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Karl Lagerfeld

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写真展
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哲学辞典 by ヴォルテール Dictionnaire philosophique
ヴォルテール / SAI

ヴォルテールの哲学辞典には30以上の項目がある。神父、物体、奢侈など。

今日は愛について

Lucretius speaks of it more as a natural philosopher; and Virgil follows the example of Lucretius.
Amor omnibus idem.”

愛はすべてのものにおいて同じである。」(ウェルギリウス 「ゲオルギカ」より)

邦訳は、たいていここから始まる。

「・・・愛は想像力で刺繍された自然の織物である。」
ヴォルテールは続いてそう言う。

さらに
「・・・君の家の鳩をみたまえ、君が飼っている牝牛のところに連れてこられた牡牛をながめたまえ、おとなしく待ちかまえ尻を向けて受け入れ体制をとる牝馬のところへ二人の召使にひかれてくる猛々しい牡馬を見つめたまえ、飛び跳ね躍り上がる様、硬直した耳、・・・(略)・・・そこから吐き出される燃えるような息吹、・・・自然から与えられた対象に突進する壮絶な動きをみるがよい。・・・(略)・・・それらは自然が動物に与えたすべてのもの、美しさ、軽快さ、敏捷さを、愛において補ってくれるのだ。」

こうしてヴォルテールは、動物と人間の唯一の違いを述べている。

つまり動物は交尾が終わるとそれですべてが終わる。だが人間は「抱擁」を知っているという一点だ。

ついで「感情」である。愛情、友情、尊敬、自尊心など。そして幻想である。しかしながら愛の快楽と生の根源を毒したことは怖るべきことだと続けている。

怖るべきこと、それは病。まず侵されなかった古代ギリシャの娼婦の名をあげてから、万延する恐ろしい疾患を「愛」の章で付け加えている。



?ヴォルテールの名誉、そして死の寓話?1779年
by ガブリエル・ドゥ・サントーバン


当時は梅毒だろうか。現代では性行為で感染するAIDSがある。ただし梅毒は、ある時代には洗練された享楽者を羨ましがる病気でもあった。

ヨーロッパの貴族や王族にもおよぶ梅毒は、人間が汚れを知らずに生きていた島々から生まれ、そこから古代世界へ伝わった。は非常に危険も伴うものだということがわかった。

「さあ、快適な摂政時代だ。自由が許される幸せな時代なのだ」
そうォルテールは書いたが、この哲学辞典の「愛」では、自由という言葉は見当たらない。

ヴォルテールは、愛の完成にクレティウスの引用から「皮膚の接触の楽しみ」と、先に書いた「あらゆる感情」と「肉体と精神の才能」が新しい鎖となり、自分が選択した愛を誇る。それが動物より優れた点であるという。

「皮膚の接触の楽しみ」のかけひきは・・・


Nam facit ipsa suis interdum femina factis,
Morigerisque modis, et mundo corpore cultu
Ut facile insuescat secum vir degere vitam.
—Lucretius, iv, 1275.

女はときおりすすんで、おだやかな物腰、清らかな身繕い、たやすく男を自分と暮らすよう仕向けるからである。

(ルクレティウス "物事の本性について" 第4編 邦訳では1274-6行、あるいは1280-2行となっている)

引用 世界の名著 哲学辞典より
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哲学書簡 ヴォルテールとクエーカー教徒
ヴォルテール / SAI
楓のマントノン夫人の記事で、キエティスム(クワイエティズム)事件を起こしたということを知り、ヴォルテールのクエーカー教徒を思い出した。

なるほど、マントノン夫人は質素で倹約な宮廷生活と唱えていた。



「哲学書簡」(Lettres philosophiques ou Lettres anglaises)
アムステルダム出版の口絵部分



僕の好奇心をそそるマントノン夫人
*1 これ以上に貴賓があり、人の心をとらえてはなさない物腰に出会ったことがない。

マントノン夫人に深くお辞儀をした。
*2 「私は、自分の至極もっともな好奇心があなたの気分を害するとこはないと、またあなたの生活についてくわしくお教えいただけるものと信じております。」

こうして私はマントノン夫人に尋ねはじめた。
「ほかの人たちと少々違った服をお召しのようですが。」

*3 「これは、彼らと同じになってしまわないよう、自分を戒めることにやっていることなのです。彼らは装飾の浪費、新しい流行の迎合、華美を求める虚栄と優越の標章をつけますが、わたしたちはキリスト教の謙虚の標章をつけているのです。」

私は尋ねた。
「以前の宮殿に比べ様子が違うようですが。」

*4「わたしたちは娯楽の集まり、見世物、賭け事を避けます。そのわけは神がお住まいになるべき心をこれらの取るに足らないことで埋め尽くすとあっては、あまりに自分があわれだからです。わたしたちは決して神に誓うことはしません。法廷においてさえそうです。」

私は尋ねた。
「モンテスパン侯爵夫人との確執はないのですか。」

*5「いと高き神の御名が人間のくだらない言い争いで汚されてはならないというのが、わたしたちの考えです。」

なるほど、マントノン夫人は無地の暗いドレスを身につけ、髪はシニヨンでまとめているだけだ。信仰の厳しさが彼女を報復の感情を払い、ルイ14世は彼女を確固不動の人と呼び、彼女の寛大さに敬服し、宮廷の華やかさが失ったのは国王の放蕩や浪費がおさまり、落ち着いた暮らしぶりになったのだ。

「マントノン夫人、私は誤解をしていた。
国王がサンシールの乙女たちと呼んだ学院は、
あなたが性行為を避ける手段としての
王の愛欲を満たす女性の訓練学校ではなかったのですね。
そしてナントの勅令の廃止で虐殺された数万人は
あなたの寛大さによって、サン・バルテルミーの虐殺より
わずかなものとなったのですね。」

最後に尋ねた。
「あなたの宗教は、」

僕はそこで夢から覚めてしまった。

なんとマントノン夫人は、ヴォルテールが対話したクエーカー教徒のアンドルー・ピットと同じ言葉を僕に伝えたのだ。

哲学書簡 ヴォルテール 第1信 クエーカー教徒について
どく風変わりな宗教の人たちの教義と歴史とは良識ある人の好奇心をそそるに違いないと私は思った。



サルバドール・ダリ 「ヴォルテールの見えない胸像」
(ヴォルテールの見えない胸像がある奴隷市場)
このヴォルテールの胸像は前記事サロンの胸像と同じ?


ヴォルテールの最初の書き出しだ。「ひどく風変わり」というのがクエーカー教徒の特徴だ。

本記事の「*1」は、イギリスのクエーカー教徒のなかでも最も知られて理うアンドルー・ピットに対しての賞賛だ。

食事のあと、ヴォルテール(V)はこの上品な老人(A)に尋ねはじめる。
(引用は要約のほか、省略あり)

V:「あなたは洗礼を受けていらっしゃるんでしょうか。」
A:「いいえ、私は受けていません。私と同じ宗派は皆そうです。」
V:「なんと、とんでもない話だ!」
A:「わたしたち少量の塩と冷水を頭に浴びせることでキリスト教徒ができているとは思っていないのです。」

神を神とも思わぬ言葉に顔色も変わって問い続けた。
(この言葉への感動のあまり顔色が変わって問い続けた、というところか。)

A:「キリストはヨハネの洗礼をお受けになられたがご自身では誰も洗礼をなさってはいません。私たちはヨハネの弟子ではなくキリストの弟子なのです。」また、「わたしたちは洗礼の儀式をおこなうことも責めたりもしていないのです。」そして、「あなたは割礼を受けていますか?」

ヴィルテールは残念ながら割礼(性器切断)の栄誉に預かっていないと言い逃がれる。

さらに狂信者に意義を唱えるのを控えたとのたまう理由に、もっぱらフランスを風刺する。

"訴訟を起こしている人にそ訴因が不十分だといったり、霊感を得たという幻想家にあれこれ述べたりはならないことだから”と。

ヴォルテールの面白さは、反語的讃辞や揶揄が含まれているところだが、イギリスのクエーカー教徒の口を借りながらフランスの高等法院や狂信的宗教権威を非難しているわけだが、いちいちヴォルテールの貴族趣味がホント、ハナにつく。

V:「聖体拝領のことですが」ヴォルテールは話題をかえる。
A:「行っていません」

ヴォルテールは大げさに驚く。

そこでロバート・バークリーの本をすすめられ、その本を読むことを約束する。



「哲学書簡」(Lettres philosophiques ou Lettres anglaises)


Avoue, dit-il, que tu as eu bien de la peine à t'empêcher de rire quand j'ai répondu à toutes tes civilités avec mon chapeau sur ma tête et en te tutoyant ; cependant tu me parais trop instruit pour ignorer que du temps du Christ aucune nation ne tombait dans le ridicule de substituer le pluriel au singulier.

アンドルー・ピットは、「"君"の礼儀正しい態度に帽子もはずさず、"君"とよびかける私にさぞ笑いをこらえたことでしょう。」と話し、「わたしたちは国王にも靴直しにも等しく同じに話しかけ、誰に対しても頭を下げない。隣人愛だけです。」

この翻訳では二つ目の「君」が、たぶん「汝」だと思う。彼の言葉から国王でも靴直しでもとあるように、ここでは平等立場をあらわし、クエーカー教徒の平等主義の立場から親称である”thou”(汝)の使用はこの教徒の特徴だ。

Ce ne fut que très longtemps après lui que les hommes s'avisèrent de se faire appeler vous au lieu de tu, comme s'ils étaient doubles, et d'usurper les titres impertinents de Grandeur, d'Éminence, de Sainteté, que des vers de terre donnent à d'autres vers de terre, en les assurant qu'ils sont, avec un profond respect et une fausseté infâme, leurs très humbles et très obéissants serviteurs.

「汝という言葉をのかわりに複数形の敬語で呼び合ったり(you のこと)、虫けら同然のものに同類の虫けらが、猊下、台下、聖下と常識はずれな称号を分をわきまえずに用いることで、自分たちが深い尊敬とともにうそ偽りによって、自分たちが深い尊敬とともに恥ずべき忠実な従僕であると相手に断言しているのです。」

ここではフランスの絶対王政も非難しているのか。

ver de terre ってミミズなんだけど、ここでは虫けらになっている。面白いことにver de terre には「辻君」という意もある。娼婦のことだ。公妾に対して侮辱の言葉として使ったのが、カトリーヌ・ド・メディシス。ヴォルテールの時代の公妾はポンパドゥール夫人で、彼は昔からの交流もある彼女を売女と言っていたが、この翻訳で彼女に当てはまらないこともない。

この虫けらのあとが、記事の最初に夢のマントノン夫人が答えた「*3」〜「*5」の話になる。 これはクエーカー教の基本姿勢を示しているわけだ。

*4「わたしたちは娯楽の集まり、見世物、賭け事を避けます。そのわけは神がお住まいになるべき心をこれらの取るに足らないことで埋め尽くすとあっては、あまりに自分があわれだからです。わたしたちは決して神に誓うことはしません。法廷においてさえそうです。」

ここは、イエスの言葉「一切、誓いをたてるな」に忠実だ。



前記事ディドロとダランベールで紹介したマダム・ジョフランのサロン
本記事使用のダリの作品の胸像と同じものを描いていると思われる。
百科全書序論 理性について by ダランベール」で配置を明記している。


さて、マントノン夫人に再度登場してもらう。彼女はキエティスム(クワイエティズム)に傾倒したということは間違いない。

イギリスのクエーカー教徒はキエティスムという言葉をある場面において用いるという。だが、クエーカー教徒がキエティスムというわけではない。

つまりマントノン夫人はキエティスム、それは静寂主義であるが、彼女はクエーカー教と同じ主義を取り入れたということに、僕は疑問を持ったわけだ。

クエーカー教徒はヴォルテールとアンドルーの会話を基にすると
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キエティスムとは
wikiによると知性ある静寂と内面的な受動性を重視する。これは哲学で、教徒にはあたらない。

1693年にはマントノン夫人はギュイヨン夫人と決別している。その改宗したといわれている宗教は何だったんだろ。そしてフランスにはおよばなかったクエーカー教。

このクエーカー教はアメリカに流れていく。

「哲学書簡」(Lettres philosophiques ou Lettres anglaises) は、ヴォルテールがイギリスにいかざる得ない状況に陥り、そこから親友に手紙を書いたことに発想を得、モンテスキューの「ペルシア人の手紙」(1721)のように、書簡形式を用い、おなじように政治、宗教、思想、科学、風俗に対する批判をちりばめた1冊だ。

悲劇、ベーコン、ニュートンなどがある。パスカルのパンセなど、批判的注釈がボルテールによって書かれていて、これが笑わせる。




ヴォルテールの胸像

かたちは同じだが、サロンの胸像は若かった、顔が。
ジャン=アントワーヌ・ウードン(Jean-Antoine Houdon)


第2信
聖職者不在
クエーカー教徒の教会にいく。無言の行が15分続き、いきなり一人がわけのわからないことを話はじめる。霊感を受けたか狂気なのかわからないが教徒は誰も咎めることなく聞くだけだ。散会後、ヴォルテールは再び質問をする。「聖職者はいないのですか。」と。「神は"ただで与えたものはただで与えよ"と言っています。もしも福音書を値切り、精霊を売り物にし、キリスト教徒の会合を商店にしてよいでしょうか。黒い衣服を着たものども(聖職者のこと)に金銭を与えることをけっしてしません。」という答えが返ってきた。

第3信はクエーカー教徒の歴史
クエーカー教徒の歴史である。神がかりの気狂いフォックス。戦争反対、聖職者反対を唱える。あるとき投獄され、フォックスは帽子のまま判事の前に立ち、平手打ちを食らう。フォックスはもう一方の頬を出し、こちらの頬も打てという。判事は彼に宣誓をさせる。フォックスは誓いを断る。判事に語るフォックスは彼を「」とよび、怒らせる。

ある日奇跡とよばれる一件が起こった。「神はやがて汝を罰したもう」と、人だかりのなか、ある判事に告げる。その二日後脳溢血でなくなった。これが多くの教徒を集めたわけだ。チャールズ二世の治世の迫害は信仰ではなく、税を払わないことと「汝」とよぶことだった。

アンドルーが帽子を取らず、汝とヴォルテールに呼びかけ、誓いをたてないことは、始祖フォックスの行いだったわけ。迫害はロバート・バークーリーの「クエーカー教徒の弁明」によりおさまる。

第4信はクエーカー教の海外伝道
ざっと読んだだけだが、絶対王政時代の植民地政策を揶揄していると思われる。ディドロのブーガンヴィル航海記補遺第2章にあるように、征服者の島や人の略奪と、クエーカー教徒の移民による伝道を比較しているようだ。まずは最初に美貌の青年ウィリアム・ぺンが登場する。

彼はアムステルダムで、デカルト哲学の理解者エリザベト王女に教えを説く。さらにドイツ。ウィリアム・ぺンは父の財産に含まれていた国王からの債務返却のかわりにアメリカの一州の所有権と王権を授ける。ペンの名をとったペンシルヴァニア。

原住民たちを征服せず、ブーガンヴィルが征服したもとのタヒチのように、嫉妬もない隣人愛、平等な公民、そして司祭と武器のない土地、君主を帽子をかぶったまま君とよぶ。

さてときが流れると黄金時代はどうなったのか。その子孫たちは。続きはどうぞ「哲学書簡」を読んでください。

参考:世界の名著 「哲学書簡」 責任編修 串田孫一
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マルク=アントワーヌ・カラス事件  L'Affaire Calas
ヴォルテール / SAI

ヴォルテールが扱った通称カラス事件は、怪死した者の名がつけられたマルク=アントワーヌ・カラス事件だ。

トリーヌ・ド・メディシスの時代に起こったサン・バルテルミーの虐殺、14世の公妾ントノン夫人のキエティスム(クワイエティズム)事件と、カトリックvsプロテスタントや異端が原因になるが、このマルク=アントワーヌ・カラス事件も同様だ。

マルク=アントワーヌ・カラスが首を吊って死んでいた。そこに駆けつけた家族や知人。



ジャン・カラスと家族の決別


してプロテスタントの父 ジャン・カラスが死刑になった。怪死したマルク=アントワーヌはカトリックへの改宗を控えていたという。

判決を下したのはトゥールーズ高等法院。

ヴォルテールはこの一件を知ると、裁判の不当性を訴え、冤罪を晴らすのだ。

だが、ちょうど1年前の新教徒、旧教徒絡みのグルニエ事件には、援助を求められたにもかかわらず、断っている。

それがマルク=アントワーヌ・カラス事件に関してはどうだろう。絶好の機会だとヴォルテールは考えたからではないだろうか。

カラス事件の裁判の内容に、「勝てる」という直感がヴォルテールを揺さぶったのではないか。

ゥールーズは、1562年に新教徒が殺戮された町だ。

つまりカトリーヌ・ド・メディシスの時代にだ。ちょうど息子のシャルル9世が在位について1年後のなる。

サン・セルナン教会をカルヴァン派を占領。つまり、サン・バルテルミーの虐殺にいたる最初のユグノー戦争が起こった年である。

それからヴォルテールの時代までの200年。

1761年にモントーバンの近郊で、夜盗の疑いで新教の牧師ロシェットが捕らえられる。運悪く新教徒の結婚式に参加した名簿が発見され、死刑が確定した。

この牧師ロシェットを奪還する噂がひろまり、旧教徒たちの警戒線に触れたのが、グルニエ三兄弟だ。武器を持っていたからである。

ルソーとヴォルテールに援助を求めたモントーバンの新教徒リボットにルソーはこう手紙を書き送っている。



ヴォルテールとカラス一家


人が相応の罪を犯さぬ限り残酷な処断はありえない。また司直の手から彼らを奪還するのは正当化しえない反抗にもなる。」

ヴォルテールは援助する力がないと断った。
ヴォルテールはロシェット-グルニエ三兄弟事件を蹴った。

カラス事件の闘争中のヴォルテールは哲学書辞典で「寛容」を発表しているが、ヴォルテールはそのなかで、幾世紀末の宗教の恐るべき葛藤は許しあうべきの教訓であり、寛容は唯一の治療薬だと書いた。

つまり、ロシェット-グルニエ三兄弟はカトリック側の不寛容の狂信による迫害で犠牲になったということだろうか?

そして彼らの処刑から1年後のカラス事件の処刑。

ヴォルテールはマルク=アントワーヌ・カラス事件に飛びついた。

奇しくも事件が起こったのは、グルニエ兄弟事件の1ヵ月後のことだった。


マルク=アントワーヌ・カラス事件 L’affaire Calas

1761年10月13日
カラス家は7時に夕食をはじめた。三男でカトリックのルイは家を出ていたので、この日はいない。この家では女中のジャンヌ・ヴィギェールだけがカトリックである。

男のドナはニームにいた。

この夕食には当主のジャン・カラス、妻アンヌ、長男マルク=アントワーヌ、次男ピエール、その友人のラヴェス。二人の娘は知人宅に呼ばれていたため、女中のジャンヌを含めると6人が居合わせていた。

長男マルク=アントワーヌが席をはずしたのが食事も終わりかけの頃だ。

家族とその友人は午後10時までサロンで談笑している、つまり席を立たなかったということだ。

友人ラヴェスを送るためにピエールらは階下に降りる。そして二人は叫び声をあげた。カラス一家が駆けつける。

長男マルク=アントワーヌの首縊りの姿があった。




トゥールーズの参事ダヴィッド・ド・ボードリグと思われる人物とカラス父子


の絵は怪死したマルク=アントワーヌ・カラスが床に、そして父ジャン・カラスが指を突き立てられている場面だ。トゥールーズの参事で、ダヴィッド・ド・ボードリグと思われる。

彼はここで調書をとらず投獄する。

その背後には叫び声に集まる人々。多勢のカトリックの人々だ。「カトリックに改宗するつもりの長男を、プロテスタントの父親が殺した。」と喚いているのだろうか。

そしてここには矛盾した場面も描かれている。首縊りの紐である。

結果的には首縊りの紐は自然にはずれてしまったらしい。気が動転していたのかジャン・カラスは自分が切ったと供述した。

証言の曖昧さとトゥールーズ高等法院のずさんさ。

ォルテールの疑惑とは稚拙な手続きや公判に対し呆れ、不確かな証言を認めたことに呆れ、この高等法院の「恥知らずな奴ら」を懲らしめようというのがヴォルテールであったのではないか。

そして教会が告訴したという事実。

教会のプロバガンダ、恥知らずな裁判や証明力の低い証言に対して、ヴォルテールが紛糾するのはまだあと。

「私は無実のまま死んでいくが、心残りは家族のことだ。」と残し、神に裁いた人々を許すように祈るジャン・カラスは、1762年3月9日に死刑を宣告され、翌日10日、拷問のうえ車刑によって処刑された。

3月18日、ジャン・カラスとともに投獄された妻アンナ、次男ピエール、友人ラヴェス、女中ジャンヌに判決がでる。ピエールは追放、ほか3名は無実である。

ジャン・カラスが処刑の日に自白するだろうと考えていた高等法院側は、最後まで潔白を主張し刑に挑んだカラスに対し、いささか震えたに違いない。

殺の可能性と検証を主張した判事、訴訟却下とした判事をのぞいて。

このジャン・カラスが処刑された時点でヴォルテールはこの事件に対して特別に関心を寄せていない。

ヴォルテールからル・ポー宛の手紙
「おそらくあなたもトゥールーズ高等法院が息子を殺したかどで一人の善良な新教徒を車刑に処したことはご存知でしょう。・・・(略)・・・彼は息子を神に捧げ、アブラハムにまさることをやった、と考えていたのです。」

そう書簡に残したように、ヴォルテールはまったく無罪、有罪を問うどころか、アブラハムに勝ると名文句を残している。これはジャン・カラスの処刑から2週間後の1762年3月22日の日付である。

ところがル・ポーの手紙から5日後のカーン宛ての手紙はまったく違う。

ヴォルテールからカーン宛ての手紙
「あなたはジャン・カラスの処刑について確かな情報をおもちですか。彼は無罪でしょうか。有罪でしょうか。いずれにせよ、これは最も開けた世紀の最も怖るべき狂信です。」とある。



不幸なカラス事件


ちにカラス擁護の秘密委員になるジュネーヴの商人ドゥブリュは、以前にカラス家に滞在していたという人物だ。

処刑されたあとに関心を持ったヴォルテールは、このドゥブリュ(ドブリュ)から何か聞かされたのだろうか。

僕が思うには、無罪でも有罪でも宗教上のみの事柄なら、ヴォルテールは介入しなかっただろうと思う。だが、高等法院の愚行には我慢できなかたのだ。

つまり、ヴォルテールはダランベールも百科全書の理性(哲学)で示しているように、「真実」と「証明」が彼を動かしたと解釈している。真実より異端を排除する高等法院に対して。

はあなたの書いたものは嫌いだが、私の命を与えてもあなたが書き続けられるようにしたい。」というように、ヴォルテールは「私の命にかえても」というフレーズを好むタイプのようで、このときも「死ぬまで闘争を続ける」と述べている。

1762年の4月4日のダミラヴィルへの手紙では、「トゥールーズ高等法院の裁判官たちは罪なき人間を車刑(車裂き火あぶり)に処したことが判明されました。」と送っている。

ジャン・カラスの死刑は6対6で、死刑には8票が必要だ。ところが審理に含まれない判事が死刑に1票、反対側の判事が死刑に1票転じたことで確定となった経緯がある。

ヴォルテールが冤罪を晴らす証明に焦点をあてたのは、状況証拠、物的証拠、物理的証拠、証言の信頼性、そして高等法院の証拠資料、その証拠能力と証明力の低さだろう。

してトゥールーズ高等法院側の不正にはどのようなものがあげられたのか。追放刑に処せられたはずの次男ピエールを脅迫し改宗させ、形式的な追放と追放されたトゥールーズの修道院への監禁。あるいは死刑の投票も含まれたのだろうか。

僕はまだヴォルテールのカラス事件は読んでいないので、この部分は確かなことではない。

この頃(1763年)、イギリスのアダム・スミスはトゥールーズに来ていた。前記事のダランベール、そしてテュルゴー、ケネーらと親交を結んでいる。

彼はこの事件をどう見ていたのだろう。

パリにくるまえのグラスゴー大学での講義録「道徳感情論(道徳情操論」 The Theory of Moral Sentiments)は、1790年の増補改訂で、このカラス事件(L'Affaire Calas)を言及した。

さてヴォルテールに話しをもどす。

1762年5月、フェルネールにカラス再審運動のための秘密委員会が組織され、先に名をあげているドブリュ、牧師のムルトゥ、法律家のヴェゴーヴル、ジュネーブの銀行家カタラ、弁護士トロンシャンらと協議する。

これにダランベール、ダミラヴィル、ダルジャンタル、ショワズール、マリエット、ポーモン、カロン、デュフール、マレたちが賛同し、カラス一家の擁護をした。

同年の8月には、ルイ15世の公妾ンパドゥール夫人をはじめとする側近らを動かすことに成功し、国王顧問会議で判決を破棄し、国王直属の請願委員で再審にあたることとなった。

こうして最終判決で無罪となったのが1765年のこと。処刑されたジャン・カラスの名誉が回復されたのだ。

だが、ヴォルテールの名声はあがったものの、結局このあとも同じ事件は続く。



「シュヴァリエ・ド・ラ・バールの記念碑」1907年
(Le monument du Chevalier de La Barre)
画像ははじめの記念碑で、台座を残してはずされた。


罪が晴れたジャン・カラス事件の翌年、1665年。

アブヴィルの橋、サン=シモンの詩にも登場するポン・ヌフで、そこの十字架が傷つけられた事件が起こる。ここでもまた証拠力の低い証言が用いられる。「聖体拝受の日の行列への冒涜」、「宗教の戯れ歌をうたった」などだ。

繰り返される証言の重用。

よりによって、捕らえられたシュヴァリエ・ド・ラ・バールは、禁書であったヴォルテールの「哲学辞典」を発見された。

つまり、異端については審議を軽んじ、さっさと処刑するという高等法院のやりかたは変わっていない。

このラ・バール事件は1791年に名誉回復とするが、ラ・バールは拷問の後斬首され、ヴォルテールの哲学辞典とともに火あぶりにされた。

してカラス事件よりさらに10年後。1772年だろう。

その事件に際して書かれたヴォルテールの小論文を「フランス18世紀の哲学者たち」(訳:串田孫一、高橋安光、中川久定)からそのまま引用する。


モランジュ事件に際して書かれた「正義における蓋然性について」という小論文は注目に値する。「物事は真実か虚偽であり、その中間は存在しない。不確実はほとんど人間の宿命であるから、証明を待っていては容易に決断できないであろう。いずれかに立場を決めるなければならない。それも場あたりであってはならない。脆弱な、盲目の、誤りやすい吾人の本性に必要なのは、数学的幾何学的と名づけられる慎重さで蓋然的な事柄を吟味することである。」 by 「フランス18世紀の哲学者たち」

ところでジャン・カラスは無罪で名誉回復となったが、マルク=アントワーヌ・カラス事件は解決していない。他殺の疑いもあるらしい。つまり中間の存在のまま、200年以上経過している。
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