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Karl Lagerfeld

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マクシミリアン・ロベスピエール
18世紀 フランス / SAI

今日、長いです。僕は全くの無知です。だから不思議だなって思ったことを調べて述べているだけです。

「革命における最大の人物で、史上もっとも偉大なりし人々の一人」と賞賛しているが、解説は「しかしながら」と続く。

こうした賛美は19世紀に多く、彼の業績を讃えたものではない。なぜなら彼の諸原理が理解していないものだからだとある。

この革命時代のロベスピエールという一個人の生き方に偉大だが、その業績の評価はどうだったのか。

それを僕は、ロベスピエールは独裁者ではなかったという前提での話でまとめています。「独裁権力を持った集団の第一人者」としてね。


ロベスピエール 当時の市民の日記から


独裁政治といわれているけど、彼が独裁者だったわけじゃない。ジャコバン派の山岳派の独裁政治。ロベスピエールは独断的だったわけ。

さて、alei から借りてきた本「フランス革命下の一市民の日記」に、このロベスピエールらの「陰謀」とした件が記されていた。

つまりロベスピエールが独裁者となる陰謀である。その陰謀と加担した者たちが、つまりロベスピエール一派になるんだけど逮捕されたんだ。

当時の市民の日記は、ホント貴重だね。

クーデタで打倒されるべき独裁者だったわけではなく、「ロベスピエールは独裁者になる陰謀を企て、その独裁者になる前にクーデタで打倒された」とこの日記は書いてある。

つまり当時の市民は恐怖政治は認めているが、彼が独裁者だとは思っていないんだ。



◆独裁者と独裁政治の定義◆

独裁者とは、wiki によると「一人の人物に権力が集中し、その者が国政を操っている状態を独裁制、そしてその権力が集中した人物のことを独裁者と呼ぶ」とあり、僕もこれはわかりやすいと思う。たとえばベニート・ムッソリーニ、アドルフ・ヒトラーがそうだよね。

独裁政治とは「特定の個人・党派・階級・身分などの少数者が国家権力を独占し、恣意的に行う政治」とある。

フランス革命時は1792年から1795年まで国民公会が立法機関として設置された。

ロベスピエール。彼がそのまま素直にルソーに傾倒し、「社会契約論」の国家理想を築いたらどうなっていたのだろう。ルソーの「社会契約論」は「人民の幸福と有徳な政治」だとされている。そのための革命はどうだったのか。


ロベスピエールの諸原理と法令

ロベスピエールはすべてを独裁的に決定したことは一度もない。

なぜなら、「自由のために望ましき多くの法令を採択することはできなかったが、わたしは自由を破壊すべき法令を否決させることができた。」とロベスピエールは述べているからだ。

そうそう、自分で法令を提示しなくても、ロベスピエールが望むものは採択できたから。

望まないものは徹底的に弾圧する。たとえば公安委員に指名された派遣議員ブリーズ。ロベスピエールの激昂に触れ、辞任することになる。

逆に重用したパリ市国民軍司令官フランソワ・アンリオはどうか。無能な男だ。だがロベスピエールには扱いやすかったのだろう。ロベスピエールが汚い仕事だと考えることを、自分の意思として働いてくれたからだと思う。このアンリオは選挙で司令官となったんだけど、裏工作はなかったのかな。

ロベスピエールは権力と職能をはっきり区別しようとしていた。

職権乱用を防ぐためである。人員を頻繁に入れ替え、権力の循環が人民のところで閉じることだという。国庫の管理は議会のみである。国民の公金を正しく使用することに注意することができるという。

このロベスピエールの職権乱用防止の原理は、汚職や横領が横行し、逮捕や処刑で財産没収したものは着服されることになり、挙句にはロベスピエールを失脚させることになる。


 
◆革命行為の正当化◆

ロベスピエールの固定観念には革命行為の正当化があげられる。そしてジャコバン派の山岳派(モンターニュ)への非難を防ぐことだ。

1791年1月2日
「真の敬神とは、万人の福祉のために社会を乱す者を罰することの中に存する。」

1793年12月25日
「革命政府は非常手段をとらねばならない。なぜなら戦時下にあるからだ。」

1794年2月5日
「恐怖によって自由の敵どもを圧服せよ。そうすれば諸君は共和国の建設者と呼ばれるに値するだろう。(略)平時における人民的な政府の原動力が徳とすれば革命時におけるそれは徳と恐怖である。徳なき恐怖は忌まわしく、恐怖なき徳は無力である。」

ロベスピエールは恐怖を実施するには、自己犠牲や私利私欲が必要だと言う。ところが同意した地方の反乱の鎮圧では思いがけない事態が起こる。(というかわからなきゃならないんじゃない?)

1793年8月
ジャン=ランベール・タリアンのヴァンデへの破壊命令
「戦争に関わった可能性のある者は、老若男女を問わず、容赦なく殲滅せよ」

1793年11月
ジョゼフ・フーシェ、コロー・デルボワらのリヨンの虐殺

フーシェの殺戮にはロベスピエールは批判を恐れていた。だからこそ過剰な殺戮は「体面」を汚したと激怒。ところがジャン=ランベール・タリアンのボルドーでの静粛に関しては手ぬるいと言うロベスピエール。

1793年9月-12月 
ポール・バラスとスタニスラ・フレロンのトゥーロンでの大虐殺

※国民公会軍は、ジャン・フランソワ・カルトー将軍が率いてトゥーロン攻囲戦を開始。ここでナポレオン・ボナパルトがオーギュスタン・ロベスピエール(ロベスピエールの弟)の推薦で、負傷者の後釜に納まる。この鎮圧にきたポール・バラスは、のちにナポレオンを副官にする。

また最後までロベスピエール派の手の及ばぬ分野があったのではなく、ロベスピエールは決然とした指導者ではなかったからだ。そして「独裁者」と思われることを極端に嫌った。

なぜなら彼の提唱する自由と平等に「独裁者」とされると困るからだ。「自由を侵すもの」であtってはならないのである。

だからこそロベスピエールにとって都合のよい法令はそのままである。「議会そのものが認めた諸原理」は、ロベスピエールが採択したものと変わらない。そして授用したという形式をとる。

「独裁者」にならぬように、「議会そのものが認めた諸原理」としておくことが都合がよいのだ。ロベスピエールの提議が受け入れられるのは稀だと言わせしめることができる。

そしてそもそも制度上、独裁者が君臨する余地はなかったことになるように。

「諸官庁や行政官などを監督する一般監察局についていえば、サン・ジュストであり、サン・ジュストが配属先に出向いているときだけ、ロベス・ピエールは代行をしていただけである。」

ほらね、こういう所見がでてくるようになる。

「1793年9月5日(施行は15日)の反革命容疑者法はこれはエベール派と極左化したパリ民衆の圧力によって成立したものである。」

「自由のために望ましき多くの法令を採択することはできなかったが、わたしは自由を破壊すべき法令を否決させることができた。」とロベスピエールは述べているでしょ。

つまりこの反革命容疑者法は自由を破壊すべき法令ではなかったので、ロベスピエールは否決しなかったのだ。

エベール派を弾圧したが、この法令を撤廃していないしね。


ロベスピエールの教唆扇動と買収

ロベスピエールは、「教唆」が巧い。暗示してそそのかすことを得意としている。そのためには機密費の利用、買収はかかさない。

ギロチンの処刑台には一般の民衆に混ざって暗躍する人々の喝采。民衆が熱望して恐怖政治がはじまったという状況じゃないよ。扇動されたんだ。

あるいはヴェルサイユ行進だって中央市場の主婦達っていうけど、女装した男達が扇動したんだ。そして各家をまわって女たちを引きずり出して、行進に加える。サド侯爵夫人がその手紙を書き残している。(オルレアン公の手引きと言われている)

これは何もジャコバン派モンテーニュ派に限ったことじゃないけどね。

1793年4月にはジャコバン派内部で、モンテーニュ派とジロンド派の対立が激しくなった。ロベスピエールは頻発している民衆デモを利用して人民を扇動するようサン・キュロットらを買収した。

1793年の4月18日、ジロンド派への陥れがはじまった。請願書の署名である。

記事 
フランス革命下の一市民の日記 1793年 4月

5月8日 ロベスピエールはジロンド派へサン=キュロットをもって革命軍隊を編成すべしと要求する。

5月25日、ロベスピエールは人民の蜂起を求める演説。

5月31日、アンリオ(司令官になるのはこのあと)が国民衛兵の指揮を執り、12人委員会の廃止とジロンド派の逮捕を求めた。人民蜂起の暴徒は国民公会へ侵入。

この日のギタールの日記には、「集合太鼓が鳴り、全市民は武装した。この突然ふって湧いた異常な事態の原因がわからなかったので、憶測が憶測を呼び、恐ろしい憶測が生まれた。」とある。(aleiの奴、ここの月とばしてる!ムカッ!)

あっ、いまごろ・・・
フランス革命下一市民の日記 ロベスピエール編 その1

6月1日 ジロンド派幹部の逮捕。アンリオは国民公会を包囲。そしてジロンド派29名を逮捕させた。


まだ、マラーの暗殺1ヶ月前だ。恐怖政治はマラーが推進したものだ。ジロンド派逮捕の翌日1793年6月2日から、ロベスピエール処刑の1794年7月28日までが年表では恐怖政治である。

つまりマラーではじまりロベスピエールで終わる。

記事 
パンテオンにおけるマラーとジャン=ジャック・ルソーとの大論争 by デュプライユ

前回の記事で、ペンネームで書かれた1794年のパンフレットを紹介した。「パンテオンにおけるマラーとジャン=ジャック・ルソーとの大論争」のことだ。

「これを聞いて、腹を立てたルソーは ”人々の間ではなく虎の間といってもらいたい。どうして30万人もの頭を君ははねたのか ”」

(テロリズム推進のことをなじってるんだね。)

「マラーは ”公共の自由と君自身が用意した革命の成功を確保するためには、それだけでも足りないくらいだ ”と言う」

(” 議会が「一般意志」に基づく公正な政治 ” の限りでは、抵抗権の合法性は認めないとルソーは言うが、「ルソーの血塗られた手」のロベスピエールは ” 議会の代表者の「一般意思」” と捉えている。)

「ルソーは ”革命について語ったとき、ただ一人の人間の生命でも必要とするなら、それを行うべきではないといわなかっただろうか?”という。」

(ルソーの「国民の最後の一人」をも保持すること、そうでなければ社会契約に従って国家形成が解消されてしまうってこと?)


この抜粋したところは、1794年の「パンテオンにおけるマラーとジャン=ジャック・ルソーとの大論争」だ。マラーの墓がまだパンテオンにある頃。

ジロンド派に関係があるとされているシャルロット・コルデーがマラーを暗殺したのが翌月7月13日だった。

記事 
フランス革命下の一市民の日記 1793年 7月

「革命における政府の基礎は徳と恐怖である。徳なくしては恐怖は忌まわしく、恐怖なくしては徳は無力である」とロベスピエールは言う。



 サドの言い分

だが、サド侯爵が面白いことを述べている。「徳もなくして、恐怖もなくして」と批判した。

これにはサド侯爵流の理由がある。

ロベスピエールは無心論者は貴族的という理由で断罪したわけなので、「美徳」を土台にした偶像を創り上げる。

あまりにもセンスなさ過ぎ。なんでもルソーに結びつけて猿芝居だ。これにはあのサド侯爵も切れた。

記事 ルソーの妄想・空想・瞑想

そして、革命を支持していたサド侯爵(一応ブルボン家の薄い血を持っている)は、一変してロベスピエールの提唱に反対を唱えだした。「徳の無い、恐怖政治」に。

記事 
サド侯爵 マルキ・ド・サド

さっそく請願書を書く。これがサドの逮捕になるわけだが、死刑はロベスピエールのほうが早かった。(サドは二度目の死刑宣告も免れた。)

ちなみにサドもルソーを対極化した論理の持ち主である。ロベスピエールと違って、サドはサドなりのルソーの引用をしている。



 最高存在の祭典

サドが切れた猿芝居が「最高存在の祭典」である。

このロベスピエールの祭典の7ヶ月前に「自由の祭典(理性の祭典)」をおこなったのがジャック・ルネ・エベールだ。ロベスピエールはこれを非キリスト教化論者として非難。革命暦を採用したことも民衆の感情を害すると言っていた。

最高存在の祭典について、はじめに言い出したのはポム・ラメリカンだ。1793年4月のことだ。

諸説やいろいろな解説がある。ひとつは革命に蜂起するべき民衆が、秩序を乱すことがないよう理性を絶対視し、ジャコバン派モンテーニュ派の「恐怖と徳」を理想化し、娯楽にうつつを抜かすことなく、情熱と愛国心の助成のために催されたとか。

wiki に「祭典のメインイベントは二百人もの人間の首を落とすギロチンであった。」とあるが、当時の市民の日記や文献をいくつか調べてもその事実はなかったようだ。

「クロニク・ド・パリ」(1792年11月9日)で、ミシュレは「なぜ多くの婦人たちがロベスピエールのあとについてゆくのが、時々不思議に思われる。だがその理由は革命がひとつの宗教であり、ロベスピエールがその宗教の一派を立てているからだ。彼は信徒を従えた司祭である。」

ロベスピエールは市民的な宗教を組織しようと考えた。道徳、訓育、教育、徳の発展である。「道徳上、政治上の大きな刺激を与える」とし、一方で「よこしまな人間でもたやすく偶像視したがる民衆の迷蒙を啓く」ことに努めた。

自由のために死した殉教者を祭ることからはじめた。革命暦の採用で廃止された安息日、聖人の日を国民的祝祭に変える。最高存在の下に、富者と貧者、強者と弱者を統一しようという平等主義的理想を強調した。

1794年6月8日のこの祭典は画家ダヴィットに一任され、二十人以上の芸術家たちが装飾を凝らす。祭典のためにつくられた賛歌をオペラ座団員と各地区の合唱団が歌う。無神論を擬した綿屑人形にロベスピエールが火をつけると、「知恵」の人形があらわれる。楽隊の行進。自由の凱旋車。議員達の行列。シャン・ド・マルスで一行は賛歌を歌い築山をめぐる。

この理性の礼拝。これ以降に誰も崇拝するものはいなかった。


国民公会、公安委員会、保安委員会、革命裁判所

国民公会は、1792年9月20日に開会。ジャコバン派内の山岳派(モンターニュ)のロベスピエールは、翌年3月にジロンド派を追放した。

ロベスピエールを支持したのは、エベール派とサン=キュロットである。

そもそも国民公会とはフランス革命時は1792年から1795年まで国民公会が立法機関として設置されたもの。

wikiによると
国民公会にはあらゆる階級の民衆が参加していたが、最も多数を占めたのは弁護士たちであった。立憲議会は75人、立法議会は183人の議員で構成され、代議員の定数はフランス本土の749人に加えて植民地の33人であったが、植民地からの参加は少数であった。

国民公会の議長は内規により2週間ごとに選出され、再選も許された。(略)国民公会は立法及び行政上の目的で委員会を設立し、次々と法令によってその権限を拡大し、運営した。これらの委員会の中でもっとも有名なものは公安委員会 (Comité de salut public)、保安委員会 (Comité de sûreté générale)、文部委員会 (Comité de l’instruction) だろう。


ふーん、法令はここで決まる。

1791年から1795年までの法令には次がある。

ル・シャプリエ法(1791年2月 ジャコバンの前身ブルトン・クラブ イザーク・ルネ・ギー・ル・シャプリエ)、離婚法(1792年) 、ここから国民公会→30万人動員法(1793年2月 モンターニュ派議員デュボワ=クランセ)、アマルガム法(1793年2月 モンターニュ派議員デュボワ=クランセの発案にサン=ジュストの支持) 、封建的特権の廃止(1793年7月)、総動員法(1793年8月)、最高価格令(1793年9月、ロベスピエールの公約)、反革命容疑者法(1793年9月 エベール派)、1793年の人権宣言、プレリアール22日法(ジャコバン派モンターニュ ジョルジュ・クートン)、ヴァントーズ法(1794年2月、ジャコバン派モンターニュ サン=ジュスト)

フランス革命の年表では、1793年4月からジャコバン派独裁政治としている。

alei の記事 フランス革命下一市民の日記
テルール(恐怖)のあと (1794年8月〜12月)
ジャコバン派独裁 恐怖政治編 (1794年1月〜7月)
ロベスピエール編 その1 (1792年12月〜1793年7月)
ロベスピエール編  その2 (1793年8月〜1793年12月)


 
◆国民公会

▽最高価格法について▽

1793年の5月に穀物の最高価格法が制定された。

「最高価格法」もそうだ。一時的にせよ、「最高価格法」が効力を発したのは事実だろうが、それをなし得たとは言わない。

ロベスピエールは過激派の食料輸送中の略奪を一時的には見逃していたというべきか。略奪物は安価で貧民に分配される。

1793年2月25日に食料品店略奪暴動が起きる。この件に関してロベスピエールの意見書は次のようなものだ。

パリの民衆は暴君こそ撃減すべきであって、食料品などを襲うべきではない。人間とあろうものが ” いやしい商品 ” のために騒動を起こすなどは考えただけでも憤ろしいのである。フランスの人民がつくりだしているのはパンだけではない。法律によって強化された自由こそ、彼らの賜物なのである。

アホか!「パンがなければブリオッシュを食べよ」じゃなく、「パンがなければ自由を口にせよ」と言っているのと同じだ。

人間は、とくにこの当時は、人はパンのみによって生きるのである。ロベスピエールが偉大になれなかった、指導者になれなかった理由はここにある。

議会の外で、民衆が虐げられている声を代弁することだとロベスピエールは考える。何を為すかは民衆の意志だという。それを ” 卑しい商品 ” としてどうするのさ?

あっ、いまごろ・・・alei くん
フランス革命下一市民の日記 ロベスピエール編 その1
この記事にギタールが食料品店略奪暴動の日記をトピックしてる。

wikiに
7月下旬から8月上旬にかけてパリなどの都市部では食糧危機が再燃していた。パリでは最左翼の極左勢力であるアンラージェ(過激派)がこれを盛んに煽って、極端な社会政策を提示してサン・キュロットの支持を集め、体制打倒を目指すような言動をはじめた。公安委員会は、派遣議員に近県から力ずくで徴用してパリに食糧を送るように厳命する一方、後述の機密費を利用して自治市会(パリ・コミューン)に大金を与え、物資の調達を命じた。これが功を奏して民衆の飢餓の不安が鎮まると、アンラージェへの支持は揺らぎ、その間隙に彼らを一斉に逮捕して粛清した。これら極端に過激な意見を取り除き、左右のバランスを取ろうというのは、ロベスピエールの指導によるものだった。


1793年、9月5日。武装したサン=キュロットが議場に乱入し、「パンとギロチン」を要求した。パリではパンがまた不足している。

穀物を退蔵している投機家を捕まえてギロチンにかければパンがもっと出回るだろうということだ。

この要求はロベスピエールの統制経済と恐怖政治を支援するものである。

aleiは当時生きていたセレスタン・ギタールの日記を記事にしている。1791年2月から1796年5月までの日記である。

1793年の9月制定の「最高価格法」については9月27日にほんの数行で、「価格の引き下げる必要のある全商品の定価表が示されることになろう。」だけだった。

1793年12月、「昨日から5ヶ月ぶりに店先にパンが並んだ。パン屋での行列がなくなった。この状態が長続きするように、とギタールの日記にある。皆が等しく一定量のパンを購入できる。これこそ悪徳商人をやりこめる方法だ。」とある。

そうして2ヵ月後。
翌年の2月の日記、「食料品が極度に乏しくなった。肉、バター、いんげん・・・・。」

こうして「最高価格法」で、最後の日記はギタールの破産で終わっている。たった2年のうちにアッシニア紙幣は紙くず同然になったからだ。


「最高価格法」、これでは生活苦にあえぐ人々には何の救いにもならないだろう。アッシニア紙幣の下落は、撤廃になる前から急激なものだった。

ただし「最高価格法」が撤廃されてから物価は高騰している。それは「ル・シャプリエ法」が撤廃されていないからだ。

ギタールは比較的裕福な市民だった。ところが、ロベスピエールらが「貧民のため」と叫んだ政策は「貧民」を救うどころか、裕福な市民さえ生活ができなくなった。

ただし、職人の生活は向上している。1791年のル・シャプリエ法によるものだ。つまり、同業者の団結を取り締まるものだが、これは自由競争を生み出した。だから価格はどんどん上がる。職人にとっては万々歳。

記事 
フランス革命下の一市民の日記 1791年の2月




 だから結局

サン=キュロットたちは最高価格法が小手工業者、小売商人にも適用され、彼らが給与生活者と同じであることに憤慨する。

一般市民の食料供給は諸商品が欠乏し、闇市場が生まれ、労働者は手がでない。期待は全くはずれてしまった。

市民にとって、これは厳しい経済統制のため「自由」はまったく存在しないのである。経済統制に違反して逮捕される人はうなぎ上りだが、インフレもパンの不足も解消しなかった。



▽プレリアール22日法▽

「反革命的行為とみなされる行為は、証拠がなくとも、陪審員の心証だけで有罪である。」って。量刑が有罪の場合は平等に死刑のみだ。

「反革命容疑者法」は、証拠がなくとも逮捕できるという法令。要はプレリアール22日法は、証拠がなくとも有罪にできるってことだ。

その「プレリアール22日法」制定の2ヶ月前。当時の一市民が書いていた日記がある。

まず1794年4月から、ギタールの日記の半分以上がギロチンの処刑者の氏名、年齢、身分に変わりだした。毎日というのは大袈裟だけれど、毎日に近いくらいに5日は15人、13日は18名(25名中7名釈放)、18日19名で、この18日以降はほぼ毎日。

要するに、処刑において「反革命的行為が発覚すれば、証拠がなくとも、陪審員の心証だけで有罪」としたのがジョルジュ・クートン。それをロベスピエールの支持を得て可決となった。

なぜロベスピエールの支持を得て可決なのか。彼に責任を負わせるわけではない。ただ、ジャコバン派のモンタニャール(山岳派)の筆頭が彼になっていた。

もしも、「証拠がなくとも、陪審員の心証だけで有罪である。」という法に問題があるなら、ロベスピエールは可決しなければよかったはず。


 
  恐怖の効果

「反革命容疑者法」では証拠がなくとも逮捕することができて、1年間と2ヶ月(1793年4月から94年6月10日)で、1251人が処刑された。

証拠がなくとも陪審員の心証で有罪(処刑)することができる「プレリアール22日法」では、47日間で1376名が犠牲となった。

(これを即座に、サン=ジュストが述べたルイ16世の囚人と処刑の数とを比較する必要は無いと思うが、革命裁判所のところで一応記しておいた。)

「反革命容疑者法」では逮捕することはできた。検挙率をあげるためである。反革命容疑で逮捕拘束された者は約50万人。そのうち処刑に間に合わずに獄中死も多い。こうした処刑以外の逮捕者の死の財産没収はどうなっていたのだろうか。

結局、サン=キュロットと密接なつながりがあったエベール派を弾圧したロベスピエールらは、サン=キュロットの支持を得られなかった。だからこそ、「味方」につけるべく、「ヴァントーズ法」を急ぎ、その財産没収のための「プレリアール22日法」を可決したのではないだろうか。

証拠もなしに処刑される。恐怖政治といわれる由縁だ。

革命裁判所 検察官 フーキエ=タンヴィルについて、僕は好意的な記事は書いていないが、この法令のもとに従っていたとすれば、密偵以外については、「良いも悪いも関係なく」法令に従ったという人物かもしれない。


 
▽ヴァントーズ法▽

1794年の2月、サン=ジュストが提案したヴァントーズ法。検挙や処刑で財産を没収したからこそ、反革命容疑者の財産を貧民に分配できたわけだ。

(ちなみにこのヴァントーズ法は、財産分配だけに限らない。国家による医師養成・管理制度なども含まれれている。しかしながら財産分配同様に、こちらでは十分な医師の確保ができない状態で制定しているんだ。)

パリの民衆は暴君こそ撃減すべきであって、食料品などを襲うべきではない。人間とあろうものが ” いやしい商品 ” のために騒動を起こすなどは考えただけでも憤ろしいのである。フランスの人民がつくりだしているのはパンだけではない。法律によって強化された自由こそ、彼らの賜物なのである。」(再度引用)

ジロンド派のブリッソーは「人々は国内の平静を望み、その平静は財産家には財産を、労働者には仕事を、貧しいものには日々のパンを、そして万人に自由の享受を保障する。」のだと僕は思う。

それを財産家から財産を没収し、貧しいものに財産を与えても、それはパンに変わるものじゃない。土地を与えられ、耕し、収穫するまでの期間。そして農具と人手。ただ土地にしがみつく貧しいものを増やし、パンはない。

貧農は土地を買うことよりも、むしろ一袋の食料をうることに切実な関心を寄せていたのだ。


 
 農業方法

ビュゾーは言う。
「金持ちを殺すことによって、明らかに貧しい人を殺すことになる。」

そうだよ、何にも土地の利用法や経営がわからない農民に与えても、その土地を耕し、収穫するまでのモノがないから、パンを与えたほうが良かったかも。

それで与えられた貧民はどうしたかって。革命前と大差のない小農民と零細農民が伝統的生産方法のまま革命は終わってしまった。

つまり根本は農業の方法だ。英国のアーサー・ヤングが、この革命下で見たフランスの農業方法(伝統的生産方法)を嘆いている。

記事 マリー・アントワネット フランス紀行から

彼は貧農に「土地」を与えることが最良と思っていた。

「貧困の克服策は、土地を無償配布することではなく、貧困な廃疾者に救済を、壮健な貧困者には仕事を確保することに在る。」

いつの間にか、ジロンド派のような弁を用いるロベスピエールだが、社会的デモクラシーという理想は彼には指導できなかった。なぜならこの法令の適用を受けるものはごくわずかに限られて、実際上の効果は無に等しい法令だからである。

つまり、貧農層の支持を確保しようという政治的意図しか見出せないのだ。結局学者のいないモンテーニュ派は、農業の伝統的生産に問題があること自体知らなかったというわけ。



 サン=ジュストの理想

サン=ジュスト
「税金のかからない一艇のスキ、一枚の畑、一軒のワラ家、卑劣な泥棒根性を持たない一家族。ここにこそ幸福がある。」

マルクスはこの小生産者の一般的解放に、「巨大な錯覚」だという。しかもすべての農民層を解放したわけではない。結果として、「小農民的所有の確認」ができるという一点だ。

再度ビュゾーの言葉を借りる。
「金持ちがまわりのすべての人々を活気付ける手段(資本)を奪うことによって、労働を欲している人民から、生活の手段(賃金)を奪うことになるからだ。」

実際の貧農はこのヴァントーズ法をどう見ていたか。もはやなんの信頼も得ずであった。なぜならこの法令は土地を獲得しようという貧農の要求と貧農に有利だとする売却方法は、結局限られたものにしか適用にならなかったのだ。

僕の疑問 「結局は政治宣伝なんじゃない?」
◇「プレリアール22日法」は、財産没収を急ぐ必要があった。
◇「ヴァントーズ法」は、下層市民の代表サン=キュロット離れをつなぐためのものだった。



◆革命裁判所

革命裁判所は本来、告発を検事(当時はフーキエ)、保安委員会やコミューンが陪審員を務める。だからロベスピエールが関与するところではないという所見がある。

ロベスピエールが逮捕令に署名した数は542名だ。たぶんほとんどが処刑されているだろう。積極的に関与したといわれているのが170名といわれているが、170名しかロベスピエールが処刑していないのさということではない。

1794年3月24日はジャック・ルネ・エベールをはじめ、エベール派の処刑だった。この日20名のうち18名が処刑。一人は出産まで延期されたクティノー将軍の妻。

そしてもう一人は、J.B.ラブローという誰も知らない医学生である。彼は処刑が免除された。なぜならロベスピエールの密偵だったからである。

革命裁判所の検事フーキエも密偵を使っていた。囚人同士の話を聞いて密告するという任務を与えられた者だ。

革命裁判所ではフーキエはエリザベート王女宛てのマリー・アントワネットの遺書をロベスピエールに渡している。ロベスピエールは、フーキエ、エベールに、マリー・アントワネットはなんとしても死刑であるという。

大量のギロチン処刑は、検事と革命裁判所といわれるが、ロベスピエールは関心のあることには関与し、関心のない人々の処刑はお任せした。財産没収しか頭になかったのではないか。


 
サン=ジュストは言う。
「人は革命的手段テルール(恐怖)について不平を言う。しかし、われわれはあらゆる政府に比べて穏和派だ。なぜならルイ16世のもとでは、40万人の囚人がおり、毎年1万5千人の密輸業者を絞首刑にし、3千人を車裂きの刑にした。パリにいる囚人は今日よりもはるかに多かった。」

教養ある人なら、はーんと思うでしょ。反革命容疑で逮捕拘束された者は約50万人だったでしょ!一応説明しておくけど、ルイ16世は絞首刑、車裂きの刑を非人道的と見なし、苦痛のないギロチンを人道的な処刑道具として普及させたんだよね。

そして、フランス革命が1791年7月14日からだとすると、その犠牲者(有罪、無罪関係なく)はどう? フランス革命にかかわる8月10日事件、9月虐殺、内乱の鎮圧や対外戦争を考えると酷いよね。もちろん人的被害を除かなければならないけど。

テルールでの革命の処刑とその他の革命の犠牲者とを区別して少ないとはどうだろう。

そして、恐怖政治の法令のように証拠もなしに逮捕したり、証拠もなしに有罪になった。無罪のままテルールの犠牲になったものはどれだけいるのかが大事じゃないの。



ロベスピエールは無罪だというものは解放したという。エリザベート王女も解放するべきと提案したそうだ。ロベスピエールは本来革命裁判所は管轄外だっていうのに。しかも民衆がテルールへの疑問、エリザベート王女の処刑に疑問を持ったからだよ。

だが、ロベスピエールは「プレリアール22日法」を可決した。

有罪の理由は非常に馬鹿馬鹿しいものが多かった。また有罪にするために様々な濡れ衣も用意した。王妃の母子相姦、エベールの盗みなど、ロベスピエールの教唆じゃないかと思うことも。

基本的に、きっと僕はロベスピエールが嫌いなんだな。なぜかって、正当性のための演説や法令、非難に対してはしかるべき手段で排除するが、あとで汚名や責任を一切に受けるような法令に関しては他人に任せている。そういうとこ。

僕の疑問
◇密偵を侵入。
◇権限がないのに542名の逮捕状に署名した。

保安委員会、革命裁判所は彼の管轄外とも言われているが、監獄での囚人たちの遺言はロベスピエールの手に渡っている。彼の処刑後の囚人の遺言は差出人へ渡っている。



◆公安委員会

さて、実際にロベスピエールは国民公会、公安委員会、保安委員会、革命裁判所 に通じていた。

というよりも公安委員会のメンバーの一人である。1793年9月25日から翌年7月27日までがロベスピエールの大公安委員会の正式にリーダーとなっている。

議会内でも外でも常に少数派だったが、その権力はむしろ脆弱とは言えないだろう。

「一人の人物に権力が集中し、その者が国政を操っている状態を独裁制、そしてその権力が集中した人物のことを独裁者と呼ぶ」のが独裁者。

「特定の個人・党派・階級・身分などの少数者が国家権力を独占し、恣意的に行う政治」を独裁政治。


 
この1793年9月から公安委員会(大公安委員会)のメンバー12名(11名)が恐怖政治そのものといっても過言ではないと思う。

軍事からラザール・カルノーとプリュール・ド・ラ・コートドールが加わる。海軍担当のアンドレ・ジャンボン・サン=タンドレ(ほとんど不在)。

そして右派にはジャン・バプティスト・ロベール・ランデがいる。

マリ=ジャン・エロー・ド・セシェルはダントン派と共に処刑され、ジャック=アレクシス・チュリオ・ド・ラ・ロジエールは辞任。

中央派はベルトラン・バレール・ド・ヴューザックが残る。

極左派にコロー・デルボワ(リヨン虐殺の一人、なぜかロベスピエール派として流刑になる。)、そしてジャック・ニコラ・ビョー=ヴァレンヌ。

そして公安委員会筆頭となったロベスピエールに、サン=ジュスト、ジョルジュ・クートン、ジャン・ポン・サン・タンドレ、ピエール=ルイ・プリュール・ド・ラ・マルヌ だが、サン=タンドレは財政専門となる。



ロベスピエールは軍隊、財政、行政当局を掌握していないという。

しかし10月10日のサン=ジュストの演説で、大臣、将軍、行政、司法のすべては公安委員会の監視下に置かれることになった。

「フランスの臨時政府は平和回復まで革命的たるべきこと」とサン=ジュストは述べた。そして主張したドクトリン (Doctrine 政治や外交あるいは軍事等における基本原則)が形を整える。フリメール14日の法令はその諸特徴をまとめたものだ。

内務、文部、農業、商業、建設、救貧、運輸、財政、戦争、海軍、軍需、外交の12部門が公安委員会の下に置かれた。

これは立法権と行政権は完全に一体化し、中央集権化したといえるでしょ。ここでロベスピエールは公安委員会、保安委員会、革命裁判所などの機関と通じるのだ

wikiによると。
ロベスピエールやサン=ジュストが、同じ公安委員のカルノーやコロー・デルボワ、ビヨー=ヴァレンヌらに「独裁者」との不当な中傷をうけても、彼らは酷く孤立してどこからも支援が得られなかった。もう一人の同派の委員クートンは満足に動けないほどすでに重病だった。ロベスピエールは影響下にある自治市会を動かし、国民衛兵隊を動員して武装蜂起することはできたが、そのような非合法なクーデターを彼は最後まで好まなかった。

いやいや、買収して蜂起やってますって。武装蜂起を呼びかけたロベスピエールの最後の指令所がカルナヴァレ博物館に残ってるし。

ただ最後のテルミドールのクーデターではコミューンの召集にもままらなかったというわけ。

さて、ロベスピエールは1793年12月25日に集団的独裁を正当化するための報告を行っている。



 ロベスピエールの正当化

「嵐が吹きすさび、革命の現段階はわれわれにもうひとつの課題を与えている。(略)革命政府は非常手段をとらねばならない。もしも公共の大義、すなわち人民の大義が存在しないならば、わたしはむしろ故山に帰臥するであろう。」

これは「恣意的なものではなく、公共の利害という至高の法に従うものである。従って周囲の事情によって修正されるものでもあり、革命政府が適法で在り得るのは人民が信頼を寄せている限りなのだ」ということだ。(マルク・ブゥロワゾ著より)

軍事に関してというよりも武装蜂起の準備は整えていた。ロベスピエールの側近のアンリオが国民衛兵の司令官に任命されている。フランス革命以前のラ・ファイエット将軍と同じ地位だ。考えられない。

1793年2月 モンターニュ派議員デュボワ=クランセの30万人動員法の提案が可決された。これに続いて「総動員」が可決される。

彼の権力は脆弱ではなかった。保安委員会は彼らの配下にあり、それが不和を招いたという事実がある。


 
▽不正の粛正について▽

鎮圧の殺戮、多くの検挙をロベスピエールは法令のもとに認めていた。

ジロンド派はモンターニュ派と違って現実社会に対する客観的な認識を持っていたと思う。哲学者、教育学者、経済学者が控え、新社会の青写真を持っていた。

そして人々が何を望んでいるのかを知っていた。

ジャック・ピエール・ブリッソー
「国内の平静を望み、その平静は財産家には財産を、労働者には仕事を、貧しいものには日々のパンを、そして万人に自由の享受を保障する。」

しかし食料不足、物価高騰に対処することができなかった。

ロベスピエール
「パリの民衆は暴君こそ撃減すべきであって、食料品などを襲うべきではない。人間とあろうものが ” いやしい商品 ” のために騒動を起こすなどは考えただけでも憤ろしいのである。フランスの人民がつくりだしているのはパンだけではない。法律によって強化された自由こそ、彼らの賜物なのである。」(再再引用)

だがロベスピエールの発言を考えると、ブリッソーの方がそれぞれの基本的利害を知っていると僕は考えている。

こうしてパリの国民衛兵とコミューン、サン=キュロットは先にも書いたように、ロベスピエールらの買収により蜂起したわけ。

ジロンド派の粛清は終わった。



エベール派、ジャック・ルゥの過激派は、サン=キュロットを扇動する反革命分子と見なしたとあるが、ロベスピエールはそのサン=キュロット離れを恐れている。

A・マティエによると、ロベスピエールが過激派の意図は反山岳派的、反ジャコバン的だと述べているのは正しい。しかし、そこから推して過激派が反革命的だとなすのは論理の飛躍である。」としている。

ジャック・ルネ・エベールは、1793年11月10日に、「死は永遠の眠り」だという「自由の祭典(理想の祭典)」をノートルダムで遂行した。ロベスピエールはこれを非キリスト教化論者として非難した。

エベールは常に何かをロベスピエールより先に演出する。そのたびにロベスピエールはエベールは悪徳、自分は美徳の論理を当てはめる。

大きな勘違いは貧民やサン=キュロットがどうしてほしいのかをロベスピエールの都合に当てはめたことだ。だからエベール派を粛清したことで、決定的にサン=キュロット、パリの貧困の大衆との乖離となった。

何度も引用するけど。
「パリの民衆は暴君こそ撃減すべきであって、食料品などを襲うべきではない。人間とあろうものが ” いやしい商品 ” のために騒動を起こすなどは考えただけでも憤ろしいのである。フランスの人民がつくりだしているのはパンだけではない。法律によって強化された自由こそ、彼らの賜物なのである。」(再々々引用)

こうしたロベスピエールの論理が彼らの革命にそぐわないのである。

それこそロベスピエールは、9月虐殺でのパリ市長ペティヨンとエベールの陰謀、革命裁判所の検事フーキエの策略などの件は問題にしていない。


 

1794年4月にロベスピエールは収賄の容疑でダントン及びカミーユ・デムーランらダントン派を逮捕し、ダントン派を粛清した。無罪に傾きかけたが、弁論を妨害されるなどの圧力がかかり、結局死刑の判決を受けた。

ダントンの汚職を許せなかった?インド会社事件での横領である。

wikiに「(ロベスピエールは)私生活は至って質素で、紳士的な服装や振る舞いは広く尊敬を集めた。しかし、あまりにも高潔で純粋すぎたために、ともすれば利や欲で動く人間を見極めることができなかったとも考えられる。」とある。

いやいや、ロベスピエールも買収してるでしょ。酷い中傷を教唆して人に言わせているでしょ。利や欲で動く人間をよく知っている。貧しい民衆、サン=キュロットたち。

ダントンやデムーラン、人間的に魅力あるよ。賄賂は受け取ったりしたけれど、そこには和平のための功労が実はあったんだ。

そして清廉じゃないけど卑劣で卑怯でもなかった。

Maximilien Robespierre by Claude-André Deseine

ロベスピエール


ロベスピエールはダントンやデムーランの家族には暖かい愛情を注いだ。あのデムーランの子を膝に抱いた時代もあった。

さて有名な名文句
「民衆よ、武器をもて」 デムーラン
「勇気が、常に勇気が、さらに勇気が必要なのだ」 ダントン

デムーランは革命的独裁と恐怖(テルール)との緩和を要求、経済統制にも反対していた。

さてロベスピエールはダントンの汚職を知っていた。だが、エベール派の非キリスト教化運動と戦うために、しばらくは黙認していた。彼らの協力が必要だったからだ。

ひと段落すると、ダントンを弾劾する「覚書」をサン=ジュストに渡した。(ロベスピエールは自分の手を汚したくない男なんだ。決して告発するのに忍びがたいわけじゃない。「覚書」があるからね。)

恐怖(テルール)と徳(ヴェルチェ)という正当化のためにロベスピエールは裁く。本当に裁かなければならい人物たちを残して。


 
バラス、ジョゼフ・フーシェ。バラスは、もともと悪徳の士で有名だったんだ。makiさんも書いているけど「テンプル塔の独房でルイ・シャルルを発見した」というのがこのバラス。「ルイ・シャルルのすり替え事件」の噂もバラスの発見からだと思う。

こうした人物たちを野放しにして、ジロンド派やエベール派、ダントン派を粛清したの失敗だ。彼らはバラスらの「悪徳」とは違う。本当の「悪徳」を粛清すべきだった。

▽テルミドールのクーデター▽

1794年7月27日、ジョゼフ・フーシェ、ジャン=ランベール・タリアンら、悪徳の先制攻撃にあい、あっけなく3ヶ月の独裁政治に幕を降ろす。

前日、「諸君がいま聞いた演説は私の最後の遺言である」と発言したとあるが、これは意訳かも。

「裏切り者を処罰し、保安委員会の各部局を更迭し、国民公会の至高の権威のもとに政府の統一を樹立する」

一体誰が有罪なのかを指摘していれば、このロベスピエールの弾劾は成功しただろうか。

僕は専門家たちや歴史家とは違う。どちらにせよ、長く続かない。経済政策も民衆の声もすべてズレているからだ。民衆も議員達も、もはやロベスピエールに見切りをつけていたと思う。

Act of Justice

正義の法律


28日 「おまえは独裁者だ」 もっともロベスピエールが恐れていた言葉である。

くだらない最高価格法ですでにサン=キュロットは見限った。民衆の人心離れている。コミューヌ(コミューン)の部隊も次第に散っていく。蜂起の指揮を取らなかったのではなく、ロベスピエールは人心が離れていたこをを知っていた。だから指揮を取れなかったのだと思う。

どちらにしてもコミューヌが召集し集合したのは少数だったからと解説しているものある。

そしてロベスピエールがダントンたちを一段落したところで粛清したように、ロベスピエールも一段落したところで失脚させられた。

ロベスピエールの4度目の粛清は、自分の粛清に変わっていた。

「暴君を倒せ」

ダントンがそうだったように、デムーランがそうだったように、ロベスピエールも発言は拒否された。

「共和国」そのものが終わってしまった。そう嘆く歴史家もいるかもしれないけど、思いがけずパリの人々は、この腐敗した議員たちを大歓迎した。誰もがロベスピエールにうんざりしていたのだから。


王殺しの歴史

英国 清教徒革命 チャールズ1世 斬首
フランスブルボン朝 アンリ4世暗殺
フランスブルボン朝 ルイ16世 革命で処刑

王政復古ではナポレオン1世が弑逆罪を設け、国民公会でルイ16世の死刑に賛成票を投じた議員を「王殺し」と認定した。保身のためだろうけどね。

フランスブルボン朝 ルイ16世 革命で処刑
記事 クレリーの日記 1 ルイ16世の遺書
記事 クレリーの日記 2 タンプル塔の無能な王

1792年にジロンド派はルイ16世にオーストリアとの宣戦を布告させる。その敗戦の責任をとってフイヤン派(ラファイエット、バルナーヴ、ラメット、シエイエス、バイイ)が1792年の6月に政権は戻るが7月に総辞職。

フイヤン派は反革命の王党派として逮捕、処刑、亡命するが、1795年から王政復古にかけて立憲君主派として復活。

ジロンド派は王政の廃止および共和国宣言を採択で革命を終わらせようとした。つまり「国王の処刑なし」で、共和制を主張した。

Execution of Louis XVI: Last Words of the King to His People, 1793

ルイ16世の処刑 1793年


ジャコバン派は「国王の処刑」をもって共和制を主張した。

ジャコバン派モンテーニュのサン=ジュストの処女演説、ロベスピエールの演説が決定した。

サン=ジュスト曰く
「王として統治すべきか、それとも死ぬかである」

ロベスピエール曰く
「祖国は存在すべきもの、ルイは死すべきものである」

オルレアン公の1票がルイ16世の処刑を決定したわけではないのはご存知だと思う。だが、オルレアン公は、このときジャコバン派モンテーニュの一人だった。

こうして投票になったわけだが、サン=ジュスト、ロベスピエールは国民投票に反対した。それは国民投票でルイ16世の処刑反対が明らかだったからだ。こうして即時の死刑執行を決定したのだ。


 ロベスピエールの失脚

ロベスピエールの処刑日には22名、ロベスピエールと21名の共謀者とある。この日、ルイ・シャルルの教育係だったあの靴屋のシモンも一緒に処刑された。不思議な話である。

楓の記事「
ブルボン朝の王妃 マリー・アントワネット さらば、王家よ

さて、ロベスピエールの処刑の翌日には71名。

独裁者というイメージで責任を問われたのは、結局はロベスピエールの自業自得であり、粛清というより自滅。


「清廉の人」という異名のとおり、悪徳を排除すべく恐怖政治を行ったのだろうか。否だ。

ロベスピエールは「徳」を主張するが、「徳」のない人物だった。

◇先導者にあらず扇動者。
◇横領はせず、買収はする。
◇監獄に密偵を利用する。
◇理想に不適格者を弾圧、除外、粛清する。
◇経済統制のための「パン」と「ギロチン」。
◇プレリアール22日法、ヴァントーズ法の可決。

僕は、「信頼を置いても信用せず」を信条にしている。だがロベスピエールは「人を信頼せず、法令を信用する」人だったのだと思う。

HONORE-GABRIEL RIQUETTI, COMTE DE MIRABEAU

ミラボー伯爵オノレ・ガブリエル・リケティ


ミラボーが生きていたらどうなっていただろう。ルイ16世も処刑されずにいたかも。そのミラボーはロベスピエールを「あいつは偉くなるかもな」と言っていたけど。

でも人に畏怖されて、信頼もされず、経済政策もダメ、人事の掌握もダメ、根回しも下手、情報収集も然り、協力者を得られないような粛清。政治家としては偉大などころか、ただ無差別に周囲へ猜疑心を起こさせ、身の危険さえ感じさせていただけ。

僕はサドの小説のタイトルだけが大好きだ。「悪徳の栄え」、「美徳の不幸」である。

ルソーも、ルソーの血塗られた手ともよばれたロベスピエールも、「美徳の不幸」の代表者だ。おもいがけす、悪徳の士と呼ばれていたバラスはまさに「悪徳の栄え」であり、失脚するにしても、郊外で優雅な一生を終えている。

教訓にしよう。

ちなみにジョルジュ・サンドは「革命における最大の人物で、史上もっとも偉大なりし人々の一人」と賞賛しているが、解説は「しかしながら」と続く。

彼の諸原理ではなく、彼の革命での生き方に対してだという。ロベスピエールの評価としてではないという。

ロベスピエールは処刑のとき36歳だった。顎に負傷したままコンシルジュリに移されている。自殺を図ったそうだ。残念な人だ。ルイ16世や王妃マリー・アントワネットとはそこが違う。偶然で王位についたとロベスピエールは言うが、死の覚悟が違うなァ。

Antoine Jean Gros Napoleon Bonaparte

ナポレオン1世


コンシルジュリでは王妃の監獄の隣である。

1794年7月28日 午後5時。市民から罵声が飛ぶ。6万人の首を撥ねる極悪人のロベスピエールと言われている。ギタールの日記には7月31日から処刑された名前が無くなっている。

ルイ16世、王妃の処刑、ブルボン家の人間たちにおさまらなかった。日記は1794年3月から処刑が多くなってきて、毎日の処刑は4ヶ月目のロベスピエールの死刑で終わったとみえる。

ただし1795年まではモンターニュ派の残党は逮捕され処刑されている。

そして「清廉の士」がいなくなると、たちまちに640軒のダンスホールが開店する。タリラン夫人、レカミエ夫人のサロンが開かれ社交生活が再び始まる。僕ね「清廉の士」というのは彼の諸原理への揶揄と私生活の賛美だと思ってるんだ。決して政治上じゃないって。

フランス革命。
「ミラボーとともに革命を生み、ナポレオンとともに革命を葬った。」

王妃が裏切ったオーストリア戦争は1792年。1815年の敗北とフランス革命の時代をあわせて200万人が死んだ。

「紀行フランス革命200年」は「1789年の総人口は2千600万人。200万の命は大変な損失だ。おかげでそれまで覇権国だったフランスはイギリスにとって換わられた。まことに革命は高くつく。」と結んでいる。



エティエンヌ・デュモン(スイスの翻訳、編集者)
私は二度ロベスピエールと話しあったことがある。陰気で、決して正面を見ず、絶えず辛そうに目を瞬く。ジュネーヴに関する事件で彼は私に解明を求めてきた。なかなか話を切り出さない彼に催促をした。すると自分は臆病で、演壇に上がるときには震え、話すときには何を話すのかわけがわからなくなると打ち明けた。



参考そして引用
wiki
フランス革命200年 河野健二
ロベスピエール マルク・ブゥロワゾォ 遅塚忠躬
紀行フランス革命200年 本城靖久・渡部雄吉
フランス革命下の一市民の日記 セレスタン・ギタール
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フランス革命 革命裁判所 検察官 フーキエ=タンヴィル
18世紀 フランス / SAI

Antoine Quentin Fouquier de Tinville

アントワーヌ・フーキエ=タンヴィル
(1746年6月12日 - 1795年5月7日)


アントワーヌ・フーキエ=タンヴィルはあのエベール、ダントン、親戚のカミーユ・デムーランそして彼の同志だったロベスピエールにも死刑を求刑した。

被拘禁者に起訴状が渡されると48時間以内に裁判が行われる。言っておくがマリー・アントワネットだけが予め死刑が決まっていたわけではない。

この時期のすべての囚人である。「瓦のように首が落ちている」というフーキエの呵責の無い求刑。就任の頃と打って変わる。

1794年7月28日、ロベルピエールが処刑されたとき、次は自分と思っていたのだろうか。同年8月10日には革命裁判所の組織替えを行い、役人や判事は免職。そしてフーキエは被害者の遺族に告発されて逮捕された。

諸兄
小生は私宅にたくさんの資料を預かっている。弁護人制度廃止以前に小生が弁護することになっていた被告人たちから委ねられたもので、それを裁判に光なげかけることで、おそらくは無実の罪の人たちを救いうるものである。

それらを規定に合ったものにし、検察官の手に委ねることができるようにしていただきたい。これは私が荷おろししなければならない神聖なものである。

自分みずからのことを考えるべき時が到来したにしても、諸兄の正義を請願するのみである。はやければはやいほどありがたい。小生にどんな運命が待っているにせよ。


多くの囚人は弁護士に依頼するよりも、むしろ直接フーキエに接しようとしたとある。フーキエの机の上には様々な文章が寄せられた。無罪を証明するもの、密告や告発、遺族からの手紙など。

ロベスピエールの処刑後の1794年8月以降、最後の手紙は名宛人に届くようになった。この革命裁判所の元検察官アントワーヌ・フーキエ=タンヴィル以外の手紙は。

仕方が無い。「150通の最後の手紙」は、フーキエやロベスピエール、あとは心ない役人の手で書類つづりにそのままになっていたのだから。

一通目の手紙(かなり長い手紙を要約)
わたしはまもなく裁判にかけらるのを待たねばならない。ほかの時期なら恐れることはないであろう。この遺憾な状況の幻想に耽ることは無駄だ。

憎むべき連中の、陰謀家の、血に飢えた虎の、事実ではない怒号と憎らしい叫び声は、自由を侵害する徒党の戦術に他ならない。

わたしはそれで死んでいく。この国に奉仕し、政府の願望と従ってきたために。しかし残されるおまえと可哀想な子供たちはどうなるだろう。これが最後、さよならを言う。

(略)

わたしの自由にできる唯一の愛情のしるし、それはほんの少々の髪。大事に取っておいてくれ。


そして死刑判決後の手紙

二通目の手紙(かなり短い手紙を要約)
わたしは常に法にしたがってきた。ロベスピエール、サン=ジュストのような人間でもない私は、実に四回も逮捕されそうになった。

わたしは祖国のために死んでいく。咎められることなく。わたしは満足だ。のちに人は、私の無実を知るようになるだろう。


どうなんだろう。フーキエにはマリー・アントワネットのような小説も漫画もファンもこの世にいないと思うし。

Queen At Tribunal:1st October 1793: Queen Marie Antoinette of France is questioned at the Revolutionary Tribunal, Paris. Present are the revolutionary politicians Antoine Quentin Fouquier-Tinville (1747 - 1795), Jacques Rene Hebert, (1755 - 1794), and Ch

マリー・アントワネットの裁判 
左の机にいるのがフーキエ 手前がエベール


フーキエらはマリー・アントワネットの本来の罪状だけで戦えばよかった。母子相姦は、彼が無実であろうがなかろうが、裁判の格を下げてしまっている。

マリー・アントワネットの裁判は、「オーストリアへの戦争回避における賠償金による財政圧迫」、「国王の拒否権行使と逃亡」、「諸外国の干渉による王政の復活」、「亡命貴族との共謀」、「牢獄での脱出計画」である。

この公判自体おかしなところはなかった。

賠償金は、1785年、ヨーゼフ2世がオランダと事を構えたとき、フランスはオランダと同盟を結んでいるため、アントワネットの祖国オーストリアと戦うことになる。

アントワネットはフランスの機密を兄ヨーゼフ2世へ通報し、国議の決定を覆した張本人。そのためオーストリアにオランダは賠償金を支払うことになり、フランスも負担したのだ。もはやフランス王妃の誇りはない。数年後に国庫が空になる。

僕はこのひとつだけでも大罪だと思う。フランス王妃の背任罪、俗に言えば「売国奴」だからだ。

拒否権は、聖職者の基本的民事法がわかりやすいと思うので取り上げると、聖職者は国家公務員と同じ給与制になるという法案で、これに賛成し宣誓した者を宣誓司祭、しなかったものを非宣誓司祭とした。

アントワネットは最後の遺書でも宣誓司祭に告解を拒否している。ルイ16世に関しては非宣誓司祭に告解をしている。

記事
クレリーの日記 1 ルイ16世の遺書
記事 クレリーの日記 2 タンプル塔の無能な王
記事 ブルボン朝の王妃 マリー・アントワネット さらば、王家よ

そして逃亡は王妃の愛人フェルセンが絡んだ「ヴァレンヌの逃亡」である。

記事 
惨殺されたフェルセンの最期

諸外国による干渉は、「ピルニッツア宣言」だが、「ブラウンシュヴァイクの宣言」を例にあげたい。

アントワネットが、オーストリアの駐仏大使メルシー=アルジェントー伯爵を介して、ジャコバン派が退くように懇願とaleiの記事にある。ようはフランス国民が戦争に駆り立てられ、国民の犠牲を厭わないという王妃である。

記事 
フランス革命下の一市民の日記 1792年 8月

ところが母子相姦がでてきちゃた。来るはずの証拠が届かない。バカだなって思う。母子相姦は、裁判で本当にあったのだろうか。エリザベート王女のありもしない美談と同じように誰かがくっつけた気もするけど。

記事
エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランス

マリー・アントワネットは狡賢く、小賢しい。すべて巧くすり抜けた。思慮の浅い王妃が。それとも俗に言う「臨機応変に対応できる、頭の良い女性」なのか?嘘を言う女性がどこに頭の良い女性となるのだろうか。人としてあり得ない所見だと思う。

これは、革命裁判所でもっとも信頼がおける弁護士ショーヴォー=ラガルド氏の尽力の結果だし。

記事
フランス革命下の一市民の日記 1793年 10月

Antoine Quentin Fouquier de Tinville

フーキエ=タンヴィル


牢獄の脱出に関してはルイ・シャルルが外部との情報交換をしていたことを認め署名している。マリー・テレーズも回想録に書いているらしい。カーネーション事件もそうだ。母子相姦は僕はわからない。

ルイ・シャルル(ルイ17世)に関しては

記事
マリー・アントワネット 記事紹介
記事 フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月
記事 マリー・アントワネットの子供達 18世紀の子供達
記事 ブルボン朝の王妃 マリー・アントワネット さらば、王家よ

さて、たしかなことはわからないが、フーキエがもっとも恐れられていた時代1793年7月から94年12月までフォルス監獄(ラ フォルス)にいたと思われる革命裁判所の密偵がいる。

あの9月虐殺ランバル公妃がいた監獄に、密偵フェリエール=ソーヴブフ伯爵がいたんだ。

フェリエール=ソーヴブフは、もともとルイ16世の密偵だとも思われていた人物らしいが、真偽はわからない。

告発したジョリは警察理事官でエベール派のダンジェの愛人。ダンジェは囚人たちを飢えさせ反乱を起こさせようとしている。

弁護士ドランヴィルは静かな施療監獄へ移す約束を法外な値段で交渉しているなど。この弁護士はそういう傾向が顕著である。

フェリエール=ソーヴブフが告発した断頭台に送った人々は、アンドレ・シェニエ、カトリーヌ・ド・モナコ公妃。シャトレ公爵および夫人、サン= ポール伯爵、ルイ・コント、エプレメニル夫人、フルーレ将軍、エナン公、オサン伯爵夫人、警察理事官ダンジェ、スーレ、フロワデュール。貴族あるいはブルジョワの人間達。

150通の最後の手紙」では「彼らの財産が共和国の手におちるのに関心があったのだろう」と述べている。

こうした貴族出身の密偵たちの中で、クールレ・ド・プロはレ・ザングレーズ監獄で、ル・プレシ監獄で暗躍した。

クールレは、ル・プレシ監獄で陰謀をでっちあげることを任された。だがうまく行かなかった。具体的証拠がなく審理が難しくなったから。

クールレの告発は、被拘禁者ジャクマンが要求した。フーキエ=タンヴィルは急いで片付けた。クールエの処刑を。

「クールエが今日裁判所に召喚されるとは思わなかった。昨日、彼は私に監獄の陰謀のことを語り、ル・プレシでの陰謀があえてまた繰り返されることはないだろう。最初、彼は嫌疑をかけられ、二度目は証人として呼ばれた。革命裁判所は、あの9月2日(1792年の9月虐殺)とはもうまるで違う。」

作家のランジュアクは、フーキエがクールエの裁判を急いだことを、次のように述べる。

「クールエに関してあんなに急いだのは、ただただ、彼が秘密を暴露するのを、彼が当時行われていた策動を暴いてしまうのを、防ぐためだったのだ。」

本書は「その反革命的な罪が献身的な行為を保証し、そのうえまずいとなればいつでも消せるようなそういう人間たちを雇っていたということだ。」と結んでいる。

フランス国民を戦争に駆り立て、戦時の機密を敵国に漏らし、フランス国民のの戦死者の犠牲が増え、その人の命で革命軍を威嚇する陰謀を企てた王妃マリー・アントワネット。同じ人間だったんだ、フーキエも。

これはやはり誰も無実とは認めないだろう。

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フランス革命下の囚人たち
18世紀 フランス / SAI

アントワネットとルイ16世が処刑された当時は、パリには50ほどの監獄があったらしい。

「メゾン・ドサンテ」は比較的裕福な被拘禁者。重要な監獄は、「ラベイ」 ぺ、「レ・マドロネット」、「ポール=リーヴル」、「ラ・フォルス」、「サント=ペラジー」、「レ・ザングレーズ」、「ピセトル」、「ル・リュクサンブール」、「ル・プレシ」、「サン=ラザール」、「レ・カルム」らしい。

さらに監獄は、その時々で異なる呼称があったという。

「メゾン・ド・デタンション」、「メゾン・ド・フォルス」、「メゾン・ドサンテ」など。

身分の高いもの、財産のあるものは良い部屋、財産のないものは、排泄物と悪臭、狭い不潔な部屋だった。

だが、このような状態で結ばれた人と人との絆は深い誠実にあふれている。そして陰謀、スパイの告白。今回はちょっといい話を多くトピックした。

これは、断頭台で処刑された人の最愛の人、家族などにあてた最後の手紙がメインの本。

オリヴィェ・ブラン、小宮正弘訳 「150通の最後の手紙」だ。


ラベイ監獄 (要約)

ラベイ監獄に投獄されていたカルブの手紙(要約)
「大切な義務を果たすため、私はすぐにいなくなるという無念をお伝えするとともに、お考えがどうであろうと、わたしのことを憶えておいてほしいと思い、部屋の年長と思われるあなたにしたためます。

裁かれぬかぎり潔白は被告人同士。名前も存じ上げない方々にそこを出るとき持たせてくださったお金を妹からお返しします。

そしてラベイ監獄の看守フランソワ、ムージ両氏、番人すべて、そしてラ・ヴァクリー夫人に、わたしにようしてくださったことの感謝を示すようお願いするつもりです。

職務上の厳しさのなかに不幸な囚人たちへの気遣い。ヴィエ、ジョルジュの両氏に、わたしの心から愛する妹を慰めてくれるようお願いします。」


レ・マドロネット監獄(要約)


看守のヴォベルトラン夫妻は囚人に好感を持たれていた。その妻は、当時流行の「題韻詩」の対象になった

あなたの微笑みのなかい
善良さは(ポンテ)

私達に描くこのうえない優しい
母を(メール)

あなたの夫を
人情味は(リユマニテ)

また、描く、このうえなくよき
父に(ペール)

わたしたちはみば
幸福となろう(ウルー)

もし、わたしたちを彼の
兄弟としている(フレール)

法が、のぞむならば
寛大な(ジエネルー)

彼の処置が和らげるようにと、我々の
不幸(ミゼール)


警察理事官 マリノ(要約)


傍若無人なマリノは囚人たちから厚い信頼を寄せられていた。陶磁器商人で絵も書くマリノ。コワタンの記憶から身なりにも構わずやってきたあの日のことを思い出した。

いく人かが請願を頼もうとしていたが、マリノは目もくれず裕福な囚人へ近づいた。その囚人に貧乏な囚人たちを示す。

マリノは言う。

「おまえ、あれは俺んとこの人間だ。
おまえが面倒みなくちゃならんぞ。」
「Oui (ウイ)」

そして裕福な囚人の頬を軽くたたいて
「そうだ、おまえはみんなの食事代を払うんだ。
わかったか? 部屋代も経費も葡萄酒代もな。」
「Oui (ウイ)」

「おい、奴が出費をみんなつける。わかったか?」
貧乏な囚人達 「Oui (ウイ)」

「うん、おまえ持っている。奴らは持っていない。
払うのはおまえだ。」
「Oui (ウイ)」

「奴らににんにくつきのもも肉と
じゃがいもと、サラダをやるんだ」
「Oui (ウイ)」

また軽く頬をたたいて、上機嫌ででていくマリノの姿をコワタンは思い出していた。


レ・マドロネット監獄(僕の妙薬)


ここには貴族に判事、元大臣に、王党派の作家、そしてテアトル=フランセの俳優たちが投獄されていた。

俳優フルーリーが語る毎夜の出来事。

行列、そして戦いの行進
暗い回廊、青白い顔、揺れ動く影
これらの鬼火は交わり、離れ、一列になる
ぼんやりした光は
権力に笑わなかった顔になげかけている

人の手にする光が
顔を濃褐色に映し出し
目だけ浮き出て喜劇的な効果をかもしだす
闇と光の、行進と休止の、そして大声と沈黙
腕のいい画家のとらえるべき効果をかもしだす

看守の妻はレンブラントのモデルにふさわしいと言う。

小さいヴォーベルトランの笑いは
むしろカロ風のグロテスク
とくに手燭を持った善良なダルレイが
クローヌの元法官氏の髭かフリルを
焦がしてしまったあのときだろうか。
元法官氏は左か右か、
足の出し方がまるでわからなかったので。



ポール=リーヴル監獄(要約)


まだ深刻に考えていなかった囚人たち。

サロンのように感動をあらわし芝居がかった態度で、短い詩、軽い韻文で会話をする。

「セギュール子爵は大勢の仲間達に取り囲まれギロチンを待っていた。牢番たちを風刺歌の種にし、ご婦人達へはキザなお世辞。」

だがある日笑いが消えた。

マルゼルブとその家族が断頭台へと断つ。
マレイシー夫人のお産で苦しむ叫び声。
ラ・シャボーシエール夫人のうめき声。
コワニー伯爵の召使の自殺。


ル・リュクサンブール監獄(トピック)

コワタンの話

「ラ・ヴァレット夫人」
ラ・ヴァレット夫人の夫は庭でボール遊びに興じていた。

「旦那を呼べ」
「でも、なぜ。」
「とにかく呼べ」
「でも、なぜ。」
「裁判所にいくんだ。」

夫人は床にぱったり倒れた。

全筋は「150通の手紙」を読んでみて。


一行トピック 150通の最後の手紙

「こどもたち、ごらん、わたくしの髪ですよ。」

「君を千たびも、また千たびも抱く。最後の瞬間まで。」

「涙をふいて。いえ、涙を流してもいいから苦しまないで。」

「人生の最後までみんなを愛していた。」

「あなた、勇気をだして!」

「さようなら。あなたを悲しませるのがとてもつらい。」

「大丈夫。勇気を持って死んでいくよ。」

彼ら、彼女達の最後の手紙は、実名とその人の生涯がトピックされている。マリー・アントワネット、ロラン夫人などの有名な手紙もある。マリー・アントワネットの最後の手紙を超えた149通かも。

アントワネットの最後の手紙は↓
エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランス 「マリー・テレーズの回想」

オランプ・ドゥ・グージュの飾らない、まるで方言のような書き方。真実の声が聴こえる手紙が多かった。
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ヴォルテールの遺骸
18世紀 フランス / SAI
フランスの哲学者で作家のヴォルテール(Voltaire, 1694 - 1778)の本名は、フランソワ=マリー・アルエ (François-Marie Arouet)。

Arouet を AROVETLI と置き換えたあとに、さらにアナグラム(入れ替え)で Voltaire としたとも言われているけど、なんかわざとらしい。

このヴォルテールはご存知のようにルイ15世の時代には、公妾のポンパドゥール夫人がパトロンとなる。

ところで、alei が読んでいる「フランス革命下の一市民の日記」は、1791年からはじまるが、とっくに死んだヴォルテールの遺骸を運ぶ出来事を、セルスタン・ギタールが書いている。

alei の 記事
フランス革命下の一市民の日記 1791年の7月

wikiには、「パリの教会が埋葬を拒否したためスイス国境近くに葬られたが、フランス革命中の1791年、ジロンド派の影響によって、パリのパンテオンに移された。」とある。

それ以上の記述がない、残念。だけどフランス革命下の一市民の日記からその様子がよくわかる。

要は、キリスト教の迷信を紛糾していたから、ヴォルテールはパリに埋葬されなかった。

過去記事
マルク=アントワーヌ・カラス事件  L'Affaire Calas
哲学書簡 ヴォルテールとクエーカー教徒
ヴォルテールの哲学辞典
哲学辞典 by ヴォルテール Dictionnaire philosophique

1778年2月10日のパリ。

20年近くもパリに足を踏み入れていなかったヴォルテールは、この日パリに来た。(83歳のヴォルテールのパリ訪問に市民は狂喜したそうだが、本当だろうか。)


Voltaire in his night shirt, putting on his trousers while dictating to his secretary, in his home in Fernet (today Fernet-Voltaire), France. Oil on paper glued on cardboard

ナイトシャツ、ナイト・キャップ、トラウザーを身につけるヴォルテール
口述筆記をする秘書(フェルネーの屋敷にて) by ジャン・フーバー



観光に行くと、27番地の建物の壁にブループラーク(著名人の屋敷)が掛かっている。「7arr  Quai Voltaire」に「27」という番地プレート。

その横のプレートに、「VOLTAIRE NE A 21 NOVEMBRE EST MORT DANS CETTE MAISON LE 30 MAI 1778 (ヴォルテールは1694年11月21日、パリに生まれ、1778年5月30日にこの家で亡くなった)」とある。

そのプレートが示した死の翌日である5月31日、6頭立ての馬車がその屋敷を全速力で走り去った。

いつもの愛用のガウンに、あのへんてこなナイト・キャップをつけ、防腐処理をされたヴォルテールを乗せて。

教会は公認の墓地にヴォルテールを埋葬させないよう目を光らせている。だか彼はもはや死臭を漂わせている。

死んだヴォルテールは下男とともに埋葬先を求めていたのだ。もっとも教会紛糾していたヴォルテールだから、これっぽちも「埋葬禁止令」など気にしていないことだったろう。埋葬されるのを期待していたら、図々しいにもほどがある。(笑)

モーツァルトが父レオポルトに、同年の7月3日付けの手紙で、「無神論者のペテン師のヴォルテールが犬畜生のようにくたばりました。当然の報いです。」と書いている。1778年にパリに戻ったヴォルテールに会えなかったモーツァルトの因縁深い手紙だ。

Voltaire at 70. Engraving from 1843 edition of his Philosophical Dictionary.

70歳のヴォルテール


ジュネーヴ郊外のフランス領フェルネー。そこではあのフェルセンとも会っている。モーツァルトとは違い、二度目にして会うことができた。

「カールがすっかり落ちた鬘に、着古した真っ赤なジレは、祖父の時代の代物のように、ボタンホールは刺繍で縁どられている。一昔前の短いキュロットをはき、毛糸の靴下を引っ張りあげる。皺だらけの顔に皮肉たっぷりの目つき。すべては見事に調和して、彼の雰囲気をつくりあげていた。」

記事 惨殺されたフェルセンの最期

これだけ凄まじいへんてこりんを見たら、もう認めるしかないと思う。arei の記事で使用しているヴォルテールは気ちがいオヤジのよう。

若いときは天邪鬼、老人になって偏屈といういい例だ。

さてヴォルテールはなぜジュネーヴ郊外のフランス領フェルネーに住んでいるのか、彼の本を読んだ人なら、もうわかっていると思うけど、当時のフランス国家に対して「やばい」評論を出版して、また逮捕されそうになる。

それで愛人の城館に住まい、そのあとフリードリッヒ2世の元へ行き、それからジュネーヴに来て、1760年頃にフェルネーに移った。

Voltaire with Frederick the Great of Prussia

フリードリッヒ2世とヴォルテール


フランスのルイ16世も百科全書を持っていたというけれど、啓蒙思想については英国絶賛のモンテスキューを読んでいた。ルイ16世にとってヴォルテールは、古いフランスの危険人物だったに違いない。

そのヴォルテールの遺骸が、わざわざルイ16世が逮捕されたときに、ミラボーと同じ偉人の墓に入ることになった。

フランスのすべてを紛糾したヴォルテールを偉人の墓に入れることは、ルイ16世の時代までのフランスを葬ったことになる。さらにフランス革命の非キリスト教化の象徴でもある。

さて1778年の5月31日にもどる。

死臭をまきちらしながら、愛用のガウンとへんてこなナイト・キャップを身につけた死人ヴォルテールを運んだ馬車は、セリエールの大修道院の教会まで行ったんだ。

大変だったね。

でも1791年、とうとうパリに返り咲いた。これも復活とでも言おうかな。

「復活というものはこの世の中で最も単純な事柄である。一度生まれるも二度生まれるも別に不思議ではない。この世はすべて復活である。」  by  ヴォルテール(バビロンの王女から)

「一度埋葬されるも二度埋葬されるも別に不思議なことではない。」でしょ。
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惨殺されたフェルセンの最期
18世紀 フランス / SAI
僕はこのフェルセンの記事を書くハメになったことにひどく傷ついている。

なぜなら人の志を腐らせる人物だから。

Axel Fersen, Carl Fredrik von Breda, Lofstad Castle, Sweden-2

フェルセン 嫌いなタイプ


ハンス・アクセル・フォン・フェルセン(Hans Axel von Fersen 1755−1810)はご承知のとおりフランス王妃マリー・アントワネットの愛人といわれた人物。
 
マリー・アントワネットは男を破滅させるファム・ファタルだ。サロメのように。 そして今風に言えば、フェルセンは「残念な男」だろう。

彼の伝記、アントワネットの伝記の美談。小説によっても様々だ。だが、事実をひろえばある程度のことが見えてこないだろうか。

記事 マリー・アントワネットが愛したもの

楓がマリー・アントワネットの記事で書いていたが、それほど王妃に献身的に仕えるなら王妃としての立場をたしなめることができただろうと。

なるほどね。フェルセンは若かったからね。

王妃にいろんな役職をまわしてもらい、驚くほどの報酬を与えられるのは愛情のしるしと思っていたんだね。そして賭博でいっしょに借金を増やすのが、楽しい年頃だったんだ。

Another state portrait of Marie Antoinette, by Élisabeth Vigée-Lebrun (1788)

マリー・アントワネット ルブラン夫人


ギ・ブルトンは澁澤龍彦のように「裏話」が好きな人物で、たとえばエミール・ポーマンの「マリ=アントワネットとアクセル・フェルセン」などからトピックして、読み物にする。

そのギ・ブルマンのフェルセン像は、盲目的。フェルセンが妹に送る王妃崇拝の手紙。グスタフ3世の寵臣としてよりも、アントワネットの寵臣に成り下がった人物像を描いている。

そういうものを騎士道精神と思うのは勘違いだ。

1835年のフランスの作家バルザックの「谷間の百合」にもあるが、ノブレス・オブリージュという犠牲的精神。 そして英国のアーサー王の騎士たち。

「騎士の十戒」にあるのは戦闘能力、勇気、高潔さ、忠誠心、寛大さ、信念、儀礼、崇高さだ。そして宮廷的愛。

騎士の叙任(ランスロットとグィネヴィア王妃) 1901 Edmund Blair Leighton

騎士の叙任(ランスロットとグィネヴィア)


ランスロットとアーサー王の妃グィネヴィアとの不義の恋。

そもそもスウェーデン人のフェルセンに、こうしたフランスや英国の伝統をたとえるのが間違っている。

フェルセンはグスタフ3世とフランス宮廷の在り方を倣うための視察の同行をしていたわけだ。

つまりフェルセンは宮廷的愛や騎士道の本質を知らずにして、自己陶酔していただけなんだよ。
 
さて、1789年の10月5日に議会代表ムーニエと武装した女性のデモがヴェルサイユに到着した。ヴェルサイユ行進、10月行進といわれるものであるが、封建的特権廃止宣言と人権宣言への署名せを迫る。

Déclaration des droits de lhomme et du citoyen de 1789

1789年 人間と市民の権利の宣言


このときルイ16世はようやく承認し、署名をする。

その翌日の6日の朝。雨と空腹のデモ隊は宮殿に押し入ろうとするところをフランス近衛兵が発砲。宮殿になだれこむ。

このとき、フェルセンは王妃と寝室にいたのを司祭タレーランが目撃した。
 
悪の天才シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール伯爵(Charles-Maurice de Talleyrand-Périgord)のこと?

彼はこの目撃をどのような陰謀に利用したのかわからない。1790年に国民議会議長に選出されるとともに司教職を辞職(あるいは破門)し、1792年に外交使節としてイギリスに派遣されるがそのまま亡命。1796年帰国する悪運のよい人。

Talleyrand en 1828, par Ary Scheffer

タレーラン


wiki に、「王妃となったマリー・アントワネットに悪い噂が立つのを恐れ、スウェーデンに帰国する。」とあったが、革命後グスタフ3世 (スウェーデン王) の帰国で同行したフェルセンは戻っただけじゃない?

でもね、「王妃となったマリー・アントワネットに悪い噂が立つ」ような振る舞いをしているんだけど。

もうひとつ、フェルセンが行ったヴァレンヌ事件を裏で手引きしたのもグスタフ3世だったとある。

これはそうでなければならないでしょ。


ヴァレンヌ事件

 
フェルセンが自ら資産を投げうちヴァレンヌ逃亡に協力するとはあり得ないから。 wikiに総額120億円以上を出資したとあるけど、若造のフェルセンがそれだけの資産を持っていたと思えない。

亡命に使用したベルリン馬車、旅券などの資金を提供したのはフェルセンの愛人エレオノール・シュリヴァン(エレノア・サリヴァン)。なぜかその愛人クロフォード卿も費用をだした。彼は自分のパスポートもルイ16世にわたした。(フェルセンはエレオノールにプロポーズするが、彼女はクロフォードを選んだ。賢い選択だ。)

記事 フランス革命下の一市民の日記 1791年の6月

このエレオノーラ、ド・コルフ男爵夫人を名乗って旅支度の調達をしたのである。逃亡ではトゥルゼール公爵夫人が名乗った。

ボンディまで来るとフェルセンはルイ16世から随行を断られたという。僕的にはグスタフ3世への配慮かと思った。

1791年5月にグスタフはドイツのアーヘンに行く。6月14日から、同地でルイ16世一行の逃亡を手配したフェルセンからの報告を待っていたのだ。

だがアントワネットの旅支度の遅れ、なぜかフェルセンの遠回りがあり、予定より大幅に遅れてしまった。

La fuga de Varennes

ヴァレンヌの逃亡


当初、ルイ16世は逃亡するつもりはなかった。「フランスの国王たるものは逃亡しない。」といったそうだ。だが、亡命する理由ができた。

ひとつはミラボーが死んだこと。
そして聖職者民事基本法。

ルイ16世の目指す立憲君主制の道が険しいものになったというわけ。

記事 フランス革命下の一市民の日記 1791年の4月

このフランスに友好的なグスタフ3世は翌年暗殺される。オペラ座の仮面舞踏会。占い師が予言したとおりに。そしてその日に届いた暗殺予告の手紙を胸に収めて。 これは国王と貴族の対立である。黒幕にフレデリック・アクセル・フォン・フェルセン侯爵の名があがった。フェルセンの父である。

グスタフはフランスのヴォルテールと親交を結んだ啓蒙専制君主だった。
 
ちなみにフェルセンもヴォルテールと一度会っている。

記事 ヴォルテールの遺骸

フェルセンは自国の王グスタフも救えず、さらに不幸なアントワネットを支えようと手を差し出すが、そのたびにアントワネットは民衆から憎悪の対象になっていくだけ。

ちなみに同日ベルギーに逃亡した王弟のプロヴァンス伯爵夫妻は、無事に到達。


ピルニッツ宣言のその後

1792年8月10日に起こった「8月10日事件」。

ピルニッツ宣言でフランスの革命に干渉がはいる。プロイセン軍が国境を越えた。

フランス軍の敗因はアントワネットが敵である兄のレオポルト2世と内通しているからだと、この日テュイルリー宮殿を攻撃した。

同日、国民議会はルイ16世の王権停止を可決。タンプル塔の幽閉となった。

Louis XVI at the Tour du Temple Jean Francois Garneray

記事 クレリーの日記 2 タンプル塔の無能な王


そして9月虐殺。

この年、フェルセン伯爵宛にブルトゥイユ男爵から手紙が来る。

デュムーリエ籠絡に向けて、文人アントアンヌ・リヴァロールの妹フランソワーズを使い、反革命側のデュムーリエ将軍がルイ十六世をタンプル獄から救出せしめるという案が書かれていた。

救出した国王一家をプロイセン軍に引き渡す。フェルセンはどうしたのか。デュムーリエ将軍が寝返ったときの謝礼をサント‐フォワ(Saint-Foy)に任せたと返事をした。

しかし9月20日のヴァルミーの戦いではデュムーリエ将軍の指揮でプロイセン軍を退却に追い込んだ。

Bataille de Valmy

ヴァルミーの戦い


"Von hier und heute geht eine neue Epoche der Weltgeschichte aus, und ihr könnt sagen, ihr seid dabei gewesen."

この戦いでプロイセン側にいた文豪ゲーテが言った言葉がある。

「ここから、この日から、世界の歴史の新しい時代が始まる」

たいした因縁だが、ゲーテはアントワネットの輿入れで、「皇女引渡しの儀」がおこなわれる館に忍び込み、ある不吉なタペストリーを発見している。

記事 王太子妃 マリー・アントワネット 4つの不吉
このデュムーリエ籠絡の介入は、結局アントワネットが敵と内通しているという結果をもたらした。

幾度も失敗を繰り返す男フェルセン。立派な過負荷な人物だ。すべてを破滅させる王妃、そして全てを不幸にするフェルセン。「親切なのか、意地悪なのか」というところ。

This State Portrait by Élisabeth Vigée-Lebrun (1787) of Marie Antoinette and her children Marie Thérèse, Louis Charles (on her lap), and Louis Joseph, was meant to help her reputation by depicting her as a mother and in simple, yet stately attire

マリー・アントワネットと子供達  ヴィジェ=ルブラン
僕はこの作品は嫌いです。


フェルセンはアントワネットが捕らわれていたときに、幾度となく救出の作戦を立てたというのに、二人の子供達が残っていたにも関わらず、そのまま放置しているフェルセン。

フェルセンの息子と囁かれたルイ=シャルルは、シモン夫妻が行ってしまってから2年間一人だった。僕的には、そういう時期が一番救出しやすいのではないかとおもったが。

マリー・テレーズがタンプル塔を出てから、フェルセンは、彼女のために王一家の遺品などを回収して渡したとされている。

もし、彼女が王族に嫁がなくとも、フェルセンはそうしていたのだろうか。

フェルセンは、グスタフ3世暗殺後、グスタフ4世に仕えている。不思議だな。グスタフ3世の暗殺に父親が黒幕と囁かれているのに。

Charles XIII of Sweden

カール13世


外交顧問、元帥となっていくが、グスタフ4世失脚後、カール13世の時代を経て、カール14世ヨハンの時代となった。

このカール14世は落馬しあっけなく死んでしまう。心臓麻痺と発表された。

カール13世は毒殺の疑惑をフェルセンにむける。

なぜなんだろう。

彼がスウェーデン王になり、フランスの民衆に復讐するために、国民を戦争に引きずり込もうとしているという噂がたっていたという。

Gustav III (1746-1792), King of Sweden, in coronation-robes 1777 Nationalmuseum

グスタフ3世 (スウェーデン王)


wikiをひろい読みすると、「グスタフ3世の暗殺後、グスタフ4世がフランスへの政策を引き継いだため、フランス革命期に暗躍したフェルセンを復権させたのだ。」というようなことが書かれていた。

暗躍?

だからだ。今度はマリー・アントワネットの娘、マリー・テレーズのもとにちょくちょく顔を出す。

さらに、グスタフ3世は、「フランス革命が勃発すると、フェルセンをスパイとして送り込み、反革命十字軍を提唱した」とある。

フェルセンは社交界やアントワネット、そしてマリー・テレーズとの美談は有名だが、功績はひとつも残されていない。

記事 マリー・アントワネットの娘 マリー・テレーズ王女の回想記録 1

グスタフ3世の目的は、フランスの王制を存続できるようにし、同盟国としての関係を保ち、スウェーデンがヨーロッパの大国としての地位を確保できる状態にしたかったのではないか。

そのために王妃を籠絡しろとは命じなかったと思うが、マリー・アントワネットはすべての情報をフェルセンに話す関係となった。

結局、ヴァレンヌの逃亡からちょうど19年目の6月20日に、フェルセンは撲殺された。

カール13世は疑惑をもちつつ、わざわざフェルセンをカール・アウグスト皇太子(カール14世)葬儀の責任者とした。


 惨殺されたフェルセンの最期

グスタフ3世同様にフェルセンも死の脅迫状を手にしていた。

六頭の白馬を率いたフェルセン。群集は投石をはじめた。肩章が飛び、服は破れ、血が流れ出す。フェルセンといっしょにいた副官は近衛連隊に制圧を命じたが、拒否された。

副官はフェルセンを連れ出すが、隠れた建物に侵入され、こん棒でフェルセンは殴打される。頭部、胸部、腹部は踏みつけられ、いや踏み砕かれた。

破けた服はひきちぎられ、裸のまま排水溝の中に転がっていた。

ここまではランバル公妃の虐殺といっしょだが、彼女のように首を切られたり、内臓を出されたり、心臓を剣に掲げられたりはなかったようだ。

Count Axel von Fersen  Murdered

アクセル・フォン・フェルセン伯爵の殺害


フェルセン撲殺で逮捕された人数700名。有罪で終身刑となったのは2名だけだった。死の直接的な原因をつくったオットー・ヨハン。

美談として6月20日をマリー・アントワネットとフェルセンを結びつけるか。

あるいは、マリー・アントワネットもフェルセンも、人望なく民衆に殺される理由があった人物として、神が裁いた結果なのか。

それを判断するのは、個人の価値観である。

日本は裁判員制度に変わった。何をもって有罪とするのか。事実と真実の違いをどう捉えるのだろうか。個人の価値観じゃない問題。


 余談

カーネーションの陰謀では、残念ながらフェルセンは関わっていない。

「ルージュヴィルの騎士」と呼ばれたこの男はアレクサンドル・ゴンス。彼は貴族らしい名を考えた。アレクサンドル・ゴンス・ドゥ・ルージュヴィル。

6月20日から8月10日まで王妃をかくまったことがあるという この男はその愛と王妃に理解してもらおうと思っていたらしい。

デュ・ティルール夫人、ド・ミショス(警察理事官 ミショニーのことだろうか)と計り、カーネーションに手紙をはさみ、アントワネットに脱出の計画を知らせた。
 
この男ゴンス、失敗するとすかさず逃げたらしい。デュマの「メゾン・ルージュの騎士」という小説はこの陰謀の話。事実を脚色するとこんなに変わる。ぜひ読んでみて。
 
この男とフェルセン、なんか似た結果だよね。

もうひとつ。

あのマラーを殺害したシャルロット・コルデー。彼女が断頭台の露となったとき、彼女を愛していたアダム・リュックスは、自分もギロチンの侮辱を与えてもらおうと、立憲会議を侮辱する文章を発表した。

こうしてアダム・リュックスは、最愛の女性のために死んでいった。

フェルセンともゴンスとも違うリュックスの愛情だ。

愛情というか信頼というか、そういうものがフェルセンからあんまり見えない。僕の個人的感想だけどね。

フランスのルイ16世、アントワネット、スウェーデンの国王たち。フェルセンが仕えた国王や王妃は、なんだかみんな残念な結果になった。

ちなみにカール13世の王妃ヘトヴィヒ・エリーザベトの愛人の一人がフェルセン。


 スウェーデンの名門 フェルセン家  ハンス・アクセル

王室顧問であるフレデリック・アクセル・フォン・フェルセン侯爵(1719−1794)の子であるハンス・アクセル。父フレデリック・アクセルは、ハット党(ハッタナ党)の党首であったと伝えられている。

フレドリク1世(Fredrik I, 1676 - 1751)の時代、スウェーデンの国政は、有力貴族のメッソナ党(ナイトキャップの意味)とハッタナ党(ツバキ帽の意味)が交互に政権に就いた。以下はハッタナ党をハット党とする。

メッソナ党はロシア派、ハット党はフランス派。スウェーデン史では、この時代を「自由の時代」と呼んでいた。

アドルフ・フレドリク(Adolf Fredrik, 1710 - 1771)は、ハント党に決められていたスウェーデン国王。

Steninge slott

フェルセン伯爵家のステーニンゲ城

フェルセンの遺体が置かれた


この頃の政権に関しては父フェルセンの公式な活躍は残されていない。

このあとの時代がアドルフ・フレドリクの息子グスタフ3世になる。

この頃の政権はメッソナ党だった。グスタフ3世は、「無血革命」で名声を得た。「自由の時代」がそこで終わったのだ。

グスタフ3世は1770年にグランド・ツアーでパリに行く。

ハンス・アクセルは1773年、グランド・ツアーでパリのルイ15世と謁見する。彼のグランド・ツアーは1770年にはじまり、デンマーク、ドイツ、イタリア、フランス、ロンドンで帰国する。

ハンス・アクセルは1774年の仮面舞踏会でアントワネットとはじめて出会ったとされる。同年のうちにロンドンへ。

John Trumbull 「Surrender of Lord Cornwallis」 die französischen Offiziere; rechts: die amerikanischen Offiziere;

ヨークタウンにおけるコーンウォリス卿の降伏
(1781年 ヨークタウンの戦いで) by ジョン・トランブル 
ここにフェルセンが描かれている


その後アメリカ独立戦争(1776年 - 1783年)に、1780年に参加、帰国後はフランスの王室スウェーデン人連隊長で1785年からパリ在住。

1794年に父フェルセンが亡くなるが、しばらく知らなかったらしい。この人の葬儀は壮大なるものだったという。

1794年2月に父フェルセンは亡くなる。5月に訃報を知る。相続はハンス・アクセル。ストックフォルム、パリ、フィンランドにあるいくつかの屋敷、複数所有していた鉱山、東インド会社の権利などを相続した。

ラシュタット会議(全面的なフランス革命戦争終結を目指した国際会議)がはじまったが、講和会議の議長として、フェルセンが調停を行う。1797年にナポレオン・ボナパルトが儀礼的な出席をした際に、フェルセンはカペー未亡人(アントワネット)との逸話を聞かれたとある。

もうひとつは、ナポレオンが「カペー未亡人と不義をはたらいていたものと議論する必要はない」という話し。

Antoine Jean Gros Napoleon Bonaparte

ナポレオン


さて、この会議も「最終的に和睦に至らなかった」とwiki にあった

1799年、ウプサラ大学の学長を務めた。目的は過激派学生の抑制だった。

こうしてある程度の地位に就きながら、人望は集められなかったようだ。

果たして、ハンス・アクセルの無残な死の葬儀はあったのだろうか。

当日中に撲殺された遺体はステーニンゲ城(Steninge Slott)に置かれたらしい。

カール14世の嫌疑が晴れたとして、翌年の4月12日、リッダホルム教会で盛大な葬儀は行われた。

Porträtt föreställande Sophie Piper, målning av Carl Fredrik von Breda

フェルセンの妹 ソフィア・パイパー


妹のソフィア・パイパー(1757–1816) は同年に記念碑を建てた。彼女もカール14世の死で、嫌疑がかかっていたらしい。彼女はバクスホルム城に身柄を預けられたようだ。

彼女はグスタフ3世の弟フレドリク・アドルフ (エステルイェートランド公)に求婚された一人。父や兄らは王家からの失寵をこうむることを恐れ、反対。

宮廷の侍従アドルフ・ラディック・パイパーと結婚。死別すると恋人のエバート・ウィルヘルム・タウベの元に行くが、死別しストックホルムに戻る。

フェルセンとの手紙のやりとりが有名だが、王妃アントワネットの崇拝者で、アントワネットの髪を一房持っているという。

弟のファビアン・ラインホルト・フェルセン(1762–1818) の記録は見ていない。
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クレリーの日記 1 ルイ16世の遺書
18世紀 フランス / SAI
事実と真実は違う。

事実をもとに美談や伝説がつくられる。

僕は、何ゆえ日本の女性がアントワネット一家に関心があるのかがわからない。漫画的、小説的な発想に自己投影しているのだろうか?

そこで僕はルイ16世の従僕クレリーの美談的な日記から、美談を剥いで事実だけを見て、そして真実はどういうものかを検討してみた。

クレリーの日記から見つけたのは、ルイ16世も マリー・アントワネットもタンプル塔で口にするのは「罪なく死ぬ」という言葉だ。

Grandsons of Louis XV and their wives circa 1775

ルイ15世の下にルイ16世とマリー・アントワネット


マリー・アントワネットにとって(たぶんルイ16世にも)、「死刑とは犯罪人にとってのみ恥ずべきもの」だった。

彼らは死刑になるとは考えていなかったのだろう。たぶん。

タンプル塔に幽閉されてから、彼らは徐々に「死刑」を身近に感じ始めたのだろうと思う。

「死刑とは犯罪人にとってのみ恥ずべきもの」と考えるマリー・アントワネットには耐え難い屈辱だ。それを回避する手段はもう残っていないとしたら、どういう扱いで死刑になるか・・・だ。

名誉あるもの。

Monuments funéraires à la mémoire (et non leurs tombeaux) de Louis XVI et de Marie-Antoinette réalisés par Edme Gaulle et Pierre Petitot en 1830, basilique Saint-Denis


つまり無実、そして殉教しかない。

さて、結果は殉教の王(roi martyr)としての伝説が出来上がった。フィルモン神父のおかげで。

ルイ16世は1792年、8月10日ヴァレンヌ事件の後から1793年1月21日の午前までタンプル塔で過ごす。

その約5ヶ月の間に、考えたのは名誉ある死ではないだろうか。

ルイ16世はたぶん無能だったと思う。啓蒙君主で、素晴らしい政策を描くことができたが手腕として発揮できなかったからだ。

なぜか。

Engraving of the wedding of Louis XVI & Marie Antoinette


マリー・アントワネットを操縦しなければならなかったからだと思う。

彼女の意思を尊重しつつ軌道修正していかなければならないルイ16世。

オーストリアは宿敵フランスに対し、マリー・アントワネットという花嫁を送り、見事にフランスを壊滅させたのだ。


クレリーの日記 殉教の王(roi martyr)として歩むルイ16世

 
タンプル塔の大塔にうつされたルイ16世。家族といったん切り離されたが、少塔のときと同じく一日を家族と過ごす。

ご一家が大塔にそろわれてからもそれまでどおりだった。

タンプルではミサが禁じられていたので聖務日課表を私に買ってくるよう命じた。陛下は本当に敬虔な方なのである。しかし陛下の信心は純粋にして理性的なものであり、ほかの義務をおろそかにすることはなかった。

いろいろな旅行記、モンテスキューの著作、ビュフォン伯爵の著作、プリューシュの自然の景観、ヒュームの英国史、ラテン語のキリストのまねび、イタリア語のタッソ詩にさまざまな戯曲はいつも読んでおられた書物である。

引用・要約 「国王の従僕クレリーの日記」 クレリー著、ジャック・ブロス編 吉田晴美 訳

ヘロドトスの「歴史」、司馬遷の「史記」みたいなもんだったね、デイヴィド・ヒュームの「英国史」は。つまり彼は、ほとんどのヨーロッパの歴史、王族の繁栄と衰退も知っているわけだ。

そして啓蒙思想。フランス絶対王政を批判し三権分立を唱えたモンテスキューの著作。

Lagrenee, Louis Jean - Allegory on the Installation of the Museum in the Grande Galerie of the Louvre - 1783


しかもルイ16世はフランス語のほか、英語、ラテン語、イタリア語も堪能だったことは選んだ書物から理解できる。たぶんドイツ語も。

そしてクレリーの事実を綴った日記には、敬虔な姿のルイ16世が書かれている。マリー・アントワネットもそうだったらしいが、王の妹のエリザベートに関してはもっとも熱心な姿を書いていた。

12月15日にご家族に関する請願書の返事をもらった。「王妃とエリザベート王女は裁判中に国王と会うことを禁ずる。子供達は国王のもとへ行ってもかまわないが、その場合、最後の尋問がすむまで母親と叔母には会うことは出来ない。」

引用・要約 「国王の従僕クレリーの日記」 クレリー著、ジャック・ブロス編 吉田晴美 訳

二者選択を迫られた陛下は子供達と会うことをやめている。

この10日後のクリスマスの日付で、ルイ16世はヴァレンヌから二つ目の遺書になるものを書いた。

いと聖なる三位一体、父と子と聖霊のみ名において。本日1792年12月25日、私、フランス国王、ルイ16世は、かつて臣下であった者たちの手で四ヶ月来パリのタンプル塔に家族と共に幽閉され、11日前から家族といかなる連絡もとることができずにいる。

そのうえ、人間の情念ゆえに結果も予想できなければ、現行のいかなる法にも口実と方法の見当たらない裁判にかけられている。

私の考え方の証人は神しかおらず、私が話しかけることのできるのも神だけである。よってここに、神の立会いのもと、私の遺志ときもちを明らかにするものである。

私は、我が造物主たる神に、私の魂を預ける。神よ、どうか私の魂を慈悲のみ心のうちに迎え入れたまえ。そして、私の魂の功徳ではなく、私をはじめ救ううに値しない人間達のために父なる神にその身を捧げられた主イエス・キリストの功徳によって、私の魂に審判を下したまえ。

私は、聖ペテロがイエス・キリストから託された力を途絶えることなく受け継いできた我らの聖なる母、使途創立ローマカトリック教会の団結のうちに、あの世へ旅立つものである。

Louis XVI recoit a Reims les hommages des chevaliers du Saint-Spirit, 13 juin 1775


私は、信経および神と教会の戒律に含まれるいっさいのもの、カトリック教会が今も教え、これまでずっと教えてきた秘蹟や奥義に含まれる一切のものを認め、堅く信じる。

私はイエス・キリストの教会を引き裂く説明をする様々な手段の中で自ら裁き手になると主張したことは一度もない。これまでも、また神が生きることをお許しくださればこれからも、聖なりカトリック教会に結集する高位聖職者諸氏がイエス・キリスト以来の教会の宗規に従って下し、これからも下すであろう決定にすべておまかせする。

私は過ちを犯しているかもしれない我らの兄弟を心から憐れむ。しかし彼らを裁くつもりはない。キリスト教の慈悲心が教えるものに従って、イエス・キリストと変わらぬくらい彼らを愛している。

私は自分の罪を綿密に知り、罪を憎み、神のみ前にひれ伏そうと務めた。カトリック司祭の手を借りることはできないが、神よ、これまでの私の告白を聞き入れ、、とりわけ(私の意志に反するとはいえ)私の名においてカトリック教会の宗規と振興に反するかもしれない行いをしてしまったことに対する深い懺悔を受け入れたまえ。

私は常にカトリック教会と心をひとつにしてきた。もし生きることを許していただけるなら、できるだけ早くカトリック司祭の手を借りてすべての罪を認め、懺悔の秘蹟を受ける決意である。

・・・(略)・・・
引用・要約 「国王の従僕クレリーの日記」 クレリー著、ジャック・ブロス編 吉田晴美 訳

ホント、長い。だがこれには意味がある。

ルイ16世は無能だ。けれど大した無能な王だった。

ルイ16世はイエス・キリストの受難と自分を重ねているんだ。

無能な王が殉教の王になるために。

ルイ16世はこの遺書で聖職者の民事基本法を、わざわざほのめかしている。

民事基本法は、宣誓することは革命を支持することを表し、宣誓を拒否することはローマ法王への忠誠を示すことになる。

Retour de Varennes. Arrivée de Louis Seize à Paris, le 25 juin 1791 Jean Duplessis-Bertaux (1750-1818),


ヴァレンヌへの逃亡時、ルイ16世はこの民事基本法を可決していない。

フランス革命では無神論者が多く、カトリック教会は迫害を受ける。「宣誓派」には政府からの年金が支給されたが、「忌避派」には支給がない。

忌避派に対する法案に拒否権を行使し続けるルイ16世。

この人、まさか革命まで発展するとは思っていなかったんだろう。デイヴィド・ヒュームの「英国史」を読んだはずなのに。

清教徒革命(ピューリタン革命)でのチャールズ1世が書かれていたでしょ!

さて2009年にフランスフィガロで報じられたのが、ヴァレンヌの逮捕直前に書いたという遺書の直筆が発見されたということだ。

ルイ16世の政治的遺言は立憲君主法を説いたもので、逃亡の理由も書かれている。

le testament politique de Louis XVI

追記
alei の記事 「フランス革命下の一市民の日記  1791年の2月

これはセレスタン・ギタールという人の日記。ヴァレンヌの逃亡の年、2月の事件をいろいろ日記に記したところをトピックしてた。

今度貸してもらうね。
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Jean-Marc Nattier style  ジャン=マルク・ナティエ スタイル
18世紀 フランス / SAI
楓がナティエの記事を書きまくった。あれは僕もarei も協力した記事だからね!

僕、ナティエに興味ありませんから。

クリスティーズやサザビーズでオークションに出ているのは大体においてジャン=マルク・ナティエ スタイル(僕的なナティエ画風という意味)だ。楓が「
Jean-Marc Nattier  肖像画 その1」で取り上げているように、模倣や模写、工房作品、ナティエのオマージュ作品がある。

Seguace di Jean-Marc Nattier


これはいわゆる「ジャン=マルク・ナティエ 派」の作品。上が「ヴィーナスとクピド」で下は「ディアナ(ディアナの狩猟)」だと思われる。画家の名前に SUIVEUR、イタリアだと Seguace なんてついている。

Manner of Jean Marc Nattier Portrait of a lady dressed as Diana the Huntress, seated half-length

Manner of Jean Marc Nattier, 20th/21st Century


これがナティエ風の作品という意味で、Mannerが使用されている。近代の作品らしい。クリスティーズに出品されているもの。ジャン=マルク・ナティエ スタイルということでしょ。

STUDIO OF JEAN-MARC NATTIER PORTRAIT OF A LADY IN THE GUISE OF DIANA


このディアナに扮した女性の肖像画は、ジャン=マルク・ナティエの工房作品になる。STUDIO、ATELIERとついているもの。ディアナに扮するというのは、ナティエの肖像画に多く、その主題で工房作品には多いかも。

楓 記事 
ジャン=マルク・ナティエ 肖像画 その2 ディアナ


Portrait of a lady, half length, wearing a pearl necklace, a white dress and a blue shawl

ジャン=マルク・ナティエ Jean marc nattier


これはたぶんご本人ジャン=マルク・ナティエ (Jean marc nattier)の作品に間違いないと思われる肖像画。「白いドレスに青いショールと真珠のネックレスをつけた女性の半身像」の肖像画だ。年代不明、描かれた婦人名も不明で、オークションに出品されている。

このナティエの肖像画のスタイルを模倣した画風に、afterなんてついている。

PORTRAIT OF LOUISE-ELISABETH DE FRANCE (1727-1759), DUCHESSE DE PARME, ELDEST DAUGHTER OF LOUIS XV OF FRANCE, HALF LENGTH SEATED

ルイーズ・エリザベート・ド・フランスの肖像画
After Jean marc nattier
ジャン=マルク・ナティエの模倣作品


おもしろいものを発見した。ナティエオリジナルと思われるトゥルネー美術館所蔵のマリー・レクザンスカ(Marie Leszczyńska)、その模写のヴェルサイユ宮殿美術館トリアノンにあるものとまた別の作品だ。

FOLLOWER OF JEAN-MARC NATTIER

マリー・レクザンスカ(Marie Leszczyńska)
follower Jean marc nattier
ジャン=マルク・ナティエの模写


マリー・レクザンスカ(Marie Leszczyńska)のこの肖像画は、楓 記事「ジャン=マルク・ナティエ その4 フランスの王女たち」から見比べて。

模写作品にfollowerのほか、ジャン=マルク・ナティエの下絵に版画を作成する場合にD'APRESが使用されている。Johann Simon Negges(1726-1792) 、Jean-Joseph Baléchou (1716-1764)などの作品がある。

NATTIER Jean Marc (daprès) MARIE-ADELAIDE DE FRANCE, DITE MADAME ADELAIDE (1732-1799) Versailles ; musée national des châteaux de Versailles et de Trianon

After Jean marc nattier
ジャン=マルク・ナティエの模倣作品


僕がもっとも面白いとおもった作品だ。「アンリエット・ド・フランス」のこの肖像画。誰が描いたんだろう。

顔はジャン=マルク・ナティエの模倣、スタイルはフランスの画家ピエール・ミニャール(Pierre Mignard)じゃないか。ナティエはナティエだけど、僕的にはミニャルド(Mignardes)。

マリー・テレーズ・ドートリッシュと王太子の肖像画と見比べてみて。楓の記事にあった「ベラスケス没後350年 王妃マリー・テレーズの肖像画」から。

あとは兎穴さんが記事をアップした。
ナティエ Jean marc nattier
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