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Karl Lagerfeld

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パンテオンにおけるマラーとジャン=ジャック・ルソーとの大論争
作家 / SAI
デュプライユ(Dubrail )というのが作者のペンネームらしい。あの偉人たちを集めて葬ったパンテオンでの論争のパンフレットを書いたという。

一体誰なんだろう。

昨日、aleiのところに行って借りてきた河野健二著「フランス革命200年」に書いてあった。今日、その本のディドロのことを記事にしていた。(なんだか僕が無理やり借りたカンジ!)

ジャン=ポール・マラー(Jean-Paul Marat)とジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)の死後の大論争というのがちょうど開いたページにあったから、どうしても家に帰って読みたかったんだ!

ところで、「Grande dispute au Panthéon, entre Marat et Jean-. Jacques Rousseau」(1794)というタイトルで、アマゾンから売られているらしい。

「フランス革命200年」からこの話を引用すると。

1794年10月11日あたりのこと。パンテオンの近くに住む人々は毎晩のようにパンテオンから聞こえる大きな音に悩まされた。

勇気ある小市民、サン=キュロットたちが奇怪な物音をたてる正体を突き止めるために深夜にのりこんだ。

塔の中は真昼のように明るく、そこにはマラーとヴォルテールとルソーがいた。

争論はルソーがパンテオンから出て行こうとしているところを、ヴォルテールが引きとめたところから始まったらしい。

(嘘!生前、あんなにルソーを中傷した奴が?)

それが笑ってしまう。

「ルソーは人里離れたところへ引きこもりたいといい、ヴォルテールは ”君はいつも物事を悲劇的に考える” といって、ルソーにパンテオン入りという名誉をあたえたフランス人の好意を裏切ってはならないことを説く。」

(これはルソーの誹謗にもあるが、”裏切りのユダ”と呼ばれたらしい。)

「そこへマラーが口を出して、” ルソーは人々とともに生きることを望まなかった。死者たる彼は、人々の間にとどまるべきではない。」

(1795年、5月2日にテルミドールの反動で、パンテオンにとどまることができなかったのはマラー、君でしょ!)

「これを聞いて、腹を立てたルソーは ”人々の間ではなく虎の間といってもらいたい。どうして30万人もの頭を君ははねたのか」

(テロリズム推進のことをなじってるんだね。)

「マラーは ”公共の自由と君自身が用意した革命の成功を確保するためには、それだけでも足りないくらいだ”」

(” 議会が「一般意志」に基づく公正な政治 ” の限りでは、抵抗権の合法性は認めないとルソーは言うが、「ルソーの血塗られた手」のロベスピエールは ” 議会の代表者の「一般意思」” と捉えている。)

「ルソーは ”革命について語ったとき、ただ一人の人間の生命でも必要とするなら、それを行うべきではないといわなかっただろうか?」

(ルソーの「国民の最後の一人」をも保持すること、そうでなければ社会契約に従って国家形成が解消されてしまうってこと?)

「マラーは ”それなら革命は起こらない。あらゆる革命でにおいて、必ずや失われる人間があるものだ”」

(シャルロット・コルデーに刺し殺された君もでしょ。ルソーは革命前に死んでいるけど。あと20年生きていたらどうなっていたんだろう。)

マラーは人々が公正で、犠牲を受け入れたなら殺害は起こらなかったが、何物も失わないとして妨害と陰謀をはかる連中がいたから不可避であったという。

記事 
フランス革命 革命裁判所 検察官 フーキエ=タンヴィル

ルソーは陰謀や策動のロマンが専制主義を維持するもので「自由の名において、フランスに新たな鉄鎖を加える」と力説。

「追放は罪ありと名指しした人々の心を狂わす。一人の消滅は数人の消滅を引き起こす。驚くべき増大を必然化する。」とルソー。

(ゴキブリが1匹いたら・・・、を思い出した。)

「ナンだと!僧侶たちに迫害されたジャン=ジャックは僧侶たちをそっとしておくことを望むというのか!」

(たしかマラーは僧侶にかくまわれたこともあった。)

「犠牲者の血は新たな改宗者を生む」とルソー。

(でもね、平等が強調されるとね。自由と平等を望む小市民(大多数派)は対象者(少数派)を狩るからね。)

「ルソー自身の怒りの生贄だ!」とマラー。

こうした具合に罵倒は続く。

ルソーは耐え切れず外にでようとするが、ヴォルテールが止め、墓にもどる。

(天敵の意図はナニ? 作者の意図はナニ?)

論争は終わり、サン=キュロットたちは家路につく。この日を境に騒音は聞こえなくなったという。

Publisher(発行元): Sl : de l'imprimerie des Sans-Culottes(消滅街 サン=キュロット印刷所」

河野健二氏の解説によれば、これはルソーの「準備した革命」が意に反したものであることの批判書だということだ。
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ルソーの妄想・空想・瞑想
作家 / SAI

明けましておめでとうございます。新年の書初めは「ルソー」から。

ルソーは自然賛美者だ。だがそれは「自然に帰れ」、「自然回帰」というものと違う。 彼の自然とは「自然人」、「自然状態」を指す思想で、ルソーの「人間不平等起源論」を読めば理解できる。

つまりその自然とは簡略化して平等と自由のことだ。自然賛美とは異なる思想なんだ。

ルソーが「ジュリ、あるいは新エロイーズ」を1761年に発表した。当時は田舎や山については全く知られていなかった。 でも17世紀の田園の家は貴族や上流社会の別荘であり、隠居の場所でもあった。

ここにルソーの「自然趣味」が顔を出すわけ。

ルソーの「新エロイーズ」以降、人々はこうした自然とめぐり合うための「旅」をはじめた。つまり旅行記なんかが出版されたから。

「新エロイーズ」は「エミール」と同じく小説だ。「エミール」のほうが読みやすかった僕は、「新エロイーズ」がなかなか進まず学生時代から、同じところまでしか読んでいなかった。

La Nouvelle Heloise, Duchesne 1764 front1

新エロイーズの序文の扉絵 
パリのデュシェーヌ(たぶん正規の出版元となった)


ところが、楓が面白いところだけ教えてくれと言う(自分の記事のために、ヒドイよね!)。長編なんだよ、コレ。

「えっ!これいつの話?」と繰り返しページをパラパラめくる作業。そしてさらに邦訳されているもののほかに、原作を読まないといけない。

こんな馬鹿馬鹿しい読書がどこにあるんだ!4巻を読破した人はいるのだろうか。僕は決してこの「新エロイーズ」には、そんな読み方はしない。

それで誰か面白くなる山場を教えてくれないかとネットで検索した。残念な結果だった。
それでクリスマスから新年になってとばし読みをした。ホント、書簡形式がイラッとさせる。

このルソーの新エロイーズはその人の教養で読み方は変わるだろう。恋愛小説で読む人、経済思想で読む人、哲学で読む人、フランス文学として読む人で違うから。僕は物語も思想も教養も関係なく、ルソーの「自然趣味」だけで遊んだ。

もともと論理学者ピエール・アベラール(1079-1142)とエロイーズ・アルジャントゥイユ(1101-64)の実話のロマンスを平民のサン=プルーと貴族の娘ジュリに置き換えたものだ。このアベラール、エロイーズとの恋愛で、彼女の叔父に局部を切り取られている。恐ろしい。

Sophie dHoudetot et Madame dEpinay à lErmitage

エピネー夫人とウードト夫人


ここにルソーとヴァラン夫人(ヴィラン男爵夫人と同じ)を重ねてしまう。ルソーの家庭教師時代、ヴァラン夫人との生活を終わりにして、パリに向かったルソーとサン=プルーが重なる。そしてラルナージュ夫人との官能的愛、ウードト夫人への恋。

「告白」によれば哲学者グリムがルソーの庇護者であるエピネー夫人の愛を獲得するために、ルソーを陥れたとあるが、妄想の告白かもしれない。だがそれとともにエピネー夫人ともその義妹ウードト夫人との恋も終わる。

それでとにかく「新エロイーズ」の「メーユリ巡礼」までようやくたどり着いた。ルソーの論文や社会契約論の方がマシ。

長編だから、「自然」でよく引用されている3つの部分だけをトピックした。恋愛小説だけれど恋愛抜き。欲望についても無視。物語のあらすじや人物像もなしで。

まず「シャレー」(酪農小屋)での逢引の失敗、ジュリの部屋での快楽の一夜を経て、ジュリはヴォルマールと結婚することになり、サン=プルーは旅に出る。

そして後半は、7年ぶりに帰ってきたサン=プルーは、ヴォルマール夫妻の子供たちの家庭教師となる。まるでフランス革命時のカミーユ・デムーランとリシュルみたいだ。

結婚したジュリとヴォルマールが営むクラランの農場。サン=プルーがそこで感じたことは何か。


クラランの農園  Clarens




Julie embrasse Saint-Preux (Nouvelle Heloise, Londres [1781] fig1) - Marillier

サン=プルーを抱擁するジュリ


「庭園が菜園となって、樹墻に取揃え、雄鶏のときの声、家畜は鳴き、荷車の音、田園の食事、農園の労働者たち、それからあらゆる農具、それらがこの田舎の家を今までよりも歓喜と安楽に溢れている。」(引用、要約)

使用人には楽しみを与えるために、ジュリはいくらかの報酬も時々に与える。「自然の意図」だ。これは主従関係の信頼と尊敬が生まれる。だからこそ、陽気で歓喜に溢れ、安楽がある。

ここにルソーの思想の何があるかというと「自然の秩序」である。

たとえば葡萄の収穫と祝祭での音楽と歌声は、ジュリの夫ヴォルマールが考える「労働こそが人間のためにできている」という表われだ。だからこそ祝祭で喜び合うことができる。

つまりクラランの田舎の田園生活は、人の労働の喜びと自然が一致しているからこそ何もかも美しく見えるんだ。ここでは自然と人間と労働が論じられている。

ヴォルマール夫妻の農園では労働者は平等でありながら、身分をわきまえているところが面白い。これは「社会契約論」の人民の一般意思であり、ルソーの理想郷(ユートピア)だ。


ジュリの果樹園 「エリゼの庭」 L’Elisée


Jean-Frédéric Schall (1752 ? 1825) et sculptée par Augustin Claude Simon Legrand (1765 - 1815). Elle est intitulée :  L’Elisée  et illustre la Lettre XI De St Preux à Milord Edouard de la Nouvelle Héloise de J. J. Rousseau

エリゼの庭のヴォルマール一家、クレール、サン=プルー


そして次。楓の知りたかったところだと思うけど、彼女の記事に間に合わなかった。(笑)

野趣溢れるジュリの果樹園。これがイギリス式庭園の「ありのままの自然」とされる「エリゼの庭園」だけれど、「ありのままの自然に見える庭園」なんだ。

「究極の人工による自然の回復」で、人工の庭を人工で自然に回復するということだ。

サン=プルーが「ありのままの自然」の美しさと見間違えるのは、その人為的なものがすっかり消えるまで人為的につくられたからだ。いわゆるピトレスク趣味。

面白いのがサン=プルーは、この「エリゼの庭」の賞賛を自然そのものへ奉じるのだけど、ジュリはその庭園の賞賛はジュリ自身にあると言う。しかも「エリゼ」と名づけたのもジュリだしね。

このルソーの「ありのままの自然」に批判も多い。

一見自然に見えるものの、そこに生息しない植物や、土地柄あるわけがない洞窟や岩、森はもっとも不自然だという見解だ。「自然の秩序」が不自然だということだ。

物語的には、ここでサン=プルーは心地よい夢想にひたるわけだ。この「エリゼの瞑想」を、サン=プルーは「正しい瞑想をすることは悪人の決して知ることのない幸福だ」という言葉を残した。これは「一人でいるのは悪人だけ」というディドロへの答えになる。


 ラ・メーユリー (ラ・メイユリー) la Meillerie



Claire console Julie (La Nouvelle Heloise, OC Furne 1837 fig3) - Deveria

ジュリとクレール


ジュリとサン=プルーはヴォルマールによって統治された。自由意志の名のもとに。

つまり、ジュリとヴォルマール、クラランの農場の主従関係は「エリゼ庭」のように、人為的な統治が人為的に見えずに成立している。

ジュリには平和で幸せな家庭という報酬、使用人には楽しみのための報酬だ。その報酬とはジュリの場合は過去の情熱から貞淑な妻という義務を覚え、母性を覚える。

彼女の自由意志による貞淑な妻、母性はヴォルマールの家庭を統治している力のためだ。だからサン=プルーとの「肉欲」は「理性」に変わる。これもヴォルマールの統治の秘訣だ。

ヴォルマールの次の統治は、ジュリとサン=プルーの思い出に場所メーユリー(メイユリ)で、二人の過去と現在の違いを認識させる。

Julie et Saint-Preux a Meillerie - Wheatley 1788

ラ・メイユリーの岩に刻まれたイニシャル


氷のような険しい岸壁と深淵。この湖上で嵐にあうサン=プルー。ラ・メーユリーの岸での一息するところに、岩陰の隠れ家が再び肉欲を蘇らせる。

岩にはジュリとイニシャルがあった。

ヴォルマールの統治は、「過去と現在の相違の認識」だったはずが、二人は「変化」を認識する。

一方、ジュリはクレールがサン=プルーに恋心を抱いていることを知り、二人を結婚させようと考えていた。

ところでサン=プルーはジュリの死の夢をみる。ジュリは湖に落ちた子供を救ったあと病になり、結末の死を暗示し、その床でジュリはサン=プルーを愛していると告げ、ヴォルマールの統治に至らなかった。


ジャン=ジャック・ルソー とマルキ・ド・サド 美徳と悪徳



ルソーは実に美しい筆使いで、花々、湖、木々、荒々しさ、岩山なんかを書いている、というより描いている。引用要約はやめたので、実際に興味のある人は自分で読んで。

ちなみに、「ジュリ、あるいは新エロイーズ」という題名だけど、このルソーの「新エロイーズ」をパロディにしているのが、ラクロの危険な関係。

サド侯爵の場合は「ジュリエット物語 あるいは悪徳の栄え」、「ジュスティーヌ物語、あるいは美徳の不幸」の縮小版みたいな「悲惨物語 ユージェニー・ド・フランヴァル(ウジェニー・ド・フランヴァル)」がパロディかもと思った。

フランヴァルは若く夫人と結婚し、その間に誕生したのがユージェニー(ウジェニー)で、近親相姦をするために特別な教育をする。

SADE, Marquis de - Eugenie de Franval -Valentine Hugo 1948

悲惨物語 ユージェニー・ド・フランヴァル(ウジェニー・ド・フランヴァル)
マルキ・ド・サド サド侯爵


ユージェニーが16歳くらいで、はじめて夫人はその事実を知る。このフランヴァルとユージェニーは、フランヴァル夫人に恋人をけしかけるが、夫人の美徳で思うようにならない。

結末は夫人の死である。そうして司教の前でわざと自殺をするフランヴァル。その血をわざと夫人の遺体だったか棺だったかに浴びせるように。自殺と美徳の夫人に対する冒涜の結末だ。

死んでから一緒になるというひとつの美談が「アベラールとエロイーズ」の結末で、「新エロイーズ」の結末はジュリの最後の愛の告白に死後に結ばれるような暗示、そしてサドの「悲惨物語 ユージェニー・ド・フランヴァル」はフランヴァル夫人の遺体に向けてフランヴァルの自殺。

サドの記事でも書いたが、悪徳や美徳を中心に二人は書いている。対極の二人だ。もっともサドはサディズムの語源、ルソーはマゾヒズムな趣味を持っていたからね、ちょうどいい対極になった。


 サドのサディズムとルソーのマゾヒズム



さて究極の対極。サドのサディズムとルソーのマゾヒズム。どちらも性倒錯者でよいと思う。

サド侯爵については過去記事を読んでください。
過去記事 「サド侯爵 マルキ・ド・サド

サド侯爵の場合もルソーの場合も事実である。僕はサド侯爵では程度の問題で、これはやはり有罪となるべきようなものだと書いた。死刑判決は二度。どちらも悪運が強く免れている。ただ、死刑になるかどうかは別問題。

ルソーはシトワイヤン(市民)に属していたが下層市民である。

母の死、父の失踪で、ルソーははじめて田園生活を経験する。告白では自然の趣味にめざめた。

「村ですごした二年間にわたしのローマかぶれしたいかめしさはやわらぎ、ふたたび幼児の状態にかえった。」

1722年、10歳から1724年の12歳の頃だ。

この少年時代にルソーはまったくの無実でとがめられたことがあった。はじめて他人を、そして社会を意識したのは、その怒りだろう。壊した櫛はルソーではない。だが彼は怒りを昇華に置き換えることができなかった。

従兄弟と新教のランベルシエ牧師に預けられた頃で、ランベルシエ嬢の櫛が壊れていた。彼女はルソーを激しく折檻する。これがルソーのマゾヒズムのはじまりで、露出すれば誰かに折檻してもらえるという説がある。

僕的にみれば、牧師もランベルシエも、ルソーを大切にしてくれていたのではないかと思う。だからまさか、自分が櫛を壊したと疑われるとは思っていなかったのだろう。

Rousseau With Madame Dupin Confessions Aldus-Maurice Leloir

ルソーとデュパン夫人


父性と母性を二人に感じていたのではないか。それがこの仕打ちに対しての復讐が、露出癖に発展したのかとも考えた。

1725年の13歳から時計彫刻師アベル・デュコマンの弟子入りが決まった。酷使は虐待の恐怖を植えつけたのかもしれない。(折檻にマゾヒズムを感じるのは女性だけだったのか?)

1726年14歳のルソーは雑書の乱読、孤独癖、空想癖が根付いていた。

このあたりがルソーの露出癖、強姦未遂で逮捕という時代ではないだろうか。

1728年頃、ルソー16歳の「リボン事件」のことだ。「薔薇色と銀のリボン」はヴェルチェリス夫人の遺品だった。それを女の関心を引こうと盗んでいる。

ルソーは女性だけではなく、人との関わりがお粗末だ。

彼は悪習や程度の悪い書物、そしてプルタルコス、プラトンを読み、放浪の生活、自己陶冶、生活体験を積んだ準備期間をへて思想家になった人物である。

浮浪者のルソーを拾ったのはヴァラン夫人だった。「リボン事件」が起こる少し前のことだ。彼女に修道院に入れられ、洗礼を受ける。修道院を出たあといくつかの職を転々とし、ヴェルチェリス夫人、そしてグーヴォン伯爵の息子の司祭の秘書を努める。

この1728年16歳から1732年の20歳までの4年間に、神学校、聖歌隊の音楽学校、放浪、音楽教師、山師(詐欺師)の秘書などを経験した。

浪費家で淫蕩家で野心家であったヴァラン夫人のもとで、ロック、デカルト、マールブランシュ、キケロ、カトー、モンテーニュ、パスカル。フェヌロン、そしてヴォルテールに及んでいく。

Francoise-Louise de Warens (1699-1762)

ヴァラン(ヴァランス)夫人


のちにこのヴォルテールと競うことになるとは思ってもいなかっただろう。

このルソーもヴァラン夫人に幻想を抱いてしまう。「ヴァラン夫人の果樹園」がそうだ。美化された生活と、美と知恵、詩と徳、高雅な趣味、悦楽。これが僕的に「新エロイーズ」の「エリゼの庭」を連想させるのだが。

1733年、21歳のルソーはヴァラン夫人の愛人の一人となる。

1735、あるいは1736年にヴァラン夫人とシャルメットに滞在し、哲学、数学、ラテン語などを教育される。

1737年 ラルナージュ夫人と官能的な恋をする。

30を過ぎてルソーはヴァラン夫人の元を去り、パリの社交界を目指した。1742年のことだ。こうしてディドロダランベールとも知り合うようになる。

2011年 ディドロの新記事 remove 「フランス革命200年 河野健二

さてルソーだが、彼のマゾヒズムは野暮である。サドのサディズムは洗練されている。

ルソーは山々に囲まれた酪農小屋や岩陰のあるその田舎のとある中庭で露出してきたのだろう。それが「新エロイーズ」のシャレー、 ラ・メーユリーの逢引場所になったのかも。

そしてサドの方は城館にバッカス祭と称して、演出を凝らし、まるで戯曲の場面のように鞭打ったのだろう。

貴族と下層の市民の違いである。そして貴族のサドは、その事件性とスケールの大きさから告発され、下層市民は言い逃れで済む小事件として逮捕にも至らなかった。


ヴォルテール ルソーの誹謗

Voltaire with Frederick the Great of Prussia

フリードリッヒ2世とヴォルテール


フランス革命時の人物伝には「中傷と迫害」はつきものである。とサド侯爵のところでも書いた。当のルソーはというと、あの宿敵ヴォルテールの暴露だ。

ホント、ヴォルテールはデリカシーがないよ。揶揄のセンスよりも意地悪で品がない。ルソーの「自然状態、自然人」をヴォルテールは「自然に帰れ」といわれるもとネタを知っている人も多いでしょ。

◆「あなたの本を読むと四つ足で歩きたくなったが、残念ながらその習慣は50年来廃止している。」

◆「新聞はルソーを王の像、王妃のしま馬と思うだろう。信徒とともに草飼いし、森でどんぐりを食べさせよ。」

ルソーは「森へ帰って熊といっしょに生活せよ、というのが論法だと思っている」と苦言を呈した。

◆「誰も理解できないルソーだけの宗教をつくるがいい。」

これさ、ルソーかぶれのロベスピエールがやっちゃったね。今度、別記事で。

◆「ルソーはディオゲネスの犬と不協和音の蛇との間に生まれた、彼らの直系子孫である。」

◆「餌をくれる人に噛み付く猿の方が、ルソーよりはるかに人間的で理性的である。」

◆「ルソーのフュームへの手紙をみると、イギリスで精神病院のベッドラムが病室を用意してくれなかったと嘆いている。あそこに暮らせるなら、さぞかし喜んだことだろうに。」

◆「ルソーは哲学者として叙級を受けたが直ちに下品に格下げするべきだ。」

◆「ロンドンのバーソロミュー フェアにでも出品して、ルソーを1シリングで売りとばせばよい。」

フュームとルソーの仲たがいから、ずっとこんな調子だ。こんなことを言うヴォルテールも下品に格下げだね。風刺が効いた揶揄が思い浮かばなかったんだ。

僕ならアリストテレスの「国家は自然によるものの一つであり、そして人間は自然によって国家的動物(ポリス的動物)である。」をもじるかも。

Jean-Jacques Rousseau with Therese Levasseur in Paris

テレーズとルソー


さて、ここまでは中傷の数々を紹介した。次は。

1745年、下宿の女中テレーズを愛人とし、10年間で5人の子供を産ませ、5人とも孤児院に送った。(wiki)

同じくwikiにあるのが「知的障害者に性的虐待を行い妊娠させ次々に捨てるなど」と重複されて書かれている。僕が知っているのはテレーズの子供たちだが、それと同じことを指しているのだろうか。

百科全書のダランベールも孤児院に捨てられた一人だ。

当時は乳母の時代で、捨て子ではないけれど、修道院なんかで養育させる貴族達も多い。この部分でルソーを正常な精神構造ではないとは断定できない。

乳母を雇い、乳母の子も別な乳母の元で暮らすなどの親子関係だった。貧しいものだけではなく貴族や市民の望まれない子も捨て子になる時代だった。

ヨーロッパが現代の日本のような家族団欒、子育ては母乳でという時代はもっとずっとあとだ。

日本もそうだ。森や野原に捨て動物に食べられる場合もあるし、寺や神社の境内に捨て子する時代があった。しかも年老いた親を捨てる「姥捨て山」もあったでしょ。どちらも貧しくて。

だが、ルソーの場合はそんなに貧しいわけでもない。最初の子が捨て子にされたのはルソーが不在の時である。

これはテレーズと産婆の間で取り決めたことかもしれない。それにしても第3子以降も続くとは、なんと不注意な男だろう、ルソーってさ。

ヴォルテール曰く
「孤児院に捨て子をしたのは、かの有名な子育ての書(エミール)を書いたものだとは。」

こういうときこそヴォルテール、もっと粋に言えば?「捨て子の理由は、四つ足で育て、自然に帰すためである」とかさ。

過去記事 
ヴォルテールの遺骸


ルソーの迫害と中傷、妄想の年表史


Jean-Jacques Rousseau, Genève 1712 ? Ermenonville 1778 (Vitam Impendere Vero) by Henri Gréber 1908

ジャン=ジャック・ルソー、
ジュネーヴ1712年−エルムノンヴィル1778年


1762年 ソルボンヌ神学部から告発され、エミールが焚書。ジュネーヴではこれに社会契約論も焚書。逮捕令が下る。プロシア大公領ヌーシャテルのモチェで、スコットランド貴族の庇護を受け、プロシアのフリードリッヒ2世の領内で隠居。

1764年 ヴォルテールの匿名の「市民の見解」で、ルソーの捨て子事件を暴露。

1765年 ジュネーヴで「山からの手紙」が禁書。パリで焚書。モチェで不和があり投石を受け、サン・ピエール島(孤独な散歩者の夢想がここ)へ移る。

1766年 哲学者フュームとイギリスに向かう。フュームと不和。フュームはこの一件を「争論に関する簡潔な報告」を発表。ヴォルテールはルソー誹謗の「パンソフ博士の手紙」を公表。この頃ルソーは迫害の妄想。

1767年 ミラボーのムードンの城館、コンチ公のトリーの城館に住む。女中テレーズを妹として暮らす。

1768年 被害妄想で逃走先のブールゴアンでテレーズと正式に結婚。

1769年 モンカンの農場で暮らす。

1770年 パリ オテル・ド・サン・テスプリに住居を定める。

1771年 エピネー夫人の策動で警察に干渉される。

1772年 迫害の偏執観念に悩まされる。

1774年 「対話」の原稿を神の手に委ねるためノートル・ダム聖堂に置くことを企てるが失敗。

1777年 生活苦。

1778年 エルムノンヴィルのジラルダン侯爵の領地で隠居。この年7月ルソー、66歳で死亡。5ヶ月前の2月、83歳でヴォルテール死亡。ルソーはジラルダン侯爵の庭園ポプラ島に埋葬された。この写真は楓の「
プチ・トリアノン」から。

そして1794年。


Un

パンテオンの偉人の墓に行くルソーとヴォルテール


1794年、フランス革命後にパリのパンテオンに移される。ヴォルテールの隣に並んで埋葬。


記事 パンテオンにおけるマラーとジャン=ジャック・ルソーとの大論争

 

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J・D・サリンジャーが死んでいた
作家 / SAI

 
サリンジャーが死んでいた。今年の1月ことだったらしい。アレキサンダー・マックィーンの死はおととい11日。

今年はあるモノ、ある時代をつくった人が死んでいく。

サリンジャーは僕が15歳の頃にちょっとした「小道具」で読んでいた本だ。もちろん「ライ麦畑でつかまえて」。

当時の僕らは「すかしたインテリ」を目指した15歳だった。いまは地下のどこかに麻紐に縛られて眠っている。彼の著作はいま書棚には1冊もない。

この人は長生きをした。ノルマンディー上陸作戦に参加した人だ。そして今年までは「生きていたヘミングウェイ」を訪問した数少ない生存者だっただろう。

彼はあの犯罪者の愛読書として有名なサリンジャーの「
I'm Crazy」(気ちがいの僕)をおしひろめた「ライ麦畑でつかまえて」が学校推薦図書になっている日本が面白い。


ジョン・レノンを射殺したマーク・チャップマン、そして「タクシー・ドライバー」に影響されてレーガン元大統領を銃撃したジョン・ヒンクリー。彼らも愛読していたという。

「最後の休暇の最後の日」ではホールデン・コールフィールドの兄ヴィンセント・コールフィールドが登場するなど、「気ちがいの僕」から登場したホールデン・コールフィールドはサリンジャーにとっては欠かせない人物だったにちがいなく、その足跡をしらしめるように残している。

彼の最初の登場は1941年の「マディソン街のはずれの小さな反抗」。

15歳だった僕にとって、遊びなれた大学生や高校生が出入りする喫茶でその本を仲間内で読むことは、その遊びなれたちょっとインテリな大学生たちに、「あれ、この子たちサリンジャーを読んでるよ。えらいえらい。」といわれる小道具だったのだ。

純粋、無垢という言葉と結び付けられているサリンジャーだが、それはもっと別な方面ではないだろうか。


神経衰弱で入院していたサリンジャー。ホールデンも精神病院に入院している「ライ麦畑でつかまえて」は、あとで読むことになったギュンター・グラスの「ブリキの太鼓」もそうだったが、二人ともイラッとするのだ、あらゆる普通の場面に。そしてなんのことはないものに感動する。不思議だ。

そして18歳以来目を通すことがなかったサリンジャー。

その死を知って70年代の僕のテイストをつくってくれた彼になんとなく哀悼の念がわいた。

記事「さよなら 謎に包まれた伝説の作家J・D・サリンジャー

サリンジャー ライ麦畑でつかまえてから名文句
記事「
さよなら J・D・サリンジャー
記事「
サリンジャー ライ麦畑編
記事「
サリンジャー ライ麦畑編に続く

 「作品を出版しないでいれば、驚くほど平和な毎日だ。何かを出版すれば私の個人的な生活がひどく脅かされることになる。私は書くのが好きだ。書くことを愛している。でも今は自分自身のため、自分の喜びのために書いているだけだ」 by サリンジャー
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詩人 ピエール・ルヴェルディ ココ・シャネル
作家 / SAI
ヴォルテールもそうだが、「愛」というテクストを必ず好むのはフランスの男たち。内容は揶揄であってもだ。

ラ・ブリュイエールの「愛は愛によってはじまる。そして強い友情から弱い愛へ移ることはできない」を解説までしてココ・シャネルに手渡したのは、 ピエール・ルヴェルディ。

ココの親友ミジアにも優しい手紙を書く男。



「どうぞ神様、わたしがいつまでも無名の詩人でありますように。」

辛辣で隠遁生活を送った貧しい詩人ピエール・ルヴェルディは、ココだけではなくアポリネール、サンドラール、マックス・ジャコブらに強い印象を与え、「洗濯船」のアンドレ・サルモンを知っている。ピカソ、ブラック、ホアン・グリスがいた。



後方左からジャック・ラカン、セシル・エリュアール、そしてピエール・ルヴェルディ、ルイーズ・レリスにパブロ・ピカソ、ザニー・カンパン、ヴァレンタイン・ヒューゴ、シモーヌ・ド・ボーヴォワール。手前左からジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトル、アルベール・カミュ、ミシェル・レリス、ジャン・オービエ。 by ブラッシャイ  (Brassaï 1944)

「彼女はおかしくなったよ。牧師を愛しているんだ」と仲間に打ちあけたウェストミンスターがいう牧師とはピエール・ルヴェルディだ。

ルヴェルディは聖職者といっしょに同じように暮らしていたからだ。






(detail)
by グラッティアーノ・オリガ(Graziano Origa)



シャネルはどうやらミシアと違い男を恐れさせる女のようだが、同性にも怖れを抱かせるようだ。何が彼女を孤高にさせ、孤独な女にみせるのだろう。

ピエール・ルヴェルディもココも「不良じみた」とマルセル・ヘードリッヒはいうが、少し饒舌なしゃれた会話ができ、くだけているけどサマになるふるまい。そして冴えた知性と気だるさ・・・そういう意味だと思う。





 Gabrielle Chanel


だからやっぱり気持ちが休まらない関係だったのか。ボイ・カペルより似合いだと思ったけれど。

最初に戻るが、ラ・ブリュイエール( Jean de La Bruyère)の「瞑想録」の一節を解説した手紙を渡したという文面をここに。

「−(略)−しかし彼は、大きな愛が不滅の友情に移りえるとは言っていない。ぼくは友情なくしては本当の愛はあり得ないし、愛なくしては大いなる友情もあり得ないと書いた(この愛とは男同士の愛のことで、愛という言葉はここでは固有な意味を持っている。)





ラ・ブリュイエール1645−1696
by ニコラ・ド・ラルジリエール(Nicolas de Largillière)

「人生にはただ三つの事件しかない。生まれること、生きること、死ぬことである。生まれるときは気がつかない。死ぬときは苦しむ。そして生きているときは忘れている。」の名言の人。

続き
この男のものを読んだあとでこういった種類のことを書くには、かなり心臓が強くてはならない。ラ・ヴリュイエールの「性格論」を買って読んでご覧なさい。(あなたの書斎にそれがあるならば、取って読んで御覧なさい)

ラ・ロシュフコーの「箴言」とシャンフォールの「箴言」も、ときどき夜、目を通してみるとよろしい。」



Pierre Reverdy (Broché)
by Gérard Bocholier


ピエール・ルヴェルディは若い娘に教訓的なものも時々読みなさい的な文面で送っている。ところが彼女は自分が書いたいくつかの箴言をピエールにみせていたらしい。その彼女はミジアなのかココなのか迷ったが、ココだとする。

なぜかというとひとつ気になる言葉を残しているからだ。

「煉獄は、すべてをこの世に残して行かねばならないと考えたときにすでに始まる」 
  by シャネル ?

ダンテの神曲を読んでいたのだろうか、まさか。




 Dadaist 「Le Voleur de talan , roman」 1917年
by  ピエール・ルヴェルディ


せっかくの箴言の調べをシャネルはテクストにすることもなく、またその言葉をデザインすることもなかったが、詩人ピエール・ルヴェルディは、テクストをデザインした。

パリ・ダダ(1919年頃-1924年)がはじまる前、 ノルド-ズッド"Nord-Sud (North-South)"をマックス・ジェイコブ、ギヨーム・アポリネールと結成し、ダダイスト(Dadaist) を含んだ「反既成、反秩序、反常識」的なテクストやアートをつくった。

当時の画家たちは「ノルド-ズッド」というタイトルの作品を描いている。




17th  ジョージ・ハーバート作 
翼の形をした詩「復活祭の翼」


英国ではルイス・キャロル(Lewis Carroll)が、視覚的形態を取り入れた「不思議の国のアリス」第3章「
長い尾話(a long tale)」の詩がある。遡れば17世紀のジョージ・ハーバード(George Herbert)の祭壇のかたちでテクストを並べた「犠牲」、そして画像の「復活祭の翼」がある。

彼らとは違って何がしの形がわかるテクストではなく、反秩序な視覚的形態だ。

ダダ的な形態の翌年、画家の挿絵による「Les ardoises du toit」(スレート屋根)を発表。画家とはジュルジュ・ブラックだ。そして 「Matisse Les Jockeys」(女性騎手)はアンリ・マティス。




Nord-Sud by Pierre Reverdy
この表紙の作品がピエール・ルヴェルディの
「スレート屋根」のジョルジュ・ブラックの挿画




1918 Les jockeys by Pierre Reverdycamouflés
Matisse Les Jockey アンリ・マティスの挿画



ジョルジュ・ブラックは

 

La liberté des mers 海洋法?
詩人 ピエール・ルヴェルディ
画家   ジョルジュ・ブラック


41pと62pから。左41pは、ディドロ&ダランベールの「百科全書 カリグラフィー 飾り文字」のページにあってもおかしくないかも。

ブラックもピエール・ルヴェルディも18世紀の百科全書を読んでた?

百科全書序論 から 人間知識の系統図 想像力編
そして最後はパブロ・ピカソ

 

“Le Chant des Morts (The Song of the Dead).”


ピエール・ルヴェルディは結構すごい画家たちとコラボしていたんだ。
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ルイス・キャロル アニー・リーボヴィッツからユークリッドへ
作家 / SAI

Natalia as Alice Liddell and Olivier Theyskens as Lewis Carroll

「Alice」 VOGUE 2003
by アニー・リーボヴィッツ (Annie Leibovitz)


この人はご存知のアニー・リーボヴィッツ。この人ほど「絵画」に近い写真家はいないだろうと思う。17世紀から19世紀に多く描かれた作品を思い浮かべてしまう。

記事ネタはfu-のティム・バートン「不思議の国のアリス」からだけど、fu-のアップしたものは「鏡の国のアリス」の作品だ。KAFKAでは第6章の豚と胡椒をアップしている。これはなかなかがんばった!(笑)

さて、このシーンはルイス・キャロルとアリスの冒頭シーン。モデルはナタリア・ヴォディアノヴァ。ルイス・キャロルはデザイナーのオリビエ・ティスケンス。たぶん彼がデザインしたドレスを着ていると思われる。掲載はヴォーグ。

このアリスはジュリア・マーガレット・カメロンの残したアリス・リデルの表情も意識しているようにも思う。

だが、アニー・リーボヴィッツは、キャロルの残したアリス・リデル、アレクサンドラ・キッチン(Xie)を想像させ、さらに神経質そうなキャロル自身まで写し出している。

当時の社会的な不名誉とされた病気をもち、これは現代ではまったく関係ないんだけれど、性的なものと結び付けられていた癲癇(誤診だとも)のこと。これに複数の病を背負っていたというのだから、ものすごい内面のエネルギーがある人物なんだと思う。それが神経質そうに見えるのだろうか。



オリビエ・ティスケンス演じるルイス・キャロルもアマチュア写真家で有名だ。

ドジソンはというと僕らとあんまり変わらない腕前ではないか、と思う写真もあるが。

そこへいくとプロというだけでなく、アニー・リーボヴィッツはすごい。オリビエ・ティスケンスを本物のルイス・キャロルに仕立ててもいる。

19世紀英国で生まれたチャールズ・ラトウィッジ・ドジソン(ルイス・キャロル)は、数学者で論理学者文学者でアマチュアの写真家だった。

モリスの友人や賛同者といった仲間たちの一人にフレデリック・ホリヤーという写真家がいる。彼は久しくドジソンの友人でもあったが、「ほんの数日前までドジソンが”不思議の国のアリス”の作者だと全く知らなかった」という手紙が残されているらしい。

ところがイギリスに実際に行って、これってドジソン氏(ルイス・キャロル)が撮影したのか?という少女の写真が何枚かみる機会があった。なぜならあまり粉飾された写真でなかったからだ。



芸術家や司祭の娘たち。すべてドジソン(ルイス・キャロル)の撮影によるもの。

左上 彫刻家理リチャード・ウェストメイコットの娘、アリス
右上 司教の娘 フローレンス
右下 画家アーサー・ヒューズの娘 エイミー
左下 司祭の娘 ビアトリス

アーサー・ヒューズとも交流があったんだ。

ドジソン(ルイス・キャロル)には、現在も名を残している芸術家や文学者、詩人などとの交友も多い。そのドジソンの交流には桂冠詩人アルフレッド・テニスン(1809−1892)もいた。

崇拝し続けたテニスンだ。ところが些細なことでいがみ合う。なにがドジソンを幻滅させたのだろう。

Lewis Carroll and Poet Laureate Tennyson 
ルイス・キャロルと桂冠詩人テニスン





テニスンの姪  ドジソン(ルイス・キャロル)撮影
赤頭巾に扮したアグネス


テニスンの「二つの声(声二つ)」をパロディにした「三つの声(声三つ)」は、テニスンと出会う前のことだ。

1870年、ドジソンはテニスンに彼の未発表の「窓」という写しを持ちたいという手紙が発端だ。ほんの少し待てば、テニスン自身は気に入らない詩だったが出版されたわけだtから。

テニスンの夫人からの手紙は、テニスンを怒らせ、事情を理解すべきではないかという返事だった。その後の二人の間に水掛け論のような手紙がやりとりされている。

こうして、崇拝していたはずのテニスンとの関係は終わる。

1892年の彼の死に対し、ドジソンは一行限りで「テニスンが死んだ」と日記に残している。




Salvador Dali Alice in Wonderland 1969
「Alice」
(C)Random House-Maecenas Press刊
ダリの不思議の国のアリス 「アリス(黄金の午後)」



「少女は何で出来てるか。甘みに苦み、それに一杯すてきなもので」という童謡があるが、ドジソンは「少女」ではなく「子供」が好きだったらしい。それにしても「少年」の写真は少ない。しかし少年への手紙も残っている。

「少年」を嫌っていたという話がある。

「僕にとって彼らは魅力のある人種とは言えません。(小さい時分、自分が厭でたまりませんでした。)」

「少年たちというのは僕向きじゃありません。少年など悪い冗談ではないでしょうか。」

これはドジソン自身の言葉だ。

ハドスンの著書(訳:高山宏)に、「結婚して息子ができてしまったら、と思うと真っ暗闇だ。」という意見が述べられていたのを見て吹き出した。

彼は少女になりたかったのではないか。




教師時代のドジソン(ルイス・キャロル)



Lewis Carroll and Pre-Raphaelite Brotherhood  
ルイス・キャロルとラファエル前派


さて、ドジソンは子供に負けないくらい、芸術家たちを愛した。特にラファエル前派の中心、ロセッティ、ミレー、ホールマン・ハント、アーサー・ヒューズ。

ハドソンの著作には、ドジソンの絵に対する趣味は保守的で規律にうるさいとある。

ドジソン(ルイス・キャロル)とダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの出会いは、彫刻家のアレグザンダー・マンロウの紹介。

詩人でロセッティの妹クリスティーナ・ロセッティの「妖精の市」のファンでもあった、ドジソン。彼がロセッティのなかで一番気に入ったというのが下記作品。




ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)
「見つけ出された娼婦」 未完



これはロセッティ追悼展で展示されたもので、「最高の出来栄えを示す部分のひとつ」らしい。これはドジソン(ルイス・キャロル)の日記に綴られていると聞いた。

そうかな。画像が悪くて申し訳ないが、ちょっとがっかりな作品。

ジョン・エヴァレット・ミレーに対しては作家ディケンズと同じ見解に立っていたらしいが、ホールマン・ハントのつてで会うことになり、たいへん気に入ったという。

ミレーの「はじめての説教」のモデルが娘のエフィー嬢だとドジソンはすぐにわかったらしい。



left My First Sermon 「はじめての説教」1863
right My Second Sermon 「二度目の説教」1863-64
by Sir John Everett Millais




鏡の国のアリス 挿画 ジョン・テニエル(John Tenniel)


政治的風刺がテニスンによって描かれていると議論の種になった挿画。折り紙帽こそ彼ら政治家の「白書」(トルネコの白紙の巻物を思い出す)の象徴とされ、この人物はベンジャミン・ディズレイリ(Benjamin Disraeli)に似ていると噂になった。
ハドスンの著作本には、マーティン・ガードナー (Martin Gardner)が、ミレーの説教の対画から、テニエルは影響を受けていると書いていたが・・・・。




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オーガスタス・レオポルド・エッグ(Augustus Leopold Egg )
「旅の仲間」(The Travelling Companions)1862年

膝に置いている帽子。ミレーの「説教対画にもみられる。
同じ帽子をアリスは被っている。
背景の窓はこの作品に違いない。
この絵を指摘したのは・・・。
www.alice-in-wonderland.netの訪問者。


背景の窓がオーガスタス・レオポルド・エッグの影響が強い。アリスは二度目の説教のエフィー嬢と同じマッフ(マフ)を手に、足元も同じだ。

不思議の国のアリスの記事で 「豚と胡椒」の意訳と挿画はこちら。
KAFKA 不思議の国のアリス 第6章から。

この記事では、スプーナリズムの手法の箇所のほか、公爵夫人の子守唄に使われた、ディビット・ベイツの子守唄もご紹介。

そして意訳とともに、挿画はジョン・テニエル(Sir John Tenniel)、アーサー・ラッカム Arthur Rackham、ベッシー・ピース・グットマン(Bessie Pease Gutmann)、A.E.ジャクソン(A.E. Jackson)、ウイネッド・ハドソン(Gwynedd M. Hudson)を用意し、作場知生さんのアリスは新樹社から画像引用がある。そしてティム・バートンのチェシャ猫。他のテニエルの作品などあり。

Art Owned by Lewis Carroll  ルイス・キャロルが所有していた作品





Art Owned by Lewis Carroll
ルイス・キャロルが所有していた作品

「リラの花と貴婦人」1863年
by アーサー・ヒューズ(Arthur Hughes)


アーサー・ヒューズとは親友だったらしい。

この作品は、オックスフォードの自室に飾るために購入したという。

全然、僕の趣味と合わない。

アーサー・ヒューズなら、もっと他にあるでしょうという意味で。

ソフィー・アンダーソン(Sophie Anderson)の「リラの花の少女」も趣味だったらしく所有。下記作品。




Art Owned by Lewis Carroll
ルイス・キャロルが所有していた作品

「リラの花の少女」 1865年
ソフィー・アンダーソン(Sophie Anderson)


僕の趣味じゃない。

ドジソン(ルイス・キャロル)はよほどこの画家を気に入っていたのか、「Minnie Morton」(1864年)をメアリーへの結婚プレゼントにしたという日記。

6 April 1869: “My picture of ‘Minnie Morton’ (which I have given to Mary as a wedding present) is now with Mrs Anderson, to be copied. And two other pictures are at Mr. Heaphy’s, nearly finished, one the “Dreaming of Fairy-land,” which he has altered greatly (the original attitude was awkward and unintelligible), the other of a child’s head, which I had noticed as a rough sketch, and which he has turned into an infant St. Cecilia.”

日記にある「聖セシリア」はトーマス・ヒーフィーの作品でも購入している。彼の作品は「夢の妖精の国」も同じ1869年に所有。

僕、なんだか萎えました。サンローランのコレクションのほうが見ごたえがあったな。

さて、ラファエル前派も写真を撮るドジソンを歓迎していたようだ。「芸術家」としてだが。

このラファエル前派もルイス・キャロルと知らなかったようで、のちに偶然知ったという訳で、そこがなんだか面白い。

ルイス・キャロルの手紙
僕の数学の本について知りたいというから、以下に”作品”のリストを紹介します。
  1. 科目一覧など(完了)
  2. ユークリッド注記(完了)
  3. 代数注記(・・・今週出版)
  4. 例題集大成、純粋数学(約1/3完了)
  5. 公式集成(1/2完了)
  6. 記号集成(はじめたばかり)
  7. 全4巻の代数的幾何学(1巻の1/4完了)

  すごく多いだろ。
  
  (引用:ロビン・ウィルソン、訳:岩谷 宏)


ドジソンがコレクションしていた絵画より、ずっと面白そうだ。

このなかで何が一番書きやすいかな。


Lewis Carroll and Euclidean geometry
ルイス・キャロルとユークリッド幾何学



古代エジプトのギリシア系哲学者ユークリッド(ラテン語名エウクレイデス)の著書「原論 (ラテン語Template:Lang-ei-short)」に由来するユークリッド幾何学(Euclid's Elements)を紹介する。

ちなみにこの分野の専門家ではないので、ご了承ください。また読みやすい関連図書で東京大学出版会、岩波書店から手にすることは出来ます。原書は吐きそうになりますが、ユークリッド原論(縮刷版)は共立出版、エウクレイデス全集は東京大学出版会です。

ドジソン(ルイス・キャロル)は、批判も多いユークリッド幾何学の擁護派。


アデラード (Adelard of Bath バースのアデラード)が、アラビア語からラテン語に翻訳をしたものの口絵。12世紀のものらしい。

ドジソンは、この原論を高く評価はしていたものの欠落や不正確な箇所を補うための小冊子を出している。

幾何学のパロディに、「政党粒子の幾何学」(1865年)のものは、オックスフォードの代表議員選出の風刺で展開しているもの。

ユークリッドの命題、「等しくない二つの量は別の同じ量に対して大きい方は小さい方よりも大きい比をもち、後者は小さい方に対して大きい方よりも大きい比をもつ。」(命題V-8)にあてはめてよいものか自信がないが、この命題のパロディかと思われる部分があった。

率直な怒りとは、考えが互いに異なる2人の投票者が出会ったときのそれぞれ相手に対する気分である。愚鈍な怒りとは、正当な怒りよりも大きい怒りである」

ところが、ユークリッドの「形」(1巻にある)の定義のパロディだという。

Plain anger(率直な怒り)はユークリッドのPlain anger(平面角)であり、obuthse anger(愚鈍な怒り)は、ユークリッドのobuthse anger(鈍角)で、掛詞で遊んでいるわけ。

「不思議の国のアリス」、「鏡の国のアリス」にもこうしたパロディがでてくると思うが、邦訳の本と比較をすると、アリスのようにとんでもない勘違いを起こしてしまう。

なんでも原典を読まなければ意味ないんだ。・・・(ツライ!)

ちなみにドジソンのユークリッドも読むことができる。Euclid and His Modern Rivals(ユークリテッドと現代のライバルたち)で、邦訳はされていないと思う。




?Alternative Postulate?代替公準
Charles Lutwidge Dodgson aka Lewis Carroll


これは同じユークリッドの公準を考えたもの。ドジソン(Charles Lutwidge Dodgson aka Lewis Carroll) の代替公準で、「どの円においても、その円に内接する正六角形は、その外の切片のどれよりも大きい。」
引用 Lewis Carroll in Numberland by Robin Wilson 訳:岩谷 宏)


岩谷宏氏の翻訳がわかりやすい。つい参考にしてしまう。数学をパーフェクトに理解していないと、うまく訳せない。

これは「原論」の 第五公準で、非ユークリッド幾何学を生む。この公準(平行公準)が成り立たないというのがユークリッドの幾何学だ。

直線が2直線と交わるとき、同じ側の内角の和が180度未満である場合、その2直線が限りなく延長されたとき、内角の和が180度より小さい側で交わる。 (第五公準) by wiki

それでドジソンは平行線の新理論ということで、「六角形の内部の面積は、その六角形とそれに接する円との間にある6片の図形のどれよりも大きい」(訳:岩谷 宏)というのを示したのが、この図。

ドジソンお得意のパラドックス (paradox)だろうか。

間違った推論でありながら、妥当に見え、受け入れがたい結論を出すというパラドックス。

この手法はアリスにも用いられている。ウミガメモドキだ。

アニー・リーボヴィッツ VOGUE の不思議の国のアリスからどうぞ。

ところで、たびたび不思議の国のアリスでは、シェークスピアの台詞をパロディにしているのではないかと思うところがある。


ユークリッド(エウクレイデス)とアテナイの学堂



さて、このユークリッド、ラファエロが描いた「アテナイの学堂」の集団肖像画に描かれているが、アルキメデスともいわれている。




アテナイの学堂(The School of Athens)
ラファエロ・サンティ(Raffaello Santi)


この手前左側のグループにユークリッド(エウクレイデス)、もしくはアルキメデスとされているのが、コンパスでかがんでいる人物だ。


僕は石版にコンパスを持つのは、ユークリッド(エウクレイデス)と信じて、その右隣に後ろ向きに立つのが地球儀をもつ天文学者トレミー、そのむかえは天球儀をもつ占術学者ゾロアスター、その右が画家ラファエロの自画像で、古代ギリシャの画家アペレスをあらわしている、そしてラファエロとトレミーにはさまれているのが、画家ソドマあるいはティモテオ・ヴィティ (Timoteo Viti) をモデルにアペレスの同時代の画家プロトゲネスを描いている。




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ついでながら画像は大きく全体像になるので、描かれている人物を紹介しておく。

中央にいる二人は、左が「ティマイオス」をもつプラトンと、レオナルド・ダ・ヴィンチがモデルのエティカをもち天を指すアリストテレス。




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中央二人の前方には、左がミケランジェロをモデルに哲学者ヘラクレイトス、階段には異名をもつ犬儒派(キュニコス派)の樽のディオゲネス。




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一人忘れていた。右側上段に位置する人物。女神ミネルヴァの彫刻の真下に立つ。 プロティノスではないかという?マークで。



中央から左へ。一番左の横向きがソクラテス、隣が政治家アイスキネース、古代ギリシャの哲学者アンティステネスあるいはソクラテスの弁明の著者クセノポン。そしてあまりにも姿が違うが、次の人物もクセノポンあるいはアンティステネス。そして甲冑姿はアルキビアデスあるいはアレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)となる。左前方4人が判明。




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うえのメンバーの下方に位置するパーティ。一番左から、キプロスのゼノン、そしてなにやら記しているエピクロス、マントヴァのフェデリーコ2世?、手前にきてボエティウスあるいはアナクシマンドロスあるいはエンペドクレス 。この手前の後方でのぞきこんでいる素振りの人物がアベロエス。その手前で書き込んでいる人物がピタゴラスの定理のピタゴラスだ。ユークリッドとは反対に位置してる。そしてスラリとした白い衣の人物はエジプトの女性数学者ヒュパティア。ウルビーノ公フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレがモデルとされているが、隣のパルメニデスの間違いじゃないかな。


 ルイス・キャロルとシェークスピア 歴史劇リチャード三世 



第8章 女王陛下のクロケット場(クロッケー場) “The Queen's Croquet-Ground”では、最初の場面は白い薔薇を赤い薔薇に塗り替えているトランプの庭師。



Arthur Rackham, 1907


赤でも白でも薔薇は薔薇。と思うのが僕的読み方で、つい、ロミオとジュリエットの「名前が一体なんだというのだ?薔薇と呼んでいるあの花は、たとえ呼び名が違えども、香りが違うわけじゃない。」という台詞を思い出す。

シェークスピア(1564?-1616)では、薔薇戦争のヨーク家の白薔薇、ランカスター家の赤薔薇を象徴する歴史劇がある。リチャード三世もそのひとつ。

QUEEN MARGARET
'And turns the sun to shade; alas! alas!
Witness my son, now in the shade of death'

先王ヘンリー六世妃マーガレット
「ああ!その陽は翳り沈んでいく。
ああ、御覧なさい。その死の陰に隠れてしまった息子を。」(意訳)

シェークスピアもSUNとSONで遊んでいるようだ。

鏡の国のアリスで、アリスと意味論をかわすハンプティ・ダンプティ。これがリチャード三世をあらわしている。




Sir John Tenniel



ハンプティ・ダンプティの由来の諸説は多々あるが、ボズワースの戦いで愛馬ウォールから転がり落ちたリチャード三世。

'A horse, a horse, my kingdom for a horse'

「馬はどこだ、馬をわたせ。馬をわたせば世の王国を賜ろう。」と言ったらしいが、この戦争で戦死。

もうひとつ気になるのが、テニエルの挿画は壁のうえ。諸説には城壁を乗り越える古代ローマの攻城兵器テステュードが由来の話しもあるので、テニエルはこうした説を基に仕上げたのではないか。

不思議の国のアリスの場面では、ハートの女王がアリスに“Off with her head”と叫ぶが、シェークスピアのリチャード三世でも「この者の首を撥ねよ」(“Off with her head”)という台詞がある。

どうやら、このハートの女王陛下は、シェークスピアのリチャード三世をパロディにしているのか。粛清するチャード三世を。リチャード三世の治世は混乱。そして彼は暴君と呼ばれた。

それでルイス・キャロルは「この者の首を撥ねよ」とハートのクィーンに叫ばせたのか。

そうじゃない。もっとシンプルな理由。

ハートのクイーンが首を撥ねろと叫ぶ理由  ユディト(Judith)



もともとトランプのカードでは、ハートのクィーンは「ユディト」で、実はクィーンではない。

ユディットは敵の男ホロフェルネスの首を撥ねた勇敢な女性だ。カードの歴史では、フランスがはじめて名を知られている人物を絵札にした。

こうしたことをルイス・キャロルは知っていたわけだから、ユディットであったハートのクィーンに、シェークスピアのリチャード三世の言葉を叫ばせたわけだ。



Salvador Dali Alice in Wonderland 1969
「The Queen's croquet ground」
(C)Random House・Maecenas Press刊
ダリの不思議の国のアリスから

Courts on playing cards
ここからイギリス版、フランス版の人物由来のキングとクィーンのカードが見れる。

ちなみに他のカードは
ハートのキングフランク王、ハートのクィーンはユディト(Judith)、ハートのジャックはステファン・ド・ヴィニョル(Stephan de Vignolles)Akaラ・イール(La Hire)。

スペードのキングはダビデ(David)、クィーンは女神ミネルバ(Pallas, Minerva)、ジャックは勇士オジエ(Hogier)。

ダイヤのキングはジュリアス・シーザー(Julius Caesar)、クィーンはヤコブの妻ラケル(Rachel)、ジャックはアーサー王の円卓の騎士ローラン(Roland)。

クラブのキングはアレキサンダー大王、クィーンはアルジンヌ(Argine)。レギナ(Regina 王妃の意味)のアナグラムだ。ジャックはアーサー王の騎士ランスロット(Lancelot)。

というわけです。

サンドロ・ボッティチェリ ユデット
ヤン・マセイス ユディト(ユディット)

ところで、ユークリッド擁護のルイス・キャロルと知るなら、この不思議の国のアリスの第8章で、僕がもっとも気になっているのがどこだかおわかりの方もいるでしょう。

チェシャ猫が胴体を消してニヤニヤ笑いを浮かべている。今度はキングが、チェシャ猫の首を撥ねてしまえと叫ぶ。

The executioner's argument was, that you couldn't cut off a head unless there was a body to cut it off from: that he had never had to do such a thing before, and he wasn't going to begin at HIS time of life.

死刑執行人が言うには、
首を撥ねるのにも首から下がないわけで
ないものから撥ねるとは、生まれた時から一度もない
この歳になってまで、そんな無茶はしたくない


The King's argument was, that anything that had a head could be beheaded, and that you weren't to talk nonsense.

キングが言うには
首があるなら撥ねられる。戯言言うな。


The Queen's argument was, that if something wasn't done about it in less than no time she'd have everybody executed, all round. (It was this last remark that had made the whole party look so grave and anxious.)

クィーンが言うには
即刻執行しなければ、皆の首を撥ねてしまえ。(みなが真っ青になったのは、最後の言葉だったんだ)




Gwynedd M. Hudson, 1922



ドジソン(ルイス・キャロル)の論理学って?



つまり三段論法になりませんか?

前提
胴体がない首は撥ねられない
首があるなら撥ねられる

結論
胴体のある首は撥ねられる。

共通項を取り除いて結論を出す。

四つの正方形に
Y=首は撥ねられる、not-Y=首は撥ねられない
X=胴体がある、not-X=胴体がない

XY=胴体がある首は撥ねられる。→肯定(◎)
Y,not-X=胴体がない首は撥ねらる→否定(〇)
X,not-Y=胴体がある首は撥ねられない。
not-x、not-Y=胴体がない首は撥ねられない

否定を選択した「胴体がない首は撥ねられる」は、「胴体がない首は撥ねられることはない」と表す。結果、命題は「胴体のある首は撥ねられる」と完成になるのでは?




Tim Burton’s Tricks and Treats,
Harper’s Bazaar, October 2009
(C)Harper's Bazaar  ハーパース・バザー


ティム・バートンのハロウィンファッションのような特集。まるで女王陛下の薔薇と庭師のような二人だったので、画像引用をした。

ほかにも数枚ある。まるでVogueのアニー・リーボヴィッツを意識したような連続性のあるページ。

記憶に間違いがなければ左がTao Comme des Garçons(タオ・コム デ ギャルソン)、右がサルヴァトーレ・フェラガモ(Salvatore Ferragamo)。

ティム・バートンの映画のキャラクターがモデルをつくりあげている。ちなみにこの画像は雑誌掲載ページのものではない。同じ写真だけれど。

このシリーズでは、Louis Vuitton、  Jean Paul Gaultier Atelier、Oscar de la Renta、Nina Ricci、Chanel、 Giorgio Armani、Alexander McQueen、とか。

カナふらなくてもわかるブランド。でしょ。

ただ、アニー・リーボヴィッツと比較するとどうかな。

追記



アベラルド・モレル 首を刎ねよ 1998 不思議の国のアリス
(C)ABELARDO MORELL

写真家アベラルド・モレルの不思議の国のアリス(15枚)の1枚。詳しくはこちらから。

アベラルド・モレル 不思議の国のアリス1998
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ポール・スカロン マントノン夫人の最初の夫
作家 / SAI


ポール・スカロン
1638年以前のポール・スカロン


マントノン夫人は賢いとされているが、僕にとっては計算高い女性の一人だ。

最初の夫ポール・スカロン(1610-1660)。風刺の効いたスカロネスク様式を確立したといわれている。

ポールとの結婚は耐え難い貧しさのためとされている結婚だが、その前にひとつ縁談話があった。

老公爵との結婚話。これにはそっぽを向いたと言う。

ところが、風采があがらないが名声のある喜劇作家ポール・スカロンに求婚され、結婚に至る。風采があがらないとうよりも、本人自身が滑稽な顔立ちとその体格。

だが実際に会って二人は結婚した。



マントノン夫人フランソワーズ・ドービニェ
1651年-1660年の間 ポール・スカロンの妻だった。


ポール・スカロンは、すでに地位も名声も手に入れていた。なぜに監獄で生まれた女を妻に娶りたかったのだろうか?

15歳という若さか。それとも美しさか。プロテスタント作家だった祖父アグリッパ・ドービニェに興味が惹かれたのか。

それとも普通の結婚ができない互いの境遇を認めたからか。

当時スカロンの文学サロンには、信仰や宗教的戒律に従うことを拒否して自由に振舞う精神を標榜するリベラルタンが集まっていた。

ここの風潮が写実主義や俗悪さをめざしたピュルレスク(バーレスク burlesque)と呼ばれるものである。

艶笑と俗悪な風俗。そして道化芝居と同性愛者たち。


Mme. de Bouvillon Tempts Fate by Asking Ragotin to Search for a Flea


たぶん滑稽旅役者物語(ロマン・コミック)
マダム・ド・ブヴィヨンと主要人物ラゴタンのシーン
ちなみにBouvillon(ブヴィヨン)とは去勢された牛
by ジャン・バティスト・パテール(Jean-Baptiste Joseph Pater)


これに対するサロンには趣味の洗練をめざす才子女らは、経済力と血筋、ファッションと作法、そして会話から世俗的なものとの差別化として、プレシオジテ(Préciosité インテリ、気取り)に集まる。



17世紀フランスの銅版画家アブラハム・ボッス(アブラハム・ボス)
作品「プレシオジテの集まるサロン」


ポール・スカロンの父は同じ名で、高等法院の一人。法服貴族だったのだろう。一方息子のポールはパリで学業を終え、19歳のときに聖職に就くも、誓願を立てず、世俗的生活を送っていた。つまり根っからのリベラルタンだ。

1633年にル・マンの司教シャルル・デ・ボーマノアールに仕え、彼が亡くなったあとの後任を期待したが、突然結核性リウマチにかかり、司教職をあきらめた。

逸話には、二月の春のカーニバルで鶏をむしった羽を裸のまま身体中につけて、馬鹿騒ぎをした報いだともいわれている。



発病後のポール・スカロン 作者不詳
顔や身体が奇形し、ねじれるような痛みと戦う人


この頃、リシュリューによって、高等法院議員職を解かれた彼の父は、ほとんどポールに遺す財産はなかった。継母が財産を押さえているから。

そうした経済的状況とポールの身体の腫れや痛み、そして身体の奇形はおさまらない。

それでも生活の糧は稼がなくてはならない。思い違いでなければ、ギネという本屋で働いた経歴があるようだ。

そこではギネ侯爵と自分を呼んだという。のちに作品になったのだろうか。


LE VIRGILE TRAVESTY


ポール・スカロンの傑作といわれる戯作ウェルギリウス
あるいは「仮装のウェルギリウス」とも


さて自分との戦いがはじまる。

滑稽で気味の悪いポール・スカロンに興味が湧くのは、絶望の時にこそ、ユーモアを忘れず、ウィットに富んだ洒脱な人だからだ。

ル・マンでのポールは耐えることと考えることが多くなる。そしてある時ひらめきを感じたのだ。

ここでは運良くマリー・デ・オートフォー嬢(ルイ13世のお気に入り)というパトロンが見つかり、1640年にパリにもどる。ピュルレスク詩人スカロンの洒脱で洗練された作家として名声をあげることができた。


Peinture de larrivée des comédiens au Mans, daprès le roman de Scarron: Le Roman Comique. La peinture fut entamé en 1712 et achevée en 1716. Ce nest que la plus connue dune série de plusieurs autres, faites pour célébrer le plus célèbr


ジャン・ドゥ クーロム(ジャン・バティスト・クーロム)の作品
ロマン・コミック登場の旅芸人一座を描いている。
たぶん右上の女性がレトワル(星の意)ではないか。


「ビュルレスク詩集」(1643)、「戯曲 ジョーデレ(ジョドレ、または主人になった下男)」、「ラ・マザリナード」(1651)、「ロマン・コミック」(1651、これは未完で終わっている)、「アルメニアのドン・ジャフェ」(1653)などなど。

ちなみに、日本では「ロマン・コミック(滑稽役者物語)」は翻訳もされて人気もあるが、「戯作ウェルギリウス(Le Virgile travesti)」(1648年−52年)が一番有名だともいう。

このポールをオートフォー嬢はルイ13世の王妃アンヌ・ドートリッシュに引き合わせたのだ。このときマザラン枢機卿からも年金を賜っている。




王妃アンヌ・ドートリッシュ
by ピーテル・パウル・ルーベンス


いよいよ、フランソワーズ・ドービニェ(1635-1719)が彼のサロンにあらわれた。きっと子供だと勘違いをしたかもしれない。ポールの成長が止まった身体を見るなら。

一生尼僧で暮らすのが嫌で、なんとか修道院から逃げ出したい。しかし持参金もない。だが今回はそっぽを向かなかった。

二人の間で文通がはじまる。

1651年に彼との結婚を受け入れ、スカロン夫人となる。 ポールが亡くなるまでの9年間、彼の妻であり、看護師であり、彼の社会的なパイプとなった。

新婚当時はロンドの乱の頃。

フロンドの乱(1648-1653)ではポール・スカロンはフロンド側にいたと思う。結婚の年はルイ14世(1638-1715)は13歳。フランソワーズは16歳。ポールは41歳。


JulesMazarinNanteuil


ジュール・マザランの肖像画 1659年
by ロベール・ナントゥイユ(Robert Nanteuil)

パリに派遣されたときにリシュリューの信任を得て、ルイ13世により
枢機卿就任。ルイ13世の死後に、秘密結婚の噂がある王妃アンヌ
の相談役。フロンドの乱を鎮圧し、コルベールを登用。王権を強化。



この1651年にポールが出版したのは、「ラ・マザリナード」だ。

たしかギリシャ神話のテュポン(テューポーン)とフロンドの乱を鎮圧するマザラン枢機卿を揶揄したものだったと思う。

マザランへの風刺と戯れ歌や詩はポールだけではなく、シラノ・ド・ベルジュラックの「レ・マザリナード」をはじめ、当時の作家たちは書いたものだ。

小物の政治家よ リシュリューにさえ及ばない 
取りえはなんと色事、遊興 偉大な詩人を蔑んで 徳などなくて 獣並み

四肢も臓器も八つ裂きで 敷石は血に溢れ
首のかわりに睾丸を 槍の先にくくりつけ 戯れ歌がちまたに流行るだろう

(ポール・スカロンのラ・マザリナードより抜粋した意訳と要約)

きっとポールは年金をさっさと受け取ったあとに書きあげたに違いない。



ルイ14世 1648年
フロンドの乱がはじまった年のルイ14世 10歳の頃

ルイ14世 唯一の信仰 唯一の法 唯一の王
ルイ14世 王権神授説の宮廷絵巻
ルイ14世 芸術への愉楽
ルイ14世 コルベールの重商主義芸術政策
ルイ14世 スペイン継承戦争 フェリペ5世への箴言

このフロンドの乱で、ポールはフロンド側の疑いを持たれたわけだが、パトロンにあたる女王やニコラ・フーケだったために、難を逃れたはずだ。

僕は読んではいないが、「コルセール王子」、「自分自身の番人」というものも書いているらしい。このコルセール王子とは血のプリンス (prince du sang)と呼ばれた「コンデ大公(反コンデ)」を書いているのだろうか。

黄色いサロンとよばれたポール・スカロンのサロンには、実にさまざまな人物が出入りしている。ルイ14世の公妾マリー・マンチーニ、ダルブレ元帥など格式よりも自由を満喫するものたち。そこには自分のサロンをもつニノン・ド・ランクロ(Ninon de l'Enclos)も友人としてきていた。

クルチザンヌ(高級娼婦)のニノンは、リベラルタンの風潮にもあっているかもしれない。

ニノンのサロンにはボワロー、ラ・フォンテーヌ、リュリ、ヴォルテール、モリエールらが出入りし、ここにポール・スカロンとフランソワーズも招かれていた。

ここではじめてお忍びのスウェーデン王女クリスティーヌと出会う。のちに家臣のモナルジテを無残にも暗殺した孤独な女王だ。



「ポール・スカロン 1660年」
アントワーヌ・ポワゾの1736年の作品


詩、劇、小説などさまざまな分野で活躍した時代の寵児ポール・スカロン。 

その才能は社交にも及ぶ。麻痺した身体で帽子をとるためつくった滑車。帽子を手にとり挨拶がわりにしたという。

肉体も容貌も苦痛で歪んだ。この時代、痛みをとるには阿片を相当使用したことだろう。

日本茶は、貴重品扱いだったコーヒーやココアより高く、シナ茶は70フラン、日本茶は140フランするほどだったが、この日本茶を愛飲したのはポール・スカロン。きっとリウマチに効くと聞いたからに違いない。

だが、1660年10月にポール・スカロンは全ての苦痛から解放された。

奇形の身体とその苦痛と並ならぬ才能は、子どものような小さな棺に収められる。


いままさに眠ろうとする男は これまで人を羨むより以上に人を憐れんだ。
またこの男は生命を失う前に 千度も死の苦しみを嘗めた。
どうぞ道行く人よ、ここでは物音を立てないでくれ。
哀れなスカロンが眠る 最初の夜が来たのだから。

by ポール・スカロン

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