brûle-t-il ?


エドガー・ピザーニは知事、上院議員、内閣閣僚の一人として、フランス共和国の政治家の一人。たしか左翼のはず。ド・ゴール派のミュルヴィル首相がジャック・シャバン=デルマと交代するまでフランス農相を務めた。

「百一夜」で二人が対面しなかったのは、ルネ・クレマンの「パリは燃えているか」のレジスタンス内の紛争が原因?


 映画のオーバーラップ

さて映画とオーバーラップさせている「百一夜」には、ルイス・ブニュエルとシュールレアリスムのサルバドール・ダリが脚本を書いた「アンダルシアの犬」が何度か映し出される。一番不愉快な「目」の場面だった。

ほかにはイタリアのお友だち(M・マストロヤンニ)とシネマ氏のやりとりには、「8 1/2」、「軽蔑」が登場。だけどその映画の本質のオマージュではなく、ただのパロディで終わっている。

吸血鬼ノスフェラトゥ(F・W・ムルナウ 1922)、キングコング(メリアン・C・クーパー、アーネスト・B・シェードザック 1933)、バグダットの盗賊(ラウール・ウォルシュ 1924)、「8 1/2」(フェデリコ・フェリーニ 1963)、軽蔑(ジャン=リュック・ゴダール 1963)、アメリカの夜(ちなみにジュゼッペ・スコテーゼ 1961)、北ホテル(マルセル・カルネ 1938)、サイレント晩期のキートンの蒸気船(チャールズ・F・ライズナー 1928)、将軍、メトロポリス(フリッツ・ラング 1926)、、シェストレムの風オルフェ(ジャン・コクトー 1950)、パリ テキサス(ヴェンダース 1984)、スリ(ロベール・ブレッソン 1959)、黄金時代(ルイス・ブニュエル&ダリ 1930)、ダントン(アンジェイ・ワイダ 1983)、ロシュフォールの恋人たち最後の晩餐などがオーバーラップされているけど、「映画の歴史」に胸が詰まるような迫力がない。つまり中身がない。

だけど、単なるコメディーとしてなら楽しめる。暇つぶしの時間に観ると「面白かった」ってかんじ。


 そのほかの場面と登場人物

短い友情出演
サビーヌ・アゼマ
ジェーン・バーキン
レオナルド・ディカプリオ
アリエル・ドンバール
スティーブン・ドーフ
アンドレア・フェレオル
ダリル・ハンナ
ジャン・ピエール・カルフォン
ジャン・ピエール・レオ
エミリー・ロイド
アサンプタ・セルナ
マーティン・シーン
ハリー・ディーン・スタントン
ダニエル・トスカン・デュ・プランティエ



(C)Les cent et une nuits de Simon Cinema
短い友情出演 レオナルド・ディカプリオ


城にて
ミシェル・ピッコリ(シモン・シネマ)
マルチェロ・マストロヤンニ(イタリア人の友人として)
ジュリー・ガイエ(カミーユ)
マチュー・ヴァルダ(カミーユの恋人通称ミカ、同名のカミーユ)
アンリ・ガルサン(シモン・シネマ邸の執事)
カルロ・ブノワ
ベベ・メルク
クリスチャン・ブイエット
フレデリック・ダリ
ジャン・クロード・ロメール
フランシスコ・ラバル

若者たち
ジュリー・ゲイエ
マチュー・ドミ
エマニュエル・サランジェ(ムッシュ・シネマの孫に仕立てられるヴァンサン)
アントワーヌ・デロジエール
ドゥニ・セバ
ルイ・セザンヌ
アレクシア・ストゥレシ

とても若い者たち
クシミリアン・モシオン
サロム・ブレシュマン


 フランス映画100年史


 

リュミエール兄弟  トーマス・エジソン


映画100年というのは、フランスの映画発明だ。トーマス・エジソンのキネトスコープの発明から、シネマトグラフ・リュミエールを開発したのがリュミエール兄弟。世界最初の実写映画「工場の出口」に続いて、 「ラ・シオタ駅への列車の到着」を制作した。



(C)Les cent et une nuits de Simon Cinema


エジソンは映画撮影のための施設を作り、劇映画製作もはじめた。映像は電球を開発したエジソンを象徴したコスプレのリュミエール兄弟。アホらしいけど面白い。
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太陽が知っている La Piscine (1968)
映画 / SAI
作家のジャン・ポールをアラン・ドロン(Alain Delon)、妻でジャーナリストのマリアンヌにロミー・シュナイダー(Romy Schneider)、そしてマリアンヌの昔の恋人ハリーにモーリス・ロネ(Maurice Ronet)。



 La Piscine (1968)
アラン・ドロン(Alain Delon) & モーリス・ロネ(Maurice Ronet)


9年前の「太陽がいっぱい」、そして9年後の「太陽が知っている」で、殺害されるモーリス・ロネ。なんだがたった9年のうちに二人とも、結構いい年齢に見えるんだけど。

アラン・ドロンのタイトル「太陽」ニ作品はこちら
フェミニズムな映画 太陽はひとりぼっち
太陽がいっぱい(PLEIN SOLEIL) リプリーがいっぱい

そして9年前の「太陽がいっぱい」で、ロミー・シュナイダーはカフェの場面で、カメオ出演をしているが、アラン・ドロンの性愛に関係がある3人だ。



Plein soleil (1960)
アラン・ドロン(Alain Delon) & モーリス・ロネ(Maurice Ronet)


「太陽がいっぱい」では海から遺体、「太陽が知っている」ではプールから遺体、どちらも水に関係が深い殺害でのモーリス・ロネ。

太陽が知っている La Piscine (スイミング プール)
 
太陽が知っている  
 
太陽が知っている ラヴ・シーン
 
太陽が知っている パーティの場面 
 
太陽が知っている 殺人の場面
 


ロミー・シュナイダーはアラン・ドロンはの元婚約者。昔の恋人との共演。ロミー・シュナイダーはこの映画でもモーリス・ロネ演じるハリーの昔の恋人。

物語のあらすじはこちら。ネタバレありの
太陽が知っている - goo 映画からどうぞ。


1968年に制作された「太陽が知っている」は、イタリアでの初公開は1969年の4月。結局この二人は夫婦ではなく共犯者として、苦悩の人生を生きていくことになる。殺害したのはジャン・ポール。それを知りながらマリアンヌは供述をしなかった。

結局ジャン・ポールは証拠不十分で釈放。ハリーの事件は未解決。

ちょうど、この映画の製作中に、アラン・ドロンに解雇された元ボディ・ガードが殺された。ステファン・マルコヴィッチ(Stevan Markovic)は1968年10月に殺害された。2年前の1966年にアラン・ドロンのボディガードだったミロシェビッチが変死している。



威風堂々としたフランソワ・マルカントーニ


If I get killed, it's 100% fault of Alain Delon and his godfather Francois Marcantoni

僕の直訳
「私が殺されたとすると、それは100%、アラン・ドロンと彼のゴッドファーザーであるフランソワ・マルカントーニの悪事(あるいは罪)だ。」

彼は兄弟のアレクサンダーに手紙を書いていた。なぜ、自分が殺されると思ったのだろうか?アラン・ドロンへの恐喝?それともフランス政府?殺される前に逃げろって思うんだけど、フランソワ・マルカントーニから、そうそう逃れられないと考えたんだろう。

ディック・ キャベット・ショーに出演したアラン・ドロンへのインタヴューの動画
Alain Delon interview (part 1 of 4)
Alain Delon interview (part 2 of 4)

Alain Delon on Chicago & the Markovic murder
アラン・ドロンにマルコヴィッチ殺人のインタヴューの動画はこの後半
Alain Delon interview (part 3 of 4)
Alain Delon interview (part 4 of 4)

フランソワ・マルカントーニは、パリでナイト・クラブを経営するコルシカのマフィアであり、作家でもある。そして大戦中はフランス・レジスタンス(French Resistance)に参加した人。レジスタンス勲章と戦争十字架勲章を授与されているんだから、マフィアよりも「要人」だ。(銀行強盗としても名があがっているけど)

当時、ド・ゴール大統領の時代。彼の下で、1962年4月16日から1968年7月13日まで首相を務めたジョルジュ・ポンピドゥー。彼のジョルジュ・ポンピドゥ国立美術文化センターは有名だ。行ったことあるでしょ?

このポンピドゥーとその妻も、マルコヴィッチに関わっている。

このマルコヴィッチが殺害される前、パリ18区のポール・ヴァレリーにある、マルコヴィッチの娼家「マダム・クロードの家」(マダム・クロードの娼家「クロードの館」とは違う。)で、政財界、映画界の著名人たちの乱交パーティーが催されていた。彼はこうした著名人たちのいかがわしい写真を撮り、恐喝のネタにしていた。



パリ 1962年 右端 ポンピドゥー (Jean Raymond Pompidou)
Jacqueline de Ribes, Marie-Hélène de Rothschild,
 Audrey Hepburn, Georges


ポンピドゥー夫妻が参加したのは、南仏サントロペでのパーティーらしい。奇しくも映画「太陽は知っている」は、サントロペでロケがあった。ちなみにアラン・ドロン夫妻とも交流がある。まさかそのパーティーで?

次期大統領選に出馬表明していたポンピドゥー。政敵によるポンピドゥー追い落としの謀略とされ、この「マルコヴィッチ殺害事件」は、「フランスの謀殺事件」ともいわれている。

この事件、結局は証拠不十分で、被疑者は釈放。未解決事件。

そしてポンピドゥーは、写真をばら撒かれたけれど、無事にこの年からフランス第五共和政第2代共和国大統領に就任。1974年まで務めた。1970年の4月にアラン・ドロンが、マルコヴィッチ殺害事件の早期解決の公開嘆願を提出したのが、このポンピドゥー大統領。

マルカントーニが、この事件に関して無罪になったのは1976年で、なぜか次の大統領ヴァレリー・ジスカール・デスタンの時代。元大統領、いまでも元気にブログを更新中。

アラン・ドロン関連記事

フェミニズムな映画 「太陽はひとりぼっち」   L'eclisse − The Eclipse(日蝕)

アラン・ドロン デュマの黒いチューリップ vs ジョンストン・マッカレーの怪傑ゾロ
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デリカテッセン ジュネ&キャロ Delicatessen (Jeunet & Caro)
映画 / SAI

今日は20年くらい前のハッピーエンドの映画の紹介。

最近、僕はファンタジックなものが好きになった。(ダークな素材に風刺が効いて、ユーモアがあってこそのファンタジックに限る。)

たとえばジュネ&キャロの「デリカテッセン」だ。



Delicatessen(1991) Jeunet & Caro
ジェリーの部屋 →Cello y sierra en Delicatessen
Dominique Pinon and Marie-Laure Dougnac


左のチェロを弾くジェリーを演じるのが、マリー=ロール・ドゥーニャ。右がジャン・ピエール・ジュネ監督の作品でおなじみのドミニク・ピノン。たぶん彼にとって最初のジュネの作品で初主演。

それがとってもコミック的で、文学に対する漫画文化、古典絵画に対するポスター文化のような映画。つまり一流にも三流にも属さない独特なシネマ文化の作品だと思う。



ジュネ&キャロ、そしてドミニク・ピノンの3人のショートフィルムがある。デリカテッセンを彷彿させる冒頭から、古いアニメーションやジャン・ギャバンの作品まで、昼のランチ・プレートのように一皿に数種の料理がのせられているようなフィルム。


こちらから
Court métrage de Jeunet-Caro-Pinon "Foutaises"


このシーンは、ドミニク・ピノンが見ている方角から一人の盲人が歩いてくる。ところが反対側からもう一人の盲人が歩いてくる。二人ともそっくり。その二人がドミニク・ピノンの目の前でぶつかるというオチ。

とってもナンセンスだ・・・。




さて本題のデリカテッセン。僕は基本、ホラーが嫌い。でも、この映画なら安心して見られる。時々の不気味さはコミカルな前兆だし、不快な恐ろしい場面はない。

物語は核戦争から15年後のパリ。そこにはたった一軒の精肉屋があった。こんなところ。

Delicatessen intro

こうしてデリカテッセンの物語ははじまる。映画のクレジットはこんな感じ。

Delicatessen Credits



タピオカ家 突然お祖母さんがサヨナラする。


デリカテッセンの人々。アパルトマンの住人たち。お祖母さん(エディット・ケール)は、途中で肉になり、タピオカの妻(アンヌ・マリー・ピザニ)は泣きながらもその肉を手に入れる。食べるために。

おわかりのように精肉屋「デリカテッセン」は、人の肉を売るところ。

周の文王は、殷の紂王に自分の息子を殺され、その肉を食わせられるという歴史がある。文王は肉が何であるかを知っていたが、下賜を拒むことを避け、断腸の思いで口にした。

だが、タピオカ家の面々は、とってもコミカルだ。

Delicatessen

音楽はカルロス・ダレッシオ(Carlos d'Alessio)。


デリカテッセン(オープニング・テーマ)
Delicatessen soundtrack - 01 - Delicatessen
ティカ・ティカ・ウォーク
Delicatessen soundtrack - 02 - Tika Tika Walk
泡のような回想
Delicatessen soundtrack - 03 - Baiser Sous L'eau
水中キッス
Delicatessen soundtrack - 04 - Circus Delire
ひとつの鞄
Delicatessen soundtrack - 06 - Les Bulles
精神錯乱のサーカス
Delicatessen soundtrack - 07 - La Valise
デュオ(屋根の上の二人)
Delicatessen soundtrack - 08 - Duo
アコーディオンのワルツ
Delicatessen soundtrack - 09 - Valse Accordeon
あなたの涙
Delicatessen soundtrack - 10 - Una Lagrima Tuya
ボンゴ・ボレロ
Delicatessen soundtrack - 11 - Bongo Bolero
オールド・ハワイの夢
Delicatessen soundtrack - 12 - Dreams of Old Hawaii
パイ焼き職人
Delicatessen soundtrack - 13 - Patty Cake Bakerman
パリの舗道
Delicatessen soundtrack - 14 - The Streets of Paris
名誉の勲章
Delicatessen soundtrack - 15 - Medaille D'honneur
闘技士の入場
Delicatessen soundtrack - 05 - Entry Of The Gladiators
デリカテッセン(エンディング・テーマ)
Delicatessen soundtrack - 16 - Delicatessen (Generique)



カエル男、ポタン氏(ハワード・ヴァーノン)


ハワード・ヴァーノンは、すごい。蛙とカタツムリ。カタツムリはなめくじのようで、よくこんな役を演じられたと感心。交響曲を聴きながらイビキと蛙の声。そしてタピオカ家の悪童リュシアンとレミがのぞいている。

snails, frogs and fanfare.avi



セックス・シーン


人肉を売り、人肉を食べるデリカテッセンの店主クラペ(ジャン=クロード・ドレフュス)。セックスで肉をただでもらうマドモアゼル・プリュス(カリン・ヴィアール)。二人の情事のベッドの軋みが音楽のリズムになる。

Bande-Annonce DELICATESSEN de Marc Caro, Jean-Pierre Jeunet (Lauréat 1990)



アンテリガトゥール夫妻の浴室


浴室で3度目?の自殺を図るジョルジュの妻オーロール。キューヴ兄弟のロベールが彼女に好意を持っている。ルイゾンがベッドスプリングを修理していたために、コンセントが抜けて自殺は未遂に。

Delicatessen escena original

別な自殺失敗のシーン
Delicatessen - Suicide scene ITA


タバコを吸う子供の前でシャボン玉で芸を披露しながら、さりげなく煙草をとりあげるルイゾン。この階段のシーンで、ジェリーと会う。

Delicatessen Bubble Scene



マドモアゼル・プリュス(カリン・ヴィアール)の部屋


マドモアゼル・プリュスのベッドスプリングを直しにきたルイゾン。TVからDreams of Old Hawaii が流れ、二人はスプリングのリズムをとる。

Delicatessen - Bed Springs



ジュリーの部屋


お茶に招かれたルイゾン。山高帽をかぶれば、不思議の国のアリスの「気狂い帽子屋」も演じられそうなドミニク・ピノンだ。

delicatessen - una lágrima tuya



侵入してきた地底人


床から侵入してきた地底人。マルク・キャロもその一人を演じている。

Delicatessen Handshake

この映画を短絡的に、「羊たちの沈黙」にあるカニバリズムだとかをテーマにしているとは、僕は思っていない。

それはひとつのエッセンスであって、もしかするとシュルレアリスム(Surréalisme)の作品かもしれない。なぜなら普段気付かない現実(超現実)がここにあるから。



デリカテッセンの人々
ロベール(リュフュス)とロジェ(ジャック・マトゥ)のキューブ兄弟


そしてシュルレアリスムにおける集団の意識。菜食主義者の「地底人」と、彼らを餌食にする地上人の肉食主義の人々。

シュルレアリスムにおける集合的無意識は、個人的経験に属さないもので、ここでは人食いと食われる者の属性の違いが、民族や人類に共通する古態的(アルカイク)から発生している気がする。

人類の太古の歴史や種族の記憶がここに描かれていると思う。

ベジタリアンの奇妙な男たち(アニメーションっぽいキャラクター)は、もしかするとある決まったイメージを想い起こさせる「元型」を象徴しているのかもしれない。

人類共通の無意識にひそむ「現実」とは、きっとない。なぜなら民族によって食事も作法も違うからだ。

だからこそ、ここには菜食主義者=人肉を食べない人と、肉食主義者=人肉を食べる人を歴史と種族の「元型」をあらわしたのではないか。


デリカテッセンの住人たちは、求人広告でやってきたドミニク・ピノン演じるルイゾンの肉を楽しみにしている。

もちろん、ドミニク・ピノン演じるルイゾンは、画像のように餌食になったわけではない。精肉屋の店主の娘ジェリー(マリー=ロール・ドゥーニャ)がルイゾン(ドミニク・ピノン)に恋するわけで、菜食主義者の「地底人」に彼を父親から助けてもらうように頼むわけだ。

結局ジェリーは、人類に共通する古態的でいえば、身内殺し(父親殺し)になってしまうだろう。

僕は過去記事「ヴォルテールの哲学辞典」で、植民地化されたフランス領から未開人が連れてこられ、ヴォルテールがその中の一人に「人間を食べたことがあるか?」と聞き、「死んだ敵を食べた」と答えたことに対し、二人ともデリカシーがないと書いた。

列王記でも書かれているように、戦争で包囲された国は大飢饉になり、「昨日はわたしの子、今日は彼女の子、それなのに彼女は自分の子を隠した」という訴えも書かれていた。

つまり子殺しで、人食いの人間たちは、古くから語り継がれ、聖書にも神話にもある。

ジュネとキャロ、そしてドミニク・ピノンはもっともナンセンスで、悪趣味で、なによりそれをファンタジーに置き換えた。



Delicatessen(1991) Jeunet & Caro
DUO の場面 →
Duo - Delicatessen
Dominique Pinon and Marie-Laure Dougnac


このデリカテッセンの場面で時々連想するのが、フランスの画家バルテュス(Balthus)の作品だ。


バルテュスが描く世界の装飾や配色は、ジュネ&キャロの「デリカテッセン」の映像に重なるんだ、僕には。


たぶん、それはサーカス的な要素だと思う。ジュネが「デリカテッセン」の10年後に「アメリ」を制作したが、カフェ・ド・ムーランのマダムはサーカスの曲芸師だったし、ルイゾンはピエロだった。

サーカスは華やかで楽しくて、また痛々しい人間が演じるんだけど、「さらわれたり買われたりした子供」という伝説や社会的に「余所者」というイメージがある。

そうした不可解な部分を謎めいたように描いたり、映し出したりできるのが、バルテュスとジュネ&キャロなのかも。



ルネ・マグリットを引き合いに出している記事があったけど、全然っ、ルネ・マグリットじゃない!って思った。



地底人




「葡萄摘みの月」の部分


地底人をルネ・マグリットの「Golconde」(ゴルコンダ)で有名な山高帽の男たちが描かれている「葡萄摘みの月」あたりに当てはめてもいいけどさっ。

地中と空の反対、そしてみんな同じ姿ってところで。



さて、この「デリカテッセン」を大人の童話のような映画だとか。どういう意味で使ってんの?でも僕も本当の意味での童話だと思っているけど。




フリッツ・ハールマン(Friedrich Haarmann)の部屋



この部屋は、フリッツ・ハールマン(Friedrich Haarmann)の部屋だ。左端のテーブルにはコーヒーポットなんかの日用品がある。



Delicatessen (Jeunet & Caro)


デリカテッセンの時代は、核戦争から15年後。ドイツのフリッツ・ハールマン(Friedrich Haarmann)の時代は、 第一次世界大戦後で、深刻な食糧不足に陥っていた。

映画デリカテッセンの設定も核戦争から15年ということは、容易に食料不足が理解できる。

ドイツの1919年から1924年には、ハノーファーではフリッツ・ハールマンが、ベルリンではゲオルク・グロスマン、シュレージエンではカール・デンケが人肉を売り、人肉を食べていた。

三人の共通点は肉卸業者だったこと。



店主クラペとルイゾン
Delicatessen (Jeunet & Caro)


それぞれが違うのは、フリッツ・ハールマンは同性愛者で、男色行為中に喉を噛み、殺害。若い浮浪者や男娼が犠牲者だった。そこで彼らを肉の缶詰として、売り出した。ゲオルク・グロスマンは、もともと変質者だったらしい。獣姦、しかも最初の相手は鶏だという。娼婦を殺し、その肉を卸し、ホットドックで売る。

デンケは唯一の富豪で、「パパ・デンケ」と呼ばれるくらい尊敬された名士だったという。だが、食料不足で富を失わないように、浮浪者を殺害。肉を売り、食費を切り詰めるために自分でも食べた。

カニバリズムという定義のなかで、民族や人類の社会的行為としてのカニバリズムがあるが、彼らは性的なもの、デンケの場合は経済的((特殊な心理)なもので、社会的行為ではない。



Delicatessen (Jeunet & Caro)


ハールマンのアパルトメンのガスオーブンは、この「デリカテッセンの画像のガスオーブン?によく似ている。wikiによると死体の一部を燃やしたとあった。

Friedrich Haarmann 

もっともこの3人のなかで、「デリカテッセン」の店主クラペと同じ「斧」を頭に振り下ろすのは、デンケである。

Karl Denke Bloody knives and axes (斧の展示写真)

こうした歴史的な食料不足や飢饉でのカニバリズムは日本も例外ではない。古代日本、江戸時代、太平洋戦争、そして明治時代だ。



作家トマス・ハリスの小説に登場するハンニバル・レクター(Hannibal Lecter)は悲惨だ。



Hannibal Rising


幼少期のレクター。第二次世界大戦のなかで、溺愛する妹ミーシャが食料となってしまった。

ハンニバル・ライジング(Hannibal Rising)では、その一件からレクターの性格付けとその復讐が描かれている。



Delicatessen (Jeunet & Caro)


こちらはデリカテッセンのリュシアンとレミ。食料となった祖母への悲しみや復讐などはまったく持たず、ひたすら悪戯に命をかける。まさか、「アメリ」の八百屋の店主にやられてるリュシアンは、君じゃないよね?

アメリはこちら、ジュネのアメリもティルセンの音楽も全部見れて、全部聴ける記事。

記事 映画 アメリ Le Fabuleux Destin d'Amélie Poulain 音楽のヤン・ティルセン

ちなみにalei はジュネの映画に参加してくれなかった。嫌いなんだってっ!



ryoくん、ソウル・キッチンのTB、どうも。

デリカテッセンのセックス・シーンは控えめながら、ソウル・キッチンのセックス・シーンは、何あれ!すっごくリアルすぎて、演じているようにはみえませんでした。

兎穴さん、TBありがとうございます。

フライド・グリーン・トマトという映画自体知りませんでした。とても美しい映像で、あれがカニバリズムを暗示している映画にはみえませんでした。



 

コメント:人肉を売り、人肉を食べるデリカテッセンの店主クラペ(ジャン=クロード・ドレフュス)。セックスで肉をただでもらうマドモアゼル・プリュス(カリン・ヴィアール)。二人の情事のベッドの軋みが音楽のリズムになる。

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