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Karl Lagerfeld

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マントヴァ ゴンザーガ家のドゥカーレ宮殿 「カメラ・デリ・スポージ」 (Camera degli Sposi )
メディチ家 Medici / SAI
以前に僕は、ルーベンスが描いた「ゴンガーザ家が讃える三位一体」を紹介した。そのゴンザーガ家のドゥカーレ宮殿。

アンドレア・マンテーニャ(Andrea Mantegna, 1431 - 1506)のドゥカーレ宮殿「夫婦の部屋」の壁画(1463-74)。に描かれたゴンザーガ家の面々は、ご存知の方が多いと思う。

フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの小書斎のように、この謁見の間は「親密な会談」(密談)に使われていた。知ってのとおり、「夫婦」とは、「ゴンザーガ家」と「親密な会談を行う客人」を示す。もっともらしい僕の「嘘」だ。

この部屋は「描かれた部屋」(Camera picta)と呼ばれた謁見の間のひとつだ。それが200年を経た17世紀に誤って「夫婦の部屋」(Camera degli Sposi)になった。

この「夫婦の間」と呼ばれるマンテーニャの壁画は「ゴンザーガ家の神格化」のために描かれたと思う。これから書く内容は僕が思ったことで、専門家の解説ではないので。引用しないで。

以前にメディチ家のリッカルディ宮殿にある壁画、ベノッツォ・ゴッツォリの「
ベツレヘムに向かう三賢王(東方三博士)」を記事にした。


ふと、ドゥカーレ宮殿「夫婦の部屋」の壁画全体が、この三博士の礼拝(Adoration of the Magi)を描いている気がした。それは追々に。

ちなみにこの壁画が完成される1470年-75年の間に、フィレンツェではボッティチェッリが東方三博士の礼拝を描きまくった。

記事 
サンドロ・ボッティチェッリ(東方三博士の礼拝 4作品)

さて、ここに描かれたゴンザーガ家の面々は、いくつか諸説のひとつを後半で紹介。1461-62年のゴンザーガ家の出来事が描きこまれたわけで、1463年にマンテーニャは11年もかかって完成させた。ということは、あとから描かれたリッカルディ宮殿のメディチ家の肖像画となるフレスコ画のほうが古いわけだ。

ゴンザーガ家(廷臣を含めた一族)は赤い帽子。さて二人の黒い帽子に黒衣の人物は誰だろうと気になった。1462年に亡くなっている人物が一人いる。それはあとで。

まずは天井画(La volta)。パンテオン(Pantheon)のトロンプ・ルイユ。


この天窓の場面は、サモサタのルキアノス(Luciano di Samosata 120-180)の風刺のエッセンスを取り入れたという説もある。



Pettina,Nastro,Vaso di agrumi
三人の召使とシトラスの花篭


左は「櫛を持つ女」が描かれている。僕が不思議に感じたアトリビュートだ。女主人の「身づくろい」の品を持たせているのではないか。

その右側には同じ顔に描かれたような女性が二人。髪にリボンのようなカチューシャ(ヘアバンド)をつけている。このアトリビュートは「天使」のものだが、もともとは「仕える者の姿」の由来のものだ。

ゆえに、この3人の娘は「主人に従順に仕える召使い」の姿である。そして繁栄をあらわしているのか、右にはシトラスの花篭。

僕がもっとも気になったのはモロ(ムーア人)。イスラム教徒を象徴しているのだろうか?ムーア人といえばシェークスピアの「オセロ」。



Putto, Putto corona di alloro
Molo,la marchesa Barbara?


左から有翼のプットー(小童)、名誉と勝利の月桂樹の冠を持つプットー、ターバンを巻いたモロ、角型にベールの女性。

角型にベールの髪型は、この時代の風潮でもあり、貴婦人を象徴していると思われる。若き日のバルバラ・ブランデンブルク(Barbara di Brandenburg)?だったりして。そう考えるとモロ(ムーア人)は、彼女の召使だと考えられる。

中世の宮廷では、慰み者、囲い者として道化師や矮人(小人)、肌の黒い人種を側に置いた。



Putto,Cherubino
智天使の手、白い羽の天使、有翼のプットー(小童)、智天使(ケルビム)


智天使(ケルビム)の手だろうか、そして二人の有翼のプットー(小童)に二人の智天使(ケルビム)の顔。ケルビムは、旧約聖書には「四つの顔と四つの翼を持ち、その翼の下には人の手がある。」と書かれている。

ケルビムの身体は翼で隠されており、身体を持っていないとも言われている。ゆえに、マンテーニャは3つの「顔」と一つの「手」だけを描いたのだろうか。



Cherubino,
智天使(ケルビム)、林檎を持つプットー(小童)


ここには智天使(ケルビム)、林檎を手にしているプットー(小童)が描かれている。

KAFKAの記事で、ピロストラトス3世(フィロストラトス3世)の「イマギネス」に、オウィディウスの「祭暦」のウェヌス・ ウェルティコルディアを祀る場面で、ヴィーナス像を造ったニンフとクピドやプットーたちが林檎から愛を生み出す場面があるという。

記事 
4月の寓意 オウィディウス「祭暦」 から

智天使(ケルビム)も「林檎」に縁がある。林檎(禁断の木の実)を食べたアダムとイヴが、追放されたあとの「エデンの園」の「命の木」を守護することとなる。


フルートを持つプットーと羽を広げていない孔雀。この孔雀はきっとメスだ。オスは羽を広げた華やかな孔雀の姿。

プットーのアトリビュートには楽器が多い。これを枝とするならルドヴィーコ3世・ゴンザーガの妻バルバラを聖女バルバラに譬えているともいえる。なぜなら聖女バルバラのアトリビュートはシュラの枝、孔雀の羽だからだ。だが、フルートらしい。

この孔雀をメスとすると、プットーらを除いて、「女性」を象徴しているようだ。もしかすると「婚礼の間」だとか「結婚の間」だとか、「新婚の間」だとかというのは、この孔雀と女性たちが「結婚」(婚礼)の象徴として描かれたからだろう。

天を仰ぐ孔雀は、ローマ神話ではユピテルの妻ユノ、ギリシャ神話ではゼウスの妻ヘラの聖鳥でもある。そして結婚を象徴する神だ。



Camera degli Sposi



Camera degli Sposi Parete nord, la Corte
北側の壁画 「宮廷」


総勢21名が描かれた北側の壁。ちなみに東側と南側は何もないのはどうしてなのか。まずは右側のゴンザーガ家の廷臣たちの登場。そして中央の3人の廷臣。


なんか「マギの礼拝」(Adoration of the Magi)の構図にそっくりなんだけど。ロレンツォ・コスタ(Lorenzo Costa, 1460 - 1535)の「マギの礼拝」は左側に聖母マリアが描かれている。レオナルド・ダ・ヴィンチは中央。右にマリアが描かれているものも多数ある。
 



Camera degli Sposi Parete nord, la Corte


1474年制作。この作品の画家アンドレア・マンテーニャ(Andrea Mantegna, 1431 - 1506)は、ルドヴィーコ3世・ゴンザーガによって、1460年からゴンザーガ家の宮廷画家となる。



Ludovico III Gonzaga & Marsilio or Lupi
Leon Battista Alberti ?


左は、フェデリーコ1世・ゴンザーガの父ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ(Ludovico III Gonzaga, ,alias Ludovico II, 1412 - 1478)。次男フランチェスコ(1444 - 1483)が、枢機卿に選出された知らせを受ける場面。1461年のことだ。

報せている人物は秘書のマルシリオ・アンドレシ(Marsilio Andreasi)か、あるいはレイモンド・ルピ・ディ・ソラーニャ(Raimondo Lupi di Soragna)。フェデリーコ1世・ゴンザーガの友人でもある。


この背後に黒い帽子の人物は、レオン・バッティスタ・アルベルティ(Leon Battista Alberti 1404-1472)に似ていない?彼はマントヴァのサン・セバスティアーノ聖堂とサンタンドレア聖堂を設計している。この制作以前になくなっている人物の一人。



 Il cane Rubino 忠誠の象徴 ルビー


愛犬ルビー(Rubino)は、忠誠の象徴。とっても可愛いよね。



Barbara di Brandenburg
Ludovico & Paola


中央の女性が妻バルバラ・ブランデンブルク(Barbara di Brandenburg)。そして16歳のルドヴィコ ・ ゴンザーガ(Ludovico Gonzaga 1458 - 1511)、林檎を手にした11歳のパオラ ・ ゴンザーガ(Paola Gonzaga 1463 - 1497)が描かれている。



La nana (矮人 ナナ)


この子はだーれ?ドーワフ(dwarf)のようにもてはやされた矮人のナナ。彼女は「小人」ではなく、正統な「種族」として、かなりの有名人だったらしい。ベラスケスの矮人の作品を思い出した。

1656年の「ラス・メニーナス」(ベラスケス)のニコラシート・ペルトゥサート(ニコラ・ペルトサート)が重なる。

当時の宮廷に囲われている「慰み者」の一人。宮廷の道化師と同じ境遇だ。ステイタス・シンボル。



Rodolfo Gonzaga、Barbara Gonzaga


そのななめ後ろに立つ女性が、娘のバルバラ(Barbara Gonzaga, 1455-1505)。23歳のロドルフォ ・ ゴンザーガ(Rodolfo Gonzaga 1451 - 1511)は母バルバラの後ろ。



Ludovico III Gonzaga,Leon Battista Alberti ?
Gianfrancesco Gonzaga,Vittorino da Feltre


ロドルフォ ・ ゴンザーガの左の黒い帽子の人物はイタリアの教育家ヴィットリーノ・ダ・フェルトレ(Vittorino da Feltre 1378-1446)で、この制作された1474年には生存していない人物。彼はルドヴィーコ3世・ゴンザーガ、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの恩師でもあった。

1427年、マントヴァに「喜びの家」(カ・ゾイオーザ、Ca' Zoiosa=Casa Gioiosa)が設立され、人文主義的教育がはじまった。

彼はウルビーノのフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの小書斎の南の壁に描かれている。



ヴィットリーノ・ダ・フェルトレ(Vittorino da Feltre)
Studiolo from the Ducal Palace in Urbino


記事 「フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ 小書斎」 神曲 地獄編の子孫」

その隣でちょうどルドヴィーコ3世・ゴンザーガの後ろに立つのがジャンフランチェスコ(Gianfrancesco Gonzaga 1446 - 1496)だ。・ゴンザーガ家の人間、その廷臣たちは赤い帽子、すでに亡くなっている著名な人物には黒い帽子と黒衣で描いたのだろうか。

中柱からは廷臣たちということだが、ルドヴィーコ3世・ゴンザーガのあとの侯位を継ぐフェデリーコ1世・ゴンガーザ、そして枢機卿に任命されたフランチェスコは、ここには描かれていない。



Camera degli Sposi Parete ovest, l'Incontro
「邂逅」(再会)


まるで、ベツレヘムへ向かう三博士の一行のような描き方。「マギの礼拝」のように描かれたゴンザーガファミリーへ礼拝に行く者たちを描いているようで、メディチ家のリッカルディ宮殿にある壁画、ベノッツォ・ゴッツォリの「ベツレヘムに向かう三賢王(東方三博士)」と重なる。



la targa dedicatoria


奉献の勝利の盾。モノクロの方が文字がはっきりしている。「Ili Ludovico 供廚らはじまる献辞には、「賢明にして信仰篤き最良の君主マントヴァ侯爵 ルドヴィーコ2世と、比類なき栄光を授けられた賢妻バルバラに捧げるために、1474年にパドヴァのアンドレーア・マンテーニャが奉献した」というようなことが書かれている。



Mantegna selfportrait camera picta


僕がもっとも不思議だったのは、この「西側の壁」に描かれた3つの場面を区切る柱のマンテーニャの自画像。

ここにマンテーニャの顔が描かれている。こんなカンジ。これは「署名」がわりに描いたのではないだろうか。


30代から40代にかけて制作した「描かれた部屋」の柱に、植物人間に変身させたような自画像。コワイ。


左の剥がれた壁にはどういう人物が描かれていたんだろう。「手」だけが残されている。


さて、ゴンザーガ家の面々。ルドヴィーコ3世・ゴンザーガと向き合うのが、枢機卿になった次男フランチェスコ、その下にはフランチェスコ2世、甥シジスムントあるいはジギスムント (後の枢機卿) 、そしてルドヴィーコ。ルドヴィーコ3世・ゴンザーガの下には犬が描かれている。

右側のグループはイタリア王のフェデリーコ3世、デンマーク王クリスチャン1世、そしてゴンザーガ家の後継者フェデリーコ1世となる。

王位を持つものとゴンガーザの後継者のグループ。栄誉あるゴンガーザ家の誇りと、背景にローマを表すことで、永遠の都市マントヴァを象徴している。


僕の好きな名馬と闘犬

 


手だけが残った。その先にはルドヴィーコ3世・ゴンザーガの名馬。メディチ家のフラスコ画に描かれている馬の装飾のほうが豪華。そして闘犬のマスティフ(molosso)が描かれている。


画の中にいるから、恐ろしいどころか可愛く見えてしまうが、本物はかなり凄みがある。 猟犬のグレート・デン(Alano)に見えたがマスティフ(molosso)らしい。



フェデリーコ1世・ゴンザーガ(Federico I Gonzaga, 1444 - 1484)は、1470年までミラノ公国のスフォルツァ家と契約する傭兵(コンドッティエーレ)でもあった。つまりガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ(Galeazzo Maria Sforza)が暗殺されるまでである。フェデリーコ1世は侯位を与えられたのちは、ゴンザーガ家の繁栄に力を注いだ。

ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ(Galeazzo Maria Sforza)とは不和だった弟ルドヴィーコ・スフォルツァ (Ludovico Sforza)が実権を握ることとなる。その彼はフェラーラ公エルコレ1世・デステの娘ベアトリーチェ・デステ(Beatrice d'Este)と結婚。

ゴンザーガ家というと、1484年にフェデリーコ1世・ゴンザーガが亡くなるとフランチェスコ2世・ゴンザーガが後を継ぎ、彼はベアトリーチェ・デステの姉イザベラ・デステ(Isabella d'Este Gonzaga)と結婚。

ゴンザーガ家もデステ家と婚姻を結んだのだった。

ルドヴィーコ・スフォルツァ (Ludovico Sforza)の従兄妹バッティスタ・スフォルツァは、
ウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの妻でもある。

フィレンツェのロレンツォ・デ・メディチの時代、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが生きていた頃にはスフォルツァ家とは協力関係にあった。

記事 
ロレンツォ・デ・メディチとスフォルツァ家

だが、その後はロレンツォ暗殺を企てたフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロらによる「パッツィ家の陰謀」(1478)では、イル・モーロ(ルドヴィーコ・スフォルツァ)は、従兄弟ロベルト・ダ・サンセヴェリーノの軍にいた。ジュリアーノ暗殺の翌年、1479年にスフォルツァ家にもどってきている。

イル・モーロが実権を握ったのは、1476年の摂政時代。その後追放となるが、ミラノ公になったのは1494年。第4代マントヴァ侯爵フランチェスコ2世(フェデリーコ1世の息子)の時代だった。

もう、面倒になったので、今日はこの辺で。
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ベノッツォ・ゴッツォリ メディチ・リッカルディ宮殿 Chapel of the Magi
メディチ家 Medici / SAI

メディチ・リカルディ宮マギ礼拝堂の「ベツレヘムに向かう三賢王(東方三博士)」(東方三博士のベツレヘムへの旅 1459 - 1461)の依頼主はピエロ・ディ・メディチだという。

1月6日のエピファニア 救世主の公現祭(Epifania)は、幼子イエスへの東方の三博士の訪問と礼拝を記念する行事でもあり、ロレンツォの母親ルクレツィア・トルナブオーニがこの祝祭を重んじていた。

1447年から3年に一度、「東方三博士の仮装行列」(Cavalcata dei Magi)、「東方三博士の行列」(Cavalcata dei Magi)なんて呼ばれて、1494年まで続いたが、1997年にドゥオーモの700年祭で復活した。



ベノッツォ・ゴッツォリ 2枚の自画像


そのメディチ家の「東方三博士」と、コジモ・デ・メディチが誘致したフィレンツェ公会議を主題に描かれた作品で、メディチ家のほか公会議に主席した人物たちが描かれている。

公会議の人物たちで、はっきりと描かれているのはヨハネス8世パレオロゴスやコンスタンディヌーポリ総主教ヨセフス。

教皇エウゲニウス4世、エフェソス、ニカイア、キエフ、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレムの司教たちが
サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂で討議した。



Procession of the Youngest King (east wall) 青年王の行列


凛々しくいささかカッコよく描きすぎているロレンツォ・デ・メディチ(Lorenzo de' Medici)。未来にはフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの狸親父に、サヴォナローラの神権政治が待ち受けてるんだ。

記事 
ロレンツォ・デ・メディチとフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ



 


メルキオール(Melchior-黄金-王権の象徴、青年の姿の賢者)として描いたロレンツォ・デ・メディチ(1449-1492)は当時は10歳くらい?右の馬上の「二人の騎士」は、黄金と剣を捧げ持つ。

この二人、一緒に暮らしていた又従兄弟のピエルフランチェスコ(Pierfrancesco de' Medici, 1430-1476)?、フランチェスコ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ(Francesco de' Medici)?だったりして。

この連作には人文主義マルシリオ・フィチーノとクリストフォロ・ランディーノ(Marsilio Ficino and Cristoforo Landino)も描かれているらしいが、どこ?ホント?

青年王の行列には「メディチ一族」、「親メディチ派」が描かれているらしい。



 


 



若き王として描かれたロレンツォのあとに続く「馬に乗っている4人」の人物は、右からロレンツォの父ピエロ・ディ・メディチ(ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ Piero di Cosimo de' Medici )、祖父コジモ・デ・メディチ(Cosimo il Vecchio de’ Medici)。

ピエロの乗る白い馬鋲を装飾しているのは「Semper」(常に)という信念を象徴するエンブレムらしい。

ピエロ・ディ・メディチとコジモ・デ・メディチに一人の人物が描かれている。コジモの非嫡子のカルロ・ディ・コジモ・デ・メディチ(Carlo di Cosimo de’ Medici)だった。プラートの町の聖堂参事会長カルロというのがこの人物。

そしてロレンツォの友人でもあり、フィレンツェのメディチと協力関係があった頃のミラノのガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ(Galeazzo Maria Sforza, 1444-1476)、リミニの領主シジズモンド・パンドルフォ・マラテスタ(Sigismondo Pandolfo Malatesta、1417-1468)である。

記事 
ロレンツォ・デ・メディチとスフォルツァ家



 


この作品の画家ベノッツォ・ゴッツォリの自画像。この作品から、ボッティチェッリは「東方三博士の礼拝」(メディチ家集団肖像画)に自画像を描いたのだろうか。

赤い帽子に「Benozzo(ベノッツォ)」と書いてある。この彼の周りにも、当時の著名な人物が描かれているかもしれない。彼の左上の赤いボンネットの人物はローマ教皇のピウス2世(Pius II)じゃないかとある。


左枠はコジミーノ・ジョヴァンニ・ディ・デ・メディチ(Cosimino di Giovanni di Cosimo de’ Medici)、左枠から二番目は次の画像から。そして中央の枠の二人は、ロレンツォとジュリアーノの家庭教師でアレッツオの司教ジェンティーレ・ベッキ(Gentile Becchi)。

その隣がジュリアーノ・ディ・ピエロ・デ・メディチ(Giuliano di Piero de’ Medici )だとあったが、ジュリアーノが二人描かれているわけがない。

そして右枠はジョヴァンニ・ディ・フランチェスコ・トルナブオーニ(Giovanni di Francesco Tornabuoni)、コジモの非嫡子ジョヴァンニ・ディ・ コジモ・デ・メディチ(Giovanni di Cosimo de’ Medici)だとあった。



 



ツァハリアス(ザッカリア)の前に現れる天使
ドメニコ・ギルランダイオ(Domenico Ghirlandaio)




ジェンティーレ・ベッキやロレンツォの母親の実家トルナブオーニ家が描かれているということは、サンタ・マリア・ノヴェッラ トルナブオーニ礼拝堂のドメニコ・ギルランダイオのフレスコ画の「ツァハリアス(ザッカリア)の前に現れる天使」に描かれているメンバーの若かりし頃がここにいてもおかしくないかなって。

記事 
サンタ・マリア・ノヴェッラ トルナブオーニ礼拝堂のメディチ家

ということは、ベノッツォ・ゴッツォリやピウス2世が描かれている周辺?



下段にメディチ家




この作品が完成した頃のメディチ家は、ピエロ・ディ・メディチ(Piero di Cosimo de' Medici )、非嫡子と思われるフィリッポ・ディ・コジモ・デ・メディチ(Filippo de' Medici アレッツォ司教、ピサ大司教)、ジョヴァンニ・ディ・コジモ・デ・メディチ(1421-1463 メディチ銀行総支配人)、カルロ・デ・メディチ(Carlo de' Medici 1430-1492)がいる。

ジョヴァンニの子コジミーノ・デ・メディチ(Cosimino de' Medici 1455-1461)は完成時に死去しているので、コジモの孫はロレンツォとジュリアーノ。

コジモ・デ・メディチ(イル・ヴェッキオ 1389年 - 1464年)の父はジョヴァンニ・ディ・ビッチ(1360年 - 1429年)。弟にロレンツォ(Lorenzo de' Medici, 1395-1440)がいる。



 





ジョヴァンニ・ディ・ビッチの弟、コジモの叔父にはフランチェスコ・ディ・ビッチ・デ・メディチ(Francesco de' Medici)、従兄弟はアヴェラルド・ディ・フランチェスコ・デ・メディチ(Averardo de' Medici ?- 1434)、その従兄弟の子にジュリアーノ・ディ・アヴェラルド・デ・メディチ(Giuliano de' Medici)がいる。

さきのジェンティーレ・ベッキ(Gentile Becchi)の隣にいるジュリアーノは、ジュリアーノ・ディ・アヴェラルド・デ・メディチ(Giuliano de' Medici)ではないだろうか。



 



フィリッポ・リッピ(Filipino Lippi)
Adoration of the Magi 1496
東方三博士に描かれているピエルフランチェスコ




ロレンツォの父ピエロの弟のロレンツォ側(分家)には、ピエルフランチェスコ(Pierfrancesco de' Medici, 1430-1476)、フランチェスコ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ(Francesco de' Medici)で、二人は成人するまでロレンツォ、ジュリアーノと暮らしていた。

この二人もはっきり描かれていてもいいんだけど。

フィリッポ・リッピの「東方三博士の礼拝」には、ピエルフランチェスコ、息子のロレンツォ・イル・ポポラーノ(Lorenzo il Popolano)、ジョヴァンニ・イル・ポポラーノ(Giovanni il Popolano)を描かせた。


ベノッツォ・ゴッツォリの自画像の下に描かれた二人の少年。この二人はロレンツォ(Lorenzo di Piero de’ Medici detto il Magnifico)とジュリアーノ(Giuliano di Piero de’ Medici)?の兄弟だという説がある。



 


僕的にロレンツォ(Lorenzo di Piero de’ Medici detto il Magnifico)は納得している。ロレンツォの陰にいる左の少年は誰?金髪の少年も気になる。

ジュリアーノ・ディ・アヴェラルド・デ・メディチ(Giuliano di Averardo de' Medici))とピエルフランチェスコ(Pierfrancesco de' Medici, 1430-1476)、フランチェスコ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ(Francesco de' Medici)がいっしょに描かれているとするならば。


ジュリアーノ(Giuliano di Piero de’ Medici)だとわかっているのは、「老王の行列」で先頭にいる馬上の少年。「青年の行列」で、どの顔なんだろう。やっぱりロレンツォと並んでいる少年なのかな?帽子をかぶらない金髪の少年は小姓風なんだけど、なぜ一人だけメディチの親族のなかに描かれてるのかが不思議。

ロレンツォとジュリアーノ兄弟、従兄弟ロレンツォとジョヴァンニの兄弟の4人の家庭教師はマルシリオ・フィチーノ(Marsilio Ficino)やアンジェロ・ポリツィアーノ(Angelo Poliziano)がいる。



 



Procession of the Middle King (south wall) 壮年王の行列


ヨハネス8世パレオロゴス( John VIII Palaiologos 1392-1448)は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)パレオロゴス王朝の皇帝。マヌエル2世(1350-1425)の息子。

フィレンツェに、フェラーラ・フィレンツェ公会議を誘致したのはコジモ・デ・メディチ。その公会議に出席したヨハネス8世がモデルという一説がある。

出席していたニカイアの府主教としてヨハンネス・ベッサリオン(Johannes Bessarion)、ミストラスのゲオルギオス・ゲミストス・プレトン(Georgios Gemistos Plethon)は、プラトン哲学を伝えた。

この公会議のあと、メディチ家の「プラトン・アカデミー」が設立された




 


ヨハネス8世に仕える小姓は、当時の中世ヨーロッパの典型的なページボーイ(page boy)だ。しかも他の小姓と相異した服装と色。

バルタザール(Balthasar-乳香-神性の象徴、壮年の姿の賢者)をヨハネス8世にたとえ、彼は東西キリスト教会の合同と十字軍対オスマン帝国強硬政策を進めたが、1453年にオスマン帝国軍がコンスタンティノポリスを陥落させ、この公会議の協議は水の泡となった。

この隣の作品は次の作品の老王の行列(Procession of the Oldest King -west wall)の総主教ヨーゼフ2世(コンスタンディヌーポリ総主教ヨセフス)の随行の射手。


 



青い服のページボーイ ヨハネス8世


主君と小姓の男色関係を示したものだろうか。ボッティチェッリの「東方三博士の礼拝」にも同様に見られる。

ヨハネス8世は、ピエロ・デラ・フランチェスカ (Piero della Francesca)の「キリストの鞭打ち」(モンテフェルトロ家の依頼の作品)にも描かれている。


ロレンツォの姉たち。ベルナルド・ルチェライの妻となるナンニーナ(Nannina de' Medici)、マリア(Maria)、そしてグリエルモ・デ・パッツィの妻となったビアンカ(Bianca de' Medici)が描かれている。


 



他のサイトでは風景のフレスコ画がないんだけど、たしかにあったので、そのとおりの配置に並べてみた。

この「老王の行列」に描かれている左の人物はコンスタンチノープル(コンスタンチノポリス)に関係があるらしい。ユスティニアヌス1世?だろうか。それとも時の王マヌエル2世パレオロゴスだろうか。「緋色の帝衣をまとったマヌエル2世パレオロゴス」の肖像画に描かれた顔に似てるんだけどな・・・。

調べてみるとギリシャ正教司祭、つまり総主教ヨーゼフ2世(Patriarch Joseph II of Constantinople)だという説。ギリシャの「聖なる山」と呼ばれるアトス山の僧侶。第二次ブルガリア帝国の最後の皇帝イワン・シシュマン(イヴァン・シシュマン Ivan Shishman of Bulgaria)の息子。ヨハネス8世パレオロゴスとフェラーラ・フィレンツェ公会議に出席した。



 


ギリシャ教会をローマカトリックの司教の下に統一するためのフィレンツェ公会議の決議に署名したマヌエル2世はコンスタンチノープルの市民の怒りを買う。コンスタンティノポリスを中心とする東方正教会は、ご存知のように現在も東西に分かれている。

さらにルクセンブルク朝の神聖ローマ皇帝ジギスムント(Sigismund 1368-1437)という説がある。ジギスムントは1414年にコンスタンツ公会議を開催して、ローマ教会の再統一を果たした。ちなみにミュシャ(ムハ)の「スラヴ叙事詩」の場面に描かれているヤン・フスを火刑に処してしまったのがこの人。



 



Procession of the Oldest King (west wall)


この老王の行列のなかに、ジュリアーノ・デ・メディチが描かれている。パッツィ家の陰謀(黒幕はフェデリーコ?)で暗殺される。



 



Adoration of the Magi 1423 (Detail)
東方三博士の部分の行列と「山上の行列」の比較
ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ(Gentile da Fabriano)




ジュリアーノが描かれたこの作品の右端に猿が描かれているが、その猿の隣の3人は、マーソ・デジ・アルビッツイ(Maso degli Albizzi), ジーノ・カッポーニ(Gino Capponi),  ニッコロ・ダ・ウッツァーノ(
Niccolo da Uzzano)。


記事 パッツイ家の陰謀 モンテフェルトロの陰謀 ジュリアーノ・デ・メディチの血の日曜日

そこの三賢者のエルサレムの旅には、画家ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ(Gentile da Fabriano)に倣った作品だと何かに書いてあった。



 


ここにはベルナルド・ジューニ(Bernardo Giugni), フランチェスコ・サセッティ(Francesco Sassetti), アーニョロ・タニ(Agnolo Tani), たぶんディエティサルヴィ・ネローニ(perhaps Dietisalvi Neroni)、ルカ・ピッティ(Luca Pitti)、ロベルト・ディ・ニコロ・(Roberto di Niccolò Martelli)、パッラ・ストロッツィ(Palla Strozzi)らが描かれているらしい。

つまり、ここにはのちに反メディチでピッティの陰謀事件の首謀者たちが描かれていることになった。この作品から3年後のこと。



 



要人達


ちょうどそのジェンティーレ・ダ・ファブリアーノの「東方三博士の礼拝」で、王にたとえられたパッラ・ストロッツィ(Palla Strozzi)も描かれているらしい。この中の誰なんだろう。


青い帽子の男は、ちょっと見のカンはジベノッツォ・ゴッツォリに似てるって思った。

追記
この青い帽子の人物はジベノッツォ・ゴッツォリの自画像(B.Gozzoli, Proc. o. Kings, self portr)だった。

「要人たち」の画像で、その上の人物が、僕的にはフランチェスコ・サセッティ(Francesco Sassetti)、ちょっぴりしか見えない顔を飛ばして、こちらを向いている人物が反メディチのルカ・ピッティ(Luca Pitti ピッティ陰謀事件の首謀者として利用された人物)だと思われる。

でもね、よく見る肖像画と違う。この作品はまだみんな若いし。


 



Adoration of the Magi 1423
東方三博士の礼拝
Gentile da Fabriano




パッラ・ストロッツィ(by Gentile da Fabriano)




ちなみにジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ(Gentile da Fabriano)が描いた彼の顔と比べてもわからない。


この老王の行列は、カスパール(Casper-没薬-将来の受難である死の象徴、老人の姿の賢者)を象徴している。将来の受難である死の象徴。ジュリアーノの後ろから、王は従者に没薬を持たせ行進する。それは、ジュリアーノの受難を予言しているように。

記事 
パッツイ家の陰謀 モンテフェルトロの陰謀 ジュリアーノ・デ・メディチの血の日曜日





僕が気になるのはこの後ろ向きの人物。先頭の馬に乗るジュリアーノより豪華な衣装を身に着けている。何者だろう。馬の装飾も豪華。


 



幼な子キリストの礼拝 (L'adorazione del Bambino)
フィリッポ・リッピ(Fra Filippo Lippi)の作品の模写
copia della natività di filippo lippi
ピエル・フランチェスコ・フィオレンティーノ(Pier Francesco Fiorentino)


ベルリン美術館にあるフィリッポ・リッピの「幼子キリストの礼拝」を模写したというフィオレンティーノの作品。

Maria, das Kind verehrend, mit dem Johannesknaben und dem Hl. Bernhard (Die Anbetung im Walde)

幼子キリストの礼拝
フィリッポ・リッピ(Fra Filippo Lippi)
ベルリン美術館(Staatliche Museen)


こちらがフィリッポ・リッピの作品。「幼子キリストの礼拝 Maria, das Kind verehrend, mit dem Johannesknaben und dem Hl. Bernhard (Die Anbetung im Walde)」でドイツ語表記のタイトル。ベルリンだからね。


 
中央のこの作品の両側には次のフラスコ画がある。羊飼いの宵越しと楽園の天使たち。ベノッツォ・ゴッツォリは、この作品は「福音書」のとおりに描いているという。





Mediateca di Palazzo Medici Riccardi
The Chapel of the Magi

動画はこちら
Firenze - LA CAPPELLA DEI MAGI di Benozzo Gozzoli nel Palazzo Medici-Riccardi

※たぶん間違いだと思うけど、若い王の行列でロレンツォ・デ・メディチにカスパール(Casper)、老王の行列でメルキオール(Melchior)と表示されていた・・・。

ちなみにサン・マルコ修道院美術館(San Marco)にあるベノッツォ・ゴッツォリ(Benozzo Gozzoli)の「東方三博士の礼拝」(Adoration of the Magi)は、こちらの記事から

記事 フラ・アンジェリコ 6枚の受胎告知(Annunciation)

ベノッツォ・ゴッツォリ(Benozzo Gozzoli)関連記事
記事 ベノッツォ・ゴッツォリ 受胎告知 Benozzo Gozzoli Annunciation
記事  ベノッツォ・ゴッツォリ Benozzo Gozzoli 祭壇画とか
記事 世界遺産(文化遺産) サン・ジミニャーノ歴史地区 参事会教会 Historic Centre of San Gimignano




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ロレンツォ・デ・メディチとスフォルツァ家
メディチ家 Medici / SAI



レオナルド・ダ・ヴィンチによるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の「最後の晩餐」の反対側にあるジョヴァンニ・ドナート・モントルファーノの「磔刑図」(キリストの磔刑)に描かれたミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァとその妻ベアトリーチェ・デステ。


おなじみの構図。スフォルツァ家もトルナブオーニ家も、モンテフェルトロ家も、みーんな御揃いのスタイル。200年後のルーベンスも聖イルデフォンソ祭壇画にこのスタイルでご依頼主様を描いている。

ルドヴィーコ・スフォルツァは、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの妻バッティスタの従兄弟である。


通称イル・モーロことルドヴィーコ・スフォルツァはこの二人、フランチェスコ・スフォルツァとビアンカ・マリーア・ヴィスコンティの次男。

この二人には8人の子供かいる。長男ガレアッツォ・マリーア(Galeazzo Maria)、だがフランチェスコ・スフォルツァは35人の子供を設けたという。

Chiesa di S. Sigismondo, Cremona

Chiesa di S. Sigismondo, Cremona


クレモナのサン・ シジスモンド教会には、フランチェスコ・スフォルツァ(Francesco Sforza)とビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ(Bianca Maria Visconti)とその息子たちが描かれた聖母子の集団肖像画。



サン・ シジスモンド教会の聖セシリアと聖カタリナ


フランチェスコ・スフォルツァ(Francesco Sforza)とビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ(Bianca Maria Visconti)の結婚式はここで行われた。

フランチェスコ・スフォルツァの政権はニッコロ・マキャヴェッリの君主論にも取り上げられている。

要約
フランチェスコ・スフォルツァは適切な手段とみごとな力量によってミラノ公になった。(略)ミラノの城を築いたが、これがスフォルツァ家にとって国内のどんな騒乱にましても、戦争の火種になったのである。

フランチェスコ・スフォルツァ(1401-1466)とロレンツォ・デ・メディチ(1449-1492)の祖父であるコジモ・デ・メディチ(1389-1464)とは盟友であり、その強固の結託は、メディチ家への財政的支援であり、メディチ家は軍事的保護を約束された。



Francesco Sforza & Cosimo de' Medici


フランチェスコ・スフォルツァの亡き後は長男のガレアッツォ・マリーア(1444-1476)である。ボナ・ディ・サヴォイアと結婚。

スフォルツァ家が統治するミラノで、チッコ・シモネッタはフランチェスコ・スフォルツァ、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ、そしてジャン・ガレアッツォ、イル・モーロと、長くその歴代ミラノ公に仕える。

歴代といっても決して長くはないけど。ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァと母親ボナの時代の事実上の摂政はチッコである。

宮廷詩人アントーニオ・コルナッツアーノは「統治の技法」で、父フランチェスコとガレアッツォの暗殺を述べている。

善良なるフランチェスコ公は 今や亡き者となった息子をいくたびとがめことだろう

「ジョヴァンニ公の魂がおまえに舞いおりて、はらわたの奥底に根付いているのだ。」

彼は叫び、そしてその予言は現実となった。

Galeazzo Maria Sforza by Zanetto Bugatto, 1475, Sforza Castle Museum-2

Galeazzo Maria Sforza & Bona of Savoy
left:ザネット・バガット(Zanetto Bugatto 1458-1476)


左のガレアッツォの肖像画は暗殺される前年の肖像画。1475年のザネット・バガット(Zanetto Bugatto)によるもの。 Sforza Castle Museum所蔵。

記事 レオナルド・ダ・ヴィンチの「美しき姫君」でも紹介したけれど、父ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが暗殺され、7歳でミラノ公となったジャン・ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ。叔父ルドヴィーコが実権を握る。

兄ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァに追放されていた裏切り者のルドヴィーコは、ボーナ・ディ・サヴォイアの摂政と幼いジャン・ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの統治に反対し、後見人の地位を得た。

ガレアッツォ・マリーアとは不和だった従兄弟ロベルト・ダ・サンセヴェリーノと手を組み、チッコを脇へ追いやるが。ロレンツォ・デ・メディチはガレアッツォ・マリーア・スフォルツァを慕っていた。彼亡きあと、チッコとの関係を続けるべきと判断はしていた。だがロベルト・ダ・サンセヴェリーノはロレンツォの親友でもあった。

Gian Galeazzo Maria Sforza

長男 ジャン・ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ
Gian Galeazzo Maria Sforza
by Leonardo da Vinci レオナルド・ダ・ヴィンチ



作者不詳 次男 エルメス・マリーア・スフォルツァ
Ermes Maria Sforza


ジャン・ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ(Gian Galeazzo Maria Sforza)は、ナポリ王女イザベラ・ダラゴナと結婚した。25歳で亡くなった。5年間の結婚生活で3人の子供が誕生するが、成人したのはボナだけ。

イザベラはナポリ王アルフォンソ2世とイッポーリタ・マリーア・スフォルツァの娘。イッポーリタはフランチェスコ・スフォルツァとビアンカ・マリーア・ヴィスコンティの娘であるから、二人はいとこ同士の結婚。

ジャン・ガレアッツォは、叔父ルドヴィーコ・イル・モーロにパヴィーア城に監禁され、毒殺された。

エルメス・マリーア・スフォルツァは、ユリウス2世に抱き込まれた叔父アスカニオ・スフォルツァ枢機卿(Ascagnio Sforza)によって、ユリウス2世、叔父イル・モーロの思惑にのったシャルル8世のナポリ侵攻(イタリア侵攻)の巻き添えで、スフォルツァ家が支配していたノヴァーラに投獄されて亡くなった。

Bianca Maria Sforz by Leonardo da Vinci

長女 ビアンカ・マリーア・スフォルツァ
Bianca Maria Sforz
 by Leonardo da Vinci レオナルド・ダ・ヴィンチ

Anna Maria Sforza

一角獣を抱く貴婦人 Ritratto di dama con liocorno
(Portrait de Madalena Strozzi マッダレーナ・ドーニ)
(Bona Sforza ボナ・スフォルツァ)
次女 アンナ・マリーア・スフォルツァ  Anna Maria Sforza ?
by Raffaello Santi ラファエロ


ラファエロの「一角獣を抱く貴婦人」がアンナ・マリーア・スフォルツァという可能性があるらしく、さっそく引用してみた。だけどバルトロメオ・ヴェネトのベアトリーチェ・デステ(Beatrice d'Este)っぽいなと思った。

ジュリア・ファルネーゼ(Giulia Farnese)の肖像画とも言われているけど、僕が鑑賞したスフォルツァ家の女性たちと同じ首飾りをしている。この件は記事後半で。

長女 ビアンカ・マリーア・スフォルツァは、2歳で最初の結婚をしている。2歳・・・。そして死別。普通の年齢になってマクシミリアン1世の後妻に。 亡くなった最愛の妻マリー・ド・ブルゴーニュのあとだから厳しかっただろう結婚生活。7年ののちにビアンカは死去。

アンナ・マリーア・スフォルツァは21歳で亡くなっている。アルフォンソ1世・デステに嫁ぐが1年後に出産時に死亡。ルクレツィア・ボルジアと再婚した。アルフォンソ1世・デステの姉ベアトリーチェが叔父ルドヴィーコ・イル・モーロと結婚。


愛人ルクレーツィア・ランドリアーニ(Lucrezia Landriani)との間に3人。一人はボッティチェッリの作品にも多数描かれているカテリーナ・スフォルツァ(Caterina Sforza)がいる。ロレンツォの暗殺未遂に終わったパッツィ家の陰謀の黒幕ジローラモ・リアリオ(Girolamo Riario)に嫁ぐ。カテリーナ・スフォルツァは親メディチ。微妙な家系。

パッツィ家の陰謀に、ルドヴィーコ・イル・モーロの名があがっていないのが不思議だ。

記事 Sandro Botticelli サンドロ・ボッティチェッリ
記事 中世イタリア ルネッサンスの美女
記事 カテリーナ・スフォルツァ(Caterina Sforza)の謎 ボッティチェッリ プリマヴェーラから
記事 サンドロ・ボッティチェリ Sandro Botticelli システィーナ礼拝堂
記事 パッツイ家の陰謀 モンテフェルトロの陰謀 ジュリアーノ・デ・メディチの血の日曜日


ロレンツォ・デ・メディチの寝室に飾っていたガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの肖像画。1471年にガレアッツォがフィレンツェを訪問した際、ピエロ・ポライウォーロ(ピエロ・デル・ポッライオーロ  Piero Pollaiuolo)が描いた。

ロレンツォがこの肖像画を飾っていたのは、親愛のためか、あるいは教訓のためだろうか。

1476年6月、弟のルドヴィーコ・イル・モーロとスフォルツァ・マリーア・スフォルツァは、ガレアッツォの暗殺を企てて追放された。

それから半年後。三羽のカラスが頭上を飛ぶのをみて、これを凶兆ととらえたガレアッツォは弓矢を引く。その数日後にミラノに戻る。



Sforza Triptych
by Rogier van der Weyden



スフォルツァ家の三連画中央にガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ
父フランチェスコと母ボナ、キリストの十字架下に頭蓋骨


ガレアッツォの圧制、品行不良は、おぞましいほどの暴君で性の略奪者と伝えられているが・・・。

そして12月26日。

ジュリアーノ・デ・メディチと同じように、ガレアッツォは教会に行った。公爵聖歌隊の歌を楽しみにしていたというが、チッコ・シモネッタは思いとどまらせようとした。ほかの助言者たちと一緒に反対したらしい。

サンテ・ステファーノ教会にガレアッツォと同行したのはマントヴァ大使サッジ、弟フィリッポとオッタヴィアーノ、チッコの弟ジョヴァンニ・シモネッタ、軍事顧問のオルフェーオ・ダ・リカーヴォ。

family of Francesco Sforza

フランチェスコ・スフォルツァ一族
まだ幼い7人の子どもたちが描かれている


そうして教会の中央で、ガレアッツォの廷臣だったジョヴァンニ・アンドレーア・ランプニャーニ(Giovanni Andrea Lampugnani)の短剣が刺さった。おなじくカルロ・ヴィウコンティ(Carlo Visconti)の剣。そしてあの人文主義者のコーラ・モンターノに師事していたジローラモ・オルジャーティ(Gerolamo Olgiati)の3人の手によって。

三羽のカラスだったんだ・・・。

強姦罪で、ガレアッツォの命で鞭打ちされた人文主義者のコーラ・モンターノ。ジローラモ・オルジャーティは彼の教えにより自由政体のために殺害したというが。

ジュリアーノ・デ・メディチが暗殺されたパッツィ家の陰謀では、メディチのプラトン・アカデミー筆頭のマルシリオ・フィチーノ(Marsilio Ficino )の教え子ヤーコポ・ブラッチョリーニ( Jacopo Bracciolini)が加担した。

記事 パッツイ家の陰謀 モンテフェルトロの陰謀 ジュリアーノ・デ・メディチの血の日曜日


一人逃げたジローラモ・オルジャーティは、結局捕まり、八つ裂きになる直前に「この行いの記憶は永遠に永く残るのだ。死は苦きものだが、名声は永久に続く。」と自分に言い聞かせたというが、サルティウスの「カティリナの陰謀」の影響。

コーラ・モンターノ(Cola Montano、本名Nicola Capponi da Gaggio)が信棒させたのだろうか。このガレアッツォの暗殺後は、彼はつつがなく暮らしたことだろう。

だがロレンツォ・デ・メディチはつつがなく暮らすことができなくなった。ガレアッツォは重要な味方だったからだ。

記事 ロレンツォ・デ・メディチとフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ

ガレアッツォの肖像画は鷹狩の鷹が主人の素手に戻ってくることを自慢する仕草だという。



玉座のガレアッツォと右のチッコ・シモネッタ 1475年頃


1477年2月17日の月曜日。ミラノから4羽の鷹が届けた緊急の件に対し、ロレンツォはチッコに判断を仰ぐ判断を下す。ガレアッツォが死んで、スフォルツァ兄弟よりもチッコ・シモネッタとの絆を選んだのである。

さて、
フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロのところにもその報せは届いた。フェデリーコの宮廷画家で詩人でもあるラファエロの父ジョヴァンニ・サンティは、「フェデリーコがガレアッツォの死に遺憾に思うのは、全面休戦に向けたフェデリーコの美しきビジョンが殺されていまったからだ」と述べた。

ロレンツォはチッコとは見解が相違して、ミラノの情勢を保障する役目をフェデリーコではなく、マントヴァのルドヴィーコ・ゴンガーザを提案する。

ミラノのチッコは、スフォルツァ兄弟、そしてロベルト・ダ・サンセヴェリーノ(Roberto da Sanseverino)の陰謀から身を守りつつ、政権支配を掌握していた。

Die Hochzeit von Roberto da Sanseverino und seiner dritten Gattin Lucrezia Malavoiti

ロベルト・ダ・サンセヴェリーノ(Roberto da Sanseverino)
三度目式の図


ロレンツォは親友ロベルト・ダ・サンセヴェリーノが、何かたくらんでいるのを察していた。ロベルトがチッコに対しての敵意も。

ロレンツォは友人でもありプラトン・アカデミーのメンバーのルイージ・プルチを派遣した。ロベルトと気が合うからだ。だがチッコはプルチの外交を快くは歓迎しなかった。

ロレンツォとチッコは傭兵契約こそ意見は一致していたが、当のロベルトは俸給をフェデリーコと同じくいてほしいという要求。

その最中、スフォルツァ家からジェノヴァが独立する騒ぎがあった。討伐に成功したロベルトとスフォルツァ兄弟たちは、チッコに対するクーデターを計画したが、その陰謀にチッコは先制攻撃にでる。



聖ルシアのイッポーリタ・マリーア・スフォルツァ
中央 マグダラのマリアのボナ公爵夫人



ボナ公爵夫人(Bona of Savoy) すごい変わりよう


公爵夫人ボナは4人のスフォルツァ兄弟を追放する。

フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロは、チッコの思慮深さと鋭い洞察力をたたえ、ロレンツォは、プルチの抒情詩、レオナルド・ダ・ヴィンチも所有いていた「モルガンテ」の一説のようなメッセージを送る。

「人間に関する事柄は変わりうるもので、すべては運命に左右される。」と。

プルチの「モルガンテ」より
「だが運命は常に待ち伏せをして、我々のあらゆる目論みを打ち砕こうとしている。」

ロレンツォはイタリア勢力の均衡に安堵していたが、「誰かがこの均衡を打ち砕こうとしている。」ことに気がついていなかった。

これから数ヶ月もたたないうちに、フェデリーコはチッコに暗号の手紙を送る。チッコが生き延びたいのであれば、フィレンツェを断ち切りナポリと手を組むことを。

Ludovico ilMoro

ルドヴィーコ・スフォルツァ (Ludovico Sforza)


ルドヴィーコ・イル・モーロは1477年に再び追放された。ピサで監禁されていた。1479年、スフォルツァ・マリーア・スフォルツァがアラゴン家の後ろ盾を得て、ロベルト・ダ・サンセヴェリーノらと再会した。だがロベルトの軍隊での生活に疲労したスフォルツァ・マリーア・スフォルツァは死んだ。

公爵未亡人ボナの愛人アントーニオ・タッシーノはチッコの政治権力に嫉妬し、ルドヴィーコの再入国をすすめた。

当然、チッコは投獄される。1479年の秋だった。

ルドヴィーコ・スフォルツァ (Ludovico Sforza)は、1491年1月にベアトリーチェ・デステ(Beatrice d'Este)と結婚をした。第1子マッシミリアーノ、第2子フランチェスコ2世はいずれもミラノ公となっている。

Beatrice dEste by Leonardo da Vinci and Giovanni Ambrogio de Predis

ベアトリーチェ・デステ (Beatrice d'Este ?) 1490
by Giovanni Ambrogio de Predis


元レオナルド・ダ・ヴィンチ、いまはジョヴァンニ・ アンブロージオ・デ・ プレディスといわれているベアトリーチェ・デステの肖像画(Ritratto di una dama)は、レオナルド・ダ・ヴィンチ派の作者不詳の作品でアンナ・スフォルツァ?と述べているものもある。

Leonardo School

アンナ・マリーア・スフォルツァ Anna Maria Sforza?
Leonardo School


アンブロジアーナ絵画館(Pinacoteca Ambrosiana)にあるんだけど・・・。もしもアンナ・マリア・スフォルツァ(Anna Maria Sforza)なら・・・。


左がラファエロの「一角獣を抱く貴婦人」(次女 アンナ・マリーア・スフォルツァ)のペンダント。右がレオナルドか誰だかがの「貴婦人の肖像画」(ベアトリーチェ・デステ)なんだけど、ペンダントが似ていない?

バルトロメオ・ヴェネト(Bartolomeo Veneto)の作品、クリストフォロ・ソラーリ(Cristoforo Solari)の描いたベアトリーチェ・デステ (Beatrice d'Este)は、ラファエロ(Raffaello Santi)の「一角獣を抱く貴婦人」に似ている気も・・・。



Jewelry Of Sforza 
Ruby Emerald tear-drop-shaped pearl


ラファエロの「一角獣を抱く貴婦人」(次女 アンナ・マリーア・スフォルツァ)のペンダントと誰だかがの「貴婦人の肖像画」(ベアトリーチェ・デステ)の首飾りは同じものに見えるが、「一角獣を抱く貴婦人」には小さなエメラルド(サファイアっぽい)がついている。

フランチェスコの妻でアンナの母が首飾りを身に着けて描かれている肖像画はない。だが娘のビアンカ・マリアには、アンナの首飾りのうえにさらにはっきりとわかる大きさのエメラルド(サファイアっぽい)がついている。


この2枚の作品はジョヴァンニ・アンブロージオ・デ・ プレディス(Giovanni Ambrogio de Predis )の作品。左がベアトリーチェ・デステ (Beatrice d'Este)、右が義姉になるビアンカ・マリーア・スフォルツァ(Bianca Maria Sforz)。二人とも同じ首飾り。そして髪飾りにも。

婚約時代にルドヴィーコがベアトリーチェへの贈り物として、「大きな真珠が黄金の花弁から顔をのぞかせる美しい首飾りで、そこかしこにまばゆい宝石がちりばめられている。美しいエメラルドとルビー、洋梨型の真珠も目を惹く」とあった。(引用:美しき姫君より)



アンナ・マリーア・スフォルツァ(Anna Maria Sforza)
ベアトリーチェ・デステ (Beatrice d'Este)


エメラルドってあるけどサファイアに見えるけど。この宝石の緑と赤と白はスフォルツァ家のカラーでもある。

この二人は、1491年1月に同時に結婚式を挙げた。アンナ・マリーア・スフォルツァはベアトリーチェ・デステのの弟アルフォンソ、ベアトリーチェ・デステはアンナ・マリーア・スフォルツァの叔父ルドヴィーコ・スフォルツァと。

この肖像画は結婚前の前年の作品。「一角獣を抱く貴婦人」は、1505-06年の作品。ジュリア・ファルネーゼ(Giulia Farnese)の肖像という説もあるが、スフォルツァの宝飾を身に付けているので、アンナ・マリーア・スフォルツァかと。

記事 スフォルツァ家の首飾り
TB ありがとうございます。

そしてなぜか二人とも1497年に亡くなっている。そうするとラファエロの作品は、アンナ・マリーア・スフォルツァの死後の作品ということになる。追悼?

Cristoforo Solari, Funerary statues of Ludovico il Moro and Beatrice d’Este, begun 1497

スフォルツァ家の祭壇画 「聖母子とスフォルツァ家の人々」
クリストフォロ・ソラーリ(Cristoforo Solari) ブレラ美術館所蔵


ルドヴィーコ・スフォルツァの4人が描かれている。ルドヴィーコ・スフォルツァ、ベアトリーチェ・デステ、第1子マッシミリアーノ、第2子フランチェスコ2世だ。

ここに描かれたベアトリーチェ・デステにもっとも似ていると思ったのがバルトロメオ・ヴェネト(Bartolomeo Veneto)の作品。

1500 ca. Beatrice dEste by Bartolomeo Veneto

ベアトリーチェ・デステ (Beatrice d'Este) 1500
by Bartolomeo Veneto


この作品も、死後の肖像画になる。第3子を死産しその後亡くなった。ベアトリーチェもアンナも暗殺されたのだろうか。偶然の早い死なのだろうか。


Massimiliano Sforza, c. 1513

Massimiliano Sforza
by Bartolomeo Veneto


Francesco II Sforza

Francesco II Sforza
by Bartolomeo Veneto


マッシミリアーノ、フランチェスコ2世も、フランチェスコ・スフォルツァの残したものをフランスに奪われてしまった。

フランソワ1世の時代。のちのカトリーヌ・ド・メディシスがアンリ2世に嫁ぐ。スフォルツァ家ではなくメディチ家と婚姻を結んだ。

ご存知のように、ルドヴィーコ・イル・モーロはレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci 1452-1519)の初期のパトロンでもある。


最後の晩餐(1495-98)は、ルドヴィーコ・イル・モーロの依頼。なんと中央のキリストがルドヴィーコ・イル・モーロ。ユダじゃないんだ。ここには従兄弟ロベルト・ダ・サンセヴェリーノの身内も描かれているらしい。



白貂を抱く貴婦人 la Dama con l'ermellino
チェチーリア・ガッレラーニ (Cecilia Gallerani)
by Leonardo da Vinci レオナルド・ダ・ヴィンチ


ルドヴィーコ・イル・モーロの愛人。1491年チェーザレ(Cesare)を産んだあと、ベルガミーノ伯ルドヴィーコ・ディ・ブランビッラと結婚。チェーザレ(Cesare)は1512年に21歳で亡くなり、ルドヴィーコ・ディ・ブランビッラは、それから数年ののちに死亡。

そのあとの愛人ルクレツィア・クリヴェッリは三人産んでいる。

La Belle Ferroniere

ミラノの貴婦人の肖像画 La Belle Ferroniere
ルクレツィア・クリヴェッリ(Lucrezia Crivelli)
by Leonardo da Vinci レオナルド・ダ・ヴィンチ



ラファエロの作品で有名な「 マッダレーナ・ドーニの肖像」と「アーニョロ・ドーニの肖像」だが、妻マッダレーナ・ドーニが身に着けている首飾りはスフォルツァ家の女性がつけるあの「大きな真珠が黄金の花弁から顔をのぞかせる美しい首飾りで、そこかしこにまばゆい宝石がちりばめられている。美しいエメラルドとルビー、洋梨型の真珠も目を惹く」ものだ。



気になるのは石原宏氏の解説に、「純潔の象徴である一角獣のついたブローチ」とある。それはこのペンダントヘッドを指すんだろうか?よく見るとそんなモチーフに見える。


さて、ルクレツィア・クリヴェッリの娘ボナは、このラファエロとの肖像画と縁がある。

Anna Maria Sforza

一角獣を抱く貴婦人 Ritratto di dama con liocorno
(Portrait de Madalena Strozzi マッダレーナ・ドーニのこと)
(Bona Sforza ボナ・スフォルツァ)
次女 アンナ・マリーア・スフォルツァ  Anna Maria Sforza ?
by Raffaello Santi ラファエロ


マッダレーナ・ドーニは、マッダレーナ・ストロッツィ(Maddalena Strozzi)とも、ルクレツィア・クリヴェッリ(Lucrezia Crivelli)とルドヴィーコ・スフォルツァ (Ludovico Sforza)の娘のボナ・スフォルツァ(Bona Sforza)がマッダレーナと呼ばれていたともいう。

注意 ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァの娘ボナ・スフォルツァではありません。

アーニョロ・ドーニ(Agnolo Doni)は、チェチーリア・ガッレラーニ (Cecilia Gallerani)とルドヴィーコ・ディ・ブランビッラ(Lodovico Bergamini)の息子とも言われている。

Gian Paolo Sforza

ジャン・パウロ・スフォルツァ(Gian Paolo Sforza)
by Bartolomeo Veneto


ルクレツィアの息子ジャン・パウロ・スフォルツァはガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの息子カルロ・スフォルツァとビアンカ・シモネッタの子イッポーリタ(Ippolita Sforza)とアレッサンドロ・ベンティヴォーリオ(Alessandro Bentivoglio)の娘で、ヴィオランテ・ベンティヴォーリオ(Violante Bentivoglio)と結婚。



ヴィオランテ・ベンティヴォーリオ(Violante Bentivoglio)


彼女の母イッポーリタ(Ippolita Sforza)の肖像画はアンナ・マリーア・スフォルツァかベアトリーチェ・デステ かわからない肖像画にそっくり。



ヴィオランテの母イッポーリタ・スフォルツァ
注:イッポーリタ・マリーア・スフォルツァではない


彼女もスフォルツァ家の宝石、首飾りを身に付けている。さてルクレツィアとルドヴィーコ・イル・モーロの三人目は娘。ちょっと可哀想な顔だちだ。父親似というところか。




イサベラ・スフォルツァ(Isabella Sforza)


ルドヴィーコ・イル・モーロの愛人だったチェチーリアとルドヴィーコ・ディ・ブランビッラの息子フランチェスコ(Francesco Carminati Bergamini )に嫁入りした。
 
そして三人目の愛人ベルナルディーナ・デ・コラデス(Bernardina de Corradis)との間にビアンカ・スフォルツァ。

レオナルド・ダ・ヴィンチの「美しき姫君」のモデル ビアンカ・スフォルツァ(Bianca Sforza)。


右のビアンカ (1482-1496)の肖像画はジョヴァンニ・アントニオ・ボルトラッフィオ(Giovanni Antonio Boltraffio)だった。「若い女性の肖像画 Portrait of a Young Woman」(ca. 1490.)にあたる。結婚前の肖像画?手袋を握っている。愛人ルクレツィアの娘イサベラの肖像画も同様だ。愛人の子には手袋を?なのか・・・。

アンブロジアーナ美術館にあるレオナルド・ダ・ヴィンチ作「音楽家の肖像 Ritoratto di musico」(left)は未完成。1490年頃に描かれたらしい。

1490年はガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの息子ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ(Gian Galeazzo Sforza)とイザベラ・ダラゴーナ(Isabella d'Aragona)の結婚の年。レオナルドはこの結婚式の演出を手がけた。だから未完成?

イル・モーロだとか、手に楽譜を持っているから聖歌楽隊長フランキーノ・ガッフリオと言われてきたが、この「音楽家の肖像 Ritoratto di musico」をガレアッツォ・サンセヴェリーノ(Galeazzo Sanseverino)の肖像画としてみると、彼が30歳の頃。



Ritratto di una Sforza Bella principessa
注:ビアンカ・マリーアと混同しないでください


ガレアッツォ・サンセヴェリーノ(Galeazzo Sanseverino 1460 - 1525)は、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの従兄弟ロベルト・ダ・サンセヴェリーノ(Roberto da Sanseverino)の息子であり、父はイル・モーロと手を結んでいたためが、息子とイル・モーロと愛人の子ビアンカを結婚させた。

ビアンカは結婚して数ヶ月後に亡くなった。イル・モーロが縁組させたアンナ・マリーア・スフォルツァ、ベアトリーチェ・デステ、そしてこのビアンカ・スフォルツァは、1496-97年の間に三人とも亡くなっている。

過去記事  美しき姫君 レオナルド・ダ・ヴィンチ

長くなったので、続きはまた別の日に。

イル・モーロと愛人(名前不明)の子にマッダレーナ・スフォルツァ(Maddalena Sforza)がいる。1480年に生まれ、1520年に亡くなった。その彼女の肖像画がラファエロの作品だった。一応モデルは不明とされている作品だけど。

だが、手に描かれた指輪は、マッダレーナ・ドーニ(Maddalena Doni)の肖像画に良く似ている。

Raffaello Sanzio Santi : The Mute Woman 1507, Oil on wood, 64 x 48 cm. Galleria Nazionale delle Marche

若い婦人の肖像(ラ・ムータ la muta) 1507年
マッダレーナ・スフォルツァ(Maddalena Sforza)
マルケ国立美術館所蔵(ウルビーノ)
by Raffaello Santi ラファエロ

La Donna Gravida

妊婦の肖像(ラ・グラーヴィダ La Gravida) 1505-06
マッダレーナ・スフォルツァ Maddalena Sforza
(マッダレーナ・ドーニ Maddalena Doni)
ピッティ美術館所蔵(フィレンツェ)
by Raffaello Santi ラファエロ



マッダレーナ・スフォルツァ Maddalena Sforza 1513


ラファエロは、ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ(Gian Galeazzo Sforza)と結婚したイザベラ・ダラゴーナ(Isabella d'Aragona)も描いているので、スフォルツァ家の肖像画を描いていてもおかしくない。ただ1509年からローマに長期滞在していた。

なによりマッダレーナ・ドーニって誰なんだろう。イタリアではマッダレーナ・ストロッツィ(Maddalena Strozzi)としている「ラ・グラーヴィダ La Gravida」だけど。

調べてみたけど、ストロッツィ家(Strozzi)に、生年に該当するマッダレーナっていないんだけどね。

The Strozzi family tree

もしかして庶子?
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ロレンツォ・デ・メディチとフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ
メディチ家 Medici / SAI

Lorenzo by Giorgio Vasari

Lorenzo by Giorgio Vasari Galleria degli Uffizi
ロレンツォ・デ・メディチ by ジョルジョ・ヴァザーリ


僕はどちらかというと享楽的なロレンツォ・デ・メディチ( Lorenzo de' Medici)の方が好きだ。狐の皮を被ったフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロは嫌いだ。

以前の記事で
フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの小書斎 ダンテの神曲 地獄編の子孫」を書いたが、その「小書斎」は、陰謀の密談に使用されたものだ。ロレンツォ・デ・メディチの暗殺計画もここで行われた。

断じて休息や読書、研究、交友の場として使っていたわけではない。

ヴォルテッラはメディチが後援するフィレンツェ共同事業体の収入源となっていたが、利益をフィレンツェと分け合うのを拒んだため、ロレンツォ・デ・メディチは、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロに反乱軍を一掃するよう依頼した。




Miniatore fiorentino del 1472, federico da montefeltro durante lassedio di volterra, biblioteca apostolica vaticana, poggio bracciolini, historia florentina, ms. urb lat 491 f. IV v

ポッジョ・ブラッチョリーニ(Poggio Bracciolini) 「フィレンツェ史」
ヴォルテッラの街とフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ




フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロはこの反乱軍に、無条件降伏を勝ち取り、フェデリーコの兵士たちは多くの女を犯し、多くの男を殺し、街を略奪した。そしてフェデリーコといえばヘブライ語写本の膨大なコレクションを没収し自分のコレクションに加えた。

人文主義で、名将で、寛容であり、貧窮の者を助け、古典文芸を愛読し、芸術家たちのよきパトロンという評判のフェデリーコであったが、人物像の本質とはこんなものである。

フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの小書斎 ダンテの神曲 地獄編の子孫」でも書いたが、イル・モーロが1488年にアーミン勲章(Order of the Ermine)を受勲したルドヴィーコ個人を表す私的意匠となったのは、オコジョは「断じて」(決して)白い毛を汚すことを嫌う。

まさに表面を汚すことを嫌い、暗く乾いた場所(小書斎)を好むフェデリーコに似合いの意匠だ。

ロレンツォ・デ・メディチは、フェデリーコの無条件降伏の功績を讃えるため祝典を開き、フィレンツェの市民権を与えられ、ヴォルテッラの象徴グリフィンを押さえつけたヘラクレスの像とエナメルで飾られた銀メッキの兜を贈る約束をしたという。

フェデリーコの「ウルビーノの小書斎」にある、ボッティチェッリのスケッチ(あるいはフランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ)からバッチョ・ポンテッリ( Baccio Pontelli )の作である羽目板の「武具甲冑」は、この約束された「銀メッキの兜」を思わせる。

「武具甲冑」は記事「フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの小書斎 ダンテの神曲 地獄編の子孫」からどうぞ。


果たしてその約束は実行されたのだろうか?そして反乱軍を一掃の約束された報酬を、ロレンツォはフェデリーコに渡したのだろうか?この数ヵ月後に兜と写本を受け取ったという。報酬は別にして。

そのロレンツォはフェデリーコの政治的手腕を賛辞している。

「彼は古代の名将たちと比較する値がある。美徳は列挙にいとまがなく、鋭い機知はあらゆる対象に向けられる。博学で教養ある人と交わり、多くの書物を読み、多くの議論を聞き、討論に加わり、自身が文人である。」

Tornabuoni Chapel, Santa Maria Novella, Florence

サンタ・マリア・ノベッラのトルナブオーニ礼拝堂
描かれているクリストフォロ・ランディーノ

記事 サンタ・マリア・ノヴェッラ トルナブオーニ礼拝堂のメディチ家
記事 サンドロ・ボッティチェリ サンタ・マリア・ノヴェッラ教会 「東方三博士の礼拝」の謎


メディチのプラトン・アカデミーの一人、クリストフォロ・ランディーノ(Christoforo Landino )は、「ロレンツォはフェデリーコの瞑想と行動の二側面を学んでいない」とほのめかしている。

そのクリストフォロ・ランディーノは、1468年にはカマルドリ修道院で論争された「至高の善」についての討論会の記録「カマルドリ論争(カマルドリ論談)」のなかで、まったくヴォルテッラの略奪には触れていないという。

なんとダンテの「神曲」で炎に焼かれているフェデリーコの祖先グイードに言及し、政治家の才覚とは、狡猾になり、みとがめられることなくひそやかに人を欺く方法を見つける能力だと述べているという。(マルチェロ・シモネッタ著 ロレンツォ・デ・メディチの暗殺より引用・要約)


Botticelli, Montefeltro with Landino from frontispiece, late 1460s, Vatican Library

Botticelli, Montefeltro with Landino from frontispiece,
late 1460s, Vatican Library
サンドロ・ボッティチェッリによる「カマルドリ論争(カマルドリ論談)」の口絵
左がフェデリーコ、右がランディーノ モンテフェルトロ家所有のもの


兜とともに贈られたのが、この「カマルドリ論争(カマルドリ論談)」の写本。

序文では、フェデリーコは「瞑想的生活と行動的生活の勝者であり、平和のための戦いの達人であり、神聖な思想との精神的接触を保ちつつ現実を把握している哲学者であり司令官である」と讃えられているらしい。(マルチェロ・シモネッタ著 ロレンツォ・デ・メディチの暗殺より引用・要約)

僕がもっとも不思議なのは、サンドロ・ボッティチェッリが反メディチのシクストゥス4世の依頼でフィレンツェを離れたときのことだ。

ロレンツォは、1481年に礼拝堂の壁画に、シクストゥス4世がわざわざボッティチェリを指名してきたことから、彼を送り出すのだけれど、ちょうど「プリマベーラ 春」の制作をはじめた頃ではないだろうか。

そうしてフィレンツェに戻ったボッティチェッリ。それは1482年のことだけれど、未完成の「プリマベーラ 春」を完成させる。

つまりジュリアーノは、ロレンツォの暗殺が目的の計画で亡くなったのが1478年のことで、この作品の最初の目的はわからないが、ボッティチェッリは知っているっていうこと。

1482年に未完成のこの作品を仕上げたボッティチェッリは、マルチェロ・シモネッタの説のように、マルティアヌス・カッペラ(マルティアヌス・カペラ)の「文献学とメルクリウスの結婚」から、メディチ家の不滅とメディチ家がパッツイ家の陰謀を忘れないという、密かな暗号を花に託したボッティチェッリの作品ではないかと。

僕の記事 
プリマヴェーラ La Primavera
一番最後にマルティアヌス・カッペラ(マルティアヌス・カペラ)の「文献学とメルクリウスの結婚」説を書いています。

楓の記事 
ボッティチェリ La Primavera 「プリマヴェーラ(春)」  ダンテの神曲の楽園説
ここでは僕の記事に共感して、マルチェロ・シモネッタの説による花言葉を追記してくれています。

楓の最初の記事
ボッティチェリ 至福の花々 (サンドロ・ボッティチェッリ)

ラ・ジォストラと春は、ボッティチェリの2点の作品の成立に必ず言及されているようですが、ボッティチェリの作品解釈に好都合な内容で、詩と絵画の同時代性を認めるものの、はたして「詩」をそのまま「絵画化」するだろうかという説にも頷けます。


僕は本当のボッティチェリのパトロンはロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・ディ・メディチ (Lorenzo di Pierfrancesco de' Medici)だと思っているのだが、プラトン・アカデミーでのロレンツォとボッティチェリの関係も深い。

記事 プラトン 「饗宴」 アプロディーテーの裏話

のちにメディチ家を追い込むサヴォナローラに傾倒するボッティチェリ。彼はこのメディチの歴史の主役クラスの一人だ。

そしてフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ。彼はなぜロレンツォ・デ・メディチへの陰謀を果たさなければならなかったのか。

しばらく僕はメディチとのおいかけっこを続ける。

記事 ロレンツォ・メディチとスフォルツァ家

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